袁紹~悔恨の館にて
曹操の予想通り、袁紹は裏世界のどこかにいます。
曹操は袁紹を助けるつもりで袁紹のもとに向かいますが、表の袁紹にとって曹操との再会は耐えがたい痛みをもたらすものでした。
袁紹がその痛みから逃れようとあがいた時、呪縛が蘇ります。
表の袁紹は、熱風の吹きすさぶ部屋で横たわっていた。
黒焦げのいばらから、ぶすぶすと煙が立ち上る。
部屋の隅は、すでにそこの転がっていられない熱さになっている。
「はあ……はあ……!」
袁紹の顔は、言い表せない恐怖と怒りに歪んでいた。
(曹操、が……こちらに、来る!!)
その気配がこちら側に来たのは、すぐに気付いた。
今はまだ母の部屋にいるが、そのうちここに気づいて自分の前に姿を現すだろう。
その瞬間を思うと、袁紹は胸を引きちぎられるような思いだった。
(来るな……いや、来てほしい。
だが、おまえは私を……!)
希望と絶望が交錯し、両側から袁紹の心を力任せに引っ張る。
袁紹の心は軋んで、ほつれて、整える暇もない。
(嫌だ、もう裏切られるのは嫌だ!
……だが、もし本当に私を救ってくれるならば……。
……駄目だ、信じるものか!信じれば、救われぬ!!)
幼い頃、地獄のような家から連れ出して仲良く遊んでくれた、気のいい曹操。
大人になってから、自分をいいように利用して踏みつぶした、卑怯で冷徹な曹操。
二つの面影が、走馬灯のように回る。
表の袁紹は、苦しくてたまらなかった。
曹操にすがりたくてたまらないのに、すがれば裏切られると記憶がわめく。
袁紹は、少しでも楽になりたかった。
曹操は自分を楽にしてはくれない、苦しめるばかりだ。
ならば、自分が楽になれる道は……。
(あ、あ……母上!)
袁紹は、生きていた時間の中で一番楽だった時間を思い出した。
それは、檻の中の玉座。
名門袁家の長として、敷かれたレールの上を走っている時だった。
自分の意思では、何も考えなくてよかった。
身分に合わせて振る舞うだけで、皆が自分を助けてくれた。
曹操などの手を借りなくても、牢屋の格子に身を任せていれば立っていられた。
(紹、おまえはただ、役目を果たせばいいのです)
袁紹をその檻に入れた三人目の母親は、そう言った。
本来の自分が否定されるのは悔しかったが……彼女は確かに、袁紹を楽にしてくれたのだ。
一度ははねつけた呪縛。
しかし、これほど袁紹に安定を与えてくれたものが他にあっただろうか?
「は、母上……助けて!
わたし、を……助け、て……!!」
表の袁紹は、息も絶え絶えに叫んだ。
それに応えるように、いばらの棘が鋭く伸び始める。
黒い焦げがぼろぼろと剥げ落ち、黒光りする有刺鉄線に変貌をとげる。
くすぶる煙の下から、ちろちろと炎が舌を伸ばす。
楽になりたい、楽になっていい、楽になればいい……。
一度は壊したはずの檻が、本人の望みによって再び形を整えていく。
床には有刺鉄線が縦横無尽に這い回り、部屋を囲む炎が大きく燃え上がる。
不意に、有刺鉄線の茂みにひっかかっていた何かが動いた。
「ワタクシの、イトしい……本初……」
懐かしく、どこかうつろな声が聞こえた気がした。
ずるり、と何かが引きずられる音がする。
愛する息子の呼び声に答えて、彼女は起き上がった。
いや、引きずり起こされた。
見えない何かに持ち上げられるように、のけ反ったまま立ち上がる。
カチャリ、と乾いた金属音。
彼女を縫いとめていた、剣が外れて転がる音だ。
ただ髪のように垂れ下がっていた黒い手に、再び生気が注ぎ込まれる。
それ自体が命を持つように広がり、うねうねと動き始める。
「だいじょウぶよ、本初……。
母が、守ってアゲますからね」
表の袁紹は苦しげに眉根を寄せてその姿を見ていたが、やがて嬉し涙を流して母に手を伸ばした。
「母上!」
一度は拒絶し、自らの手で葬った母。
しかし、もはや曹操から守ってくれるのは彼女しかいないのだ。
彼女は慈母の眼差しで袁紹を見つめ、手を差し伸べた。
彼女の顔に目は存在しないが、袁紹は確かに感じたのだ。
(ああ、これで私は楽になれる……)
このおぞましい怪物を前に、袁紹の心には安堵が満ちていた。
曹操に頼らずとも、自分を立たせてもらえる安堵が。
袁紹の記憶が、遡っていく。
この母に守られて、栄光に満ちた日々を送っていた少年の時代に。
目元や口元のしわが消える。
まとっていた鎧が新しくなっていき、そのうち鎧そのものが消えてしまう。
白髪交じりだった髪は、黒く艶やかに輝き始める。
母の手を取って苦痛から解放された時、袁紹の姿は母が生きていた頃のそれに変わっていた。
黒焦げのいばらは、焼け残った有刺鉄線。
部屋を囲むようにくすぶる煙は、炎の名残……袁紹の中に、袁家の束縛を望む思いがまだ残っていることを意味します。
そして、母親の幻影は元々袁紹が作り上げたのですから、袁紹が強く望めば再び……。
次回、曹操と表の袁紹の再会です。