袁紹~束縛の間にて
袁紹の悪夢に出現する怪物は、多かれ少なかれ袁紹とつながっています。
母親の幻影も、袁紹にこめられた母の意志が主体をなしているとはいえ、袁紹の心の重要な部分がこめられています。
特に生前袁紹の生き方を支えていた三人目の母については、袁紹と心を共にする部分がかなり多い訳ですから……倒せば当然、袁紹にも影響が出ます。
袁紹は、一人燃え盛る部屋で苦しんでいた。
信じたくない己の心と、幸せを望む我が子の祈りが心を板挟みにして押しつぶす。
(嫌だ、信じたくない!
わしは、曹操を……!)
気が付けば、曹操はどこかに去っていた。
しかし、これで終わりではないと思う。
曹操は、きっと戻ってくる。
それがいい意味であれ、悪い意味であれ、このまま放置されることはない。
戻ってきた時に自分に与えられるのは、救いか、それとも二度と戻れぬ暗闇か……それを考えると、胸の奥がぞわりと疼いた。
しばらくして、袁紹の体に大きな衝撃が走った。
喉から首の後ろに突き抜けるような、骨を断たれるような圧倒的な痛み。
(母上に、何かあった……?)
この痛みは、幻覚ではない。
自分ではないが、影響の大きい何かが傷つけられた感じだ。
程なくして、袁紹のすぐ側に張りつめた気配が現れた。
「母上……!」
床に生じた黒い染みから浮かび上がってきた母の姿に、袁紹は愕然とした。
母上の、首がない!
自分を支えてくれた、恐ろしくも愛しい母の体には、首から上がなかった。
その切り口から、どろどろと黒く粘つく体液が流れ出ている。
ふいに、頭の中に母の声が響いた。
(本初、曹操は、ワタクシを許しマセんでした)
その瞬間、袁紹の心を絶望が覆った。
曹操は、自分と本当によく似たこの母を、理解できずに首をはねたのだ。
曹操が自分に与えるのは、救いではなかったらしい。
もうすぐ曹操がここに戻ってくれば、きっと自分も同じような目に遭うのだ。
理不尽に恨まれ、蔑まれ、この想いも武勇伝の一つに埋もれてしまうのだろう。
そんな袁紹の気持ちが伝わったのか、母は袁紹にささやく。
(本初、モウ誰にも、あなたを傷付けサセません。
母と一緒ニ、誰にも届かナイところに行きマショう)
母の首からあふれ出た黒い体液は、床に広がって黒い沼を作っていく。
(サア、一緒に沈みまショ。
そうしタラ、もう誰も、追ってはこラレないから)
黒い沼は床を溶かし、だんだんと深くなっていく。
いつの間にか、袁紹の体は黒い沼に引き込まれていた。
怪物の黒い手が、袁紹の体を捕まえ、さらに強く引きずり込む。
このまま沈んでしまえば、楽になれる?
心を閉ざして、自ら地獄に落ちてしまえば、何も考えなくていい?
もう傷つかなくていい?
袁紹の意識が、薄れていく。
しかし、意識が闇に堕ちるかと思われたその刹那、優しい一人の面影が脳裏をかすめた。
(我が君、どうか安らかに……)
それは、辛毗だった。
辛毗は、袁紹のために涙を流して祈っていた。
そして、もし曹操に救われなくても、自分が救うと約束してくれた。
それを思い出したとたん、袁紹の意識がはっきりと戻った。
「辛毗!!」
そうだ、自分にはまだ救ってくれる者がいる。
その気持ちを、辛毗が伝えてくれた袁家の皆の気持ちを、無駄にする訳にはいかない。
袁紹は沈みゆく体を奮い立たせて、必死で叫び声を上げた。
「うぉあああ!!!」
曹操に、ここに来てほしい。
救いがなくても構わない、どうか自分をここから引き揚げてほしい。
濃厚な闇を切り裂いて、袁紹の悲鳴がこだました。
曹操は、息を切らして元の部屋に走り込んだ。
「袁紹!!」
旧友の姿を求めて部屋の中を見回す。
そして旧友の姿を認めたとたん、曹操はかっと目を見開いた。
袁紹は、黒い手に捕まれて漆黒の沼に引き込まれていた。
床に生じた黒い沼は、蟻地獄のように徐々に広さと深さを増していた。
その沼から伸びる黒い手に捕まれながらも、袁紹は必死にもがいている。
助かりたくて、必死に手を伸ばしている。
「今、助けるぞ!」
思うより先に、体が動いた。
曹操は、すぐさま沼の淵に駆け寄り、袁紹に手を伸ばした。
袁紹も曹操の姿を認めると、手を伸ばした。
「曹操……助けてくれ、沈みたくない!!」
袁紹ははっきりと、曹操に助けを求めた。
曹操もそれに応えて、その手を取ろうと必死に体を伸ばす。
しかし、その手はお互い空を切るばかりだった。
沼はだんだん深くなり、二人の指先をわずかずつ離していく。
生前、二人が少しずつ離れていったのと同じように。
曹操は自らも沼に入ろうとしたが、それはあまりに危険だと知った。
本当に床との境目辺りでも、沼の深さは底が知れなかった。
一歩でも踏み込んだが最後、自分も一緒に引き込まれてしまうだろう。
(くそっ……何か掴まる物は……)
二人の手だけでつなぎ合うのは、もう無理だ。
何か、長いものでつなぐことができれば……。
無意識に床を探った曹操の手に、カチャリと何かが触れた。
見れば、それは金属製の丈夫で長い鞭だった。
「これは……!」
考えている暇はない。
曹操はすぐさま、袁紹にその先端を投げた。
「袁紹、これを掴め!
早く!!」
その鞭を見たとたん、袁紹は一瞬驚いたような顔をした。
そして迷うことなく、その鞭を掴んだ。
今、二人の心は不完全ながらもつながった。
袁紹は黒い手にまとわりつかれながらも、必死で体制を立て直す。
曹操は渾身の力をこめて、袁紹とつながる鞭を引っ張った。
曹操が拾った鞭は、辛毗編で辛毗が使っていた鞭がそのまま残っていたものです。
曹操と袁紹の心は離れすぎて、自分たちだけの力ではつなぐことができませんでした。
しかし、心優しく二人ともの心を知る辛毗が、二人の心を結びます。
生前の袁紹を色濃く映した悔恨の館、いよいよ終盤です。