曹操~束縛の間にて(1)
袁紹は曹操に傷つけられた痛みに耐えきれず、再び名家の威光に身を委ねてしまいます。
一方曹操は、必要なものは揃っているのだから友情は元に戻せると信じて疑いません。
そんな状態で、本当の救いは得られるのでしょうか。
曹操は、血錆が塗り込められたような扉の前に立っていた。
そこは、かつて袁紹が使っていた子供部屋だ。
「なるほど、こちらのここにいたか」
曹操は、ニヤリと笑って扉の取っ手に手をかけた。
白い霧の世界では、袁紹の部屋は別の人物の部屋に置き換わっていた。
本来の袁紹の部屋は、こちら側にあったのだ。
簡単には入り口を見つけられないように、巧妙に隠してあった。
まるで、昔のかくれんぼみたいだ。
そうでなくても、袁紹は本当に嫌なことに耐えられなくなると隠れてしまうことがあった。
例えば、父親が死んだ時も、簡単には見つけられない場所に隠れてしまって何年も出てこなかった。
そういうところは、死んでも変わらないらしい。
「さて、連れ出すのは簡単ではなさそうだが……」
扉を開ける前に、曹操は少し思案した。
これまでの館の中の様子を考えるに、こちらの袁紹は自分をひどく拒絶しているようだ。
素直に来いと言っても、来てくれる確率は限りなく低そうだ。
「だが……やってみぬ事には先に進まぬ」
それでも、曹操は袁紹に会おうという結論に達した。
できるできないではない、やるのだ……曹操は、そういう考えの持ち主だ。
たとえ、袁紹が自分を拒んでいようと、そんなものは袁紹の都合でしかない。
辛毗が何か企んでいようと、自分が足を止める理由にはならない。
救いを望みながら抵抗するなんて、矛盾でしかない。
曹操は、理論で割り切れないことは嫌いだった。
だから、袁紹や辛毗の考えることが理解できなかった。
(袁紹も、己が救われたいのなら早く素直になればいいものを!)
曹操は、袁紹の不可解な態度に苛立ちを覚え始めていた。
(おまえは死んでも意識があるのだから、それに感謝してやり直せばいいのだ。
取り戻せるものを自分から捨てるなど、非効率にも程がある)
全く、世話の焼ける旧友だと。
そんな袁紹を正気に戻してやろうと、曹操は扉の取っ手に力をこめた。
部屋の中は、焼けるような熱さだった。
部屋を囲むように、炎に包まれた四方の壁。
侵入者の足を貫かんと、縦横無尽に床を這う有刺鉄線。
曹操が入ったとたん、扉は勢いよく閉まった。
さらに上から鉄格子が下りてきて、獲物を確実に逃がさぬように封鎖する。
「何をしに来た、曹操?」
暗がりから、聞き覚えのある声が響いた。
見れば、部屋の中央に二人の人影が佇んでいた。
「おまえが招いたから、それに応じたまでよ。
悪いか?」
曹操は、落ち着いて返した。
「招いた……か、そうだな。
私はおまえに会いたかった、それは間違いない」
目が慣れてくるに従って、佇む袁紹の姿がはっきりと見えてくる。
それは、外に置いてきた裏の袁紹とは似ても似つかなかった。
低い背丈、髭もしわもない幼い顔。
鎧もまとわず、ただ不釣り合いに長い大人用の剣を握っている。
それは、曹操も知っている少年時代の姿だった。
少年時代といっても、袁術の館にいた時よりはだいぶ成長している。
ちょうど、この館に移って名門の嫡子としての生活に慣れ、周りにもそう扱われるようになってきた頃の姿か。
だが、その瞳に宿る光は昔と同じではなかった。
袁紹は、氷のような冷たい目をしていた。
拒み、蔑むような目で曹操を見つめ、口を開く。
「何だ、何を失望している?
お前は私に何を期待していたのだ?
この私の心を、貴様ごときが読み切れると思いあがるな!」
高圧的で、威光を押し付けるような言い方。
まるで、あの時、洛陽で最後に分かれた時のように。
「私がおまえの助けを欲しているなど、貴様の都合のいい妄想にすぎぬ。
あの幼くみじめな私はそうかもしれぬがな、『袁紹』はあくまで私だ。
貴様の思い通りになどならぬわ!」
まだ声が変わる前の、甲高い声。
その姿と言葉のずれは、こっけいなほどだ。
曹操は苦笑した。
「辛毗に手紙までことづけて置いて、よく言うな。
おまえだって、元に戻れた方が楽であろうに。なぜそれを拒む?」
それを聞いた途端、表の袁紹はいかめしく胸を張ってフンと鼻を鳴らした。
「戻れるだと……何をほざいておる!
初めに私を裏切って、戻れぬようにしたのはおまえではないか!!」
「戻れぬ……か。
おまえはこうしてここにいるのに、なぜ自ら道を閉ざす?」
曹操は、不思議そうに問う。
だって、袁紹も曹操もここにいるのに。
お互いが昔のことを水に流せば、一瞬で解決することではないか。
なのになぜ、わざわざ争おうとするのか分からない。
袁紹はわずかに眉を寄せて唇を噛み、ぶんっと剣を振り上げて構えた。
「やはり何を言っても、貴様には理解できぬようだな。
このうえは、私の痛みごと貴様を断ち切るまで!」
その声に応えるように、袁紹の背後にいたもう一人の影がゆらりと広がる。
それは、上品な女のような怪物だった。
怪物だと分かったのは、顔に口以外の器官が存在しないから。
広がったのは、髪の毛のように頭から生えた無数の黒い手だ。
(なるほど、これが母親か。
確かに面影はあるな!)
そいつに言葉が通じないであろうことは、曹操にはすぐに分かった。
この怪物は、あくまで袁紹の負の感情の一部だ。
袁紹本人が話を聞いてくれない限り、あの化け物も攻撃の手を緩めないだろう。
「さあ母上、一緒にあの不届きな卑賤の輩を倒しましょう!
そして、袁家の栄光を示すのです!」
袁紹が、わざとらしいほど堂々と曹操に剣を向ける。
どうやら、交渉は失敗だ。
曹操は小さく舌打ちして、自らも愛用の名剣を構えた。
袁紹と曹操の会話は、まるでかみ合いません。
これは、曹操が効率的な思考のあまり人の感情の不条理を理解できないからです。
恐怖に縛られて逃げられない奴隷に、「自分で逃げればいいじゃん」で事態が解決するでしょうか。