曹操~束縛の間にて(5)
曹操はようやく、袁譚からの手紙を読むことができました。
袁譚は、その手紙を通して袁紹に何を伝えたいのでしょうか。
そしてこれは、曹操へのヒントにもなっています。
許されざる罪を犯し、地獄に落とされた息子の最期の想いを、どうか受け取ってみてください。
曹操は、震える手で手紙を開いた。
茶色い焦げが、懐かしい筆跡を描き出す。
「お父上へ……」
曹操は、思わず口に出してその手紙を読んだ。
「お父上へ
私は、愚かでした。
誰よりも私を愛してくれた、かけがえのない貴方を最後まで裏切ってしまったこと、私は心の底から悔いております」
とたんに、曹操を追って来ていた袁紹の足が止まった。
「待て、曹操……それは何だ?
おまえは、何を読んでいる!?」
袁紹の顔に、動揺が浮かんだ。
曹操は、ここぞとばかりに袁紹に手紙を突き付ける。
「おまえの息子からの手紙だ!
見よ、やはりおまえへの言葉が書いてあったぞ!」
それを直視した瞬間、袁紹はひゅっと息をつめた。
顔から、血の気が引いていく。
一瞬の大きな震えに、奥歯ががちがちと鳴った。
曹操は袁紹に正面から向き合い、その手紙を読み上げた。
「私は、傲慢でした。
お父上などいなくても、何でも自分の方が優れていると思いあがっていました。
何と愚かで恥ずかしいことでしょう。その恥をそそぐために、私は今、地獄の暗い穴で責め苦を受けております」
いつの間にか、曹操の声に別の声が重なっていた。
<しかし、地獄のどのような責め苦も、私が父上に与えてしまった苦痛には及ばないでしょう。
私は、父上が私を許せなくなるまで、我々親子が戻れなくなるまで父上を苦しめてしまいました。
その罪は、万死に値します>
その声は、どこか幼さが抜けきらない、袁紹に似たよく通る声だった。
袁譚の部屋を出る時に聞こえた、あの謝罪の声と同じだった。
<私は、拭えぬ罪を償うために、この地獄で罰を受けます。
でも、お父上は、どうか私のことをお気になさらず幸せになってください>
それは、懺悔の手紙だった。
そして、晴れぬ暗闇にいる父の幸せを願う、袁譚の最期の親孝行だった。
袁紹が、頭を抱えて体を折り曲げる。
「や、やめよ!
それ以上読むでない!!」
袁紹は、必死に目をつぶってかぶりを振っていた。
「私に、完全に幸せになる資格などないのだ……。
おまえを地獄に落とした、こんな私に……!」
袁紹は、心を軋ませる葛藤に悶えた。
認めたいのに認めたくない、両側からすさまじい感情が押し寄せている。
曹操は、そんな袁紹を安らげるように、優しい声でその手紙を読み進めた。
<私とお父上は、もう戻ることはできません。
しかし、戻ることはできなくても、私は未来に幸せを願います。
お父上と再びお会いして、今度こそ愛し合える未来を>
読んでいるだけで、曹操も目頭が熱くなるのを覚えた。
袁譚は、本当に心から袁紹のことを慕っているのだ。
<だから、お父上も、未来に希望をなくさないで。
本当に大切な人との、絆をあきらめないで。
お父上は、幸せになっていいのです!>
突然、袁紹の輪郭がぼやけた。
苦しむ袁紹の体が、急に大きくなっていく。
顔の彫りが深くなり、髭が生えてしわができる。
着物が長くなり、やがて見慣れた鎧をまとう。
髪に白髪が混じり、艶を失っていく。
袁紹は、死んだ時の本来の姿に戻っていた。
そんな袁紹の心の嵐を投影したように、部屋の隅の炎が大きく燃え上がる。
部屋の入り口をふさいでいる鉄格子が、真っ赤に焼けただれて光を放つ。
袁紹の心が、開こうとしているのか。
曹操は、ゆっくりと息を吸い、袁紹の目をまっすぐ見つめて最後の一言を読み上げた。
<愛しいお父上、生まれ変わっても、またお父上の子供がいいな>
「うああああ!!!」
袁紹の絶叫が、部屋中にこだました。
その空気の震えは、一陣の風となって入り口に向かって吹き抜ける。
炎が、風にあおられて天井まで燃え上がった。
赤く輝く鉄格子が、溶けて崩れ落ちていく。
溶けた鉄格子だったものは、炎に巻かれて天へと上る。
その突風に耐えきれず、入り口の扉が開いた。
「少し待っていろ、袁紹!」
曹操は、すかさず部屋から飛び出した。
行先は、決まっている。
曹操の手には、辛毗からの手紙が握られていた。
曹操と袁紹の両方に仕え、君主とあおいだ辛毗。
袁紹から曹操へ、河北の民の想いをつないだ辛毗。
そして袁紹の悪夢から現世の曹操へ、死から生への手紙を届けた辛毗。
その手紙は、一部がじっとりと濡れていた。
曹操が、こらえきれなかった涙を拭う暇もなくその手紙を掴んだせいだ。
その濡れた部分にだけ、黒い染みが浮き出ていた。
(これが、おまえの想いなのだな、辛毗!)
曹操には、その意味が分かった。
この手紙は、水に濡らすと文字が浮き出る。
水のある場所は、分かっている。
あの継母の部屋、花瓶の中だ。
(袁譚よ、おまえの気持ち、無駄にはせぬぞ!)
曹操は、生前は敬意のかけらも持てなかった袁譚に、初めてお礼を言った。
そして、必ず袁紹を幸せにすると誓った。
袁紹の心は、開いた。
後は、つなぐだけだ。
辛毗に託された思いを手に、曹操は再び館の暗闇に身を投じた。
袁譚の幸せを願う手紙に、袁紹が本来の姿を取り戻しました。
入り口の鉄格子が外れたのは、袁紹の頑なな心が開いたことを意味します。
次回、今度は辛毗の想いが未来への道を示します。
許されなかった袁譚は罰の火、許し合えた辛毗は涙の水……二人とも、袁紹に幸せになってほしいのです。