曹操~悔恨の館にて(5)
前話で袁紹がのたうち回っていたのは、裏世界のどこかです。
現在曹操が探索している館は、まだ表のままです。
ところで、曹操が憎悪の館を攻略した際には、館はボス戦時まで裏世界化を起こしていませんでいた。
しかし、今回はどうでしょうか。
曹操は、初めて三人目の母の部屋に踏み込んだ。
かつて何度もこの館に遊びに来たが、ここに入ったのは初めてだった。
この部屋は、いつも鋭く張りつめた気配に満ちていた。
自分が許した者以外の侵入を拒む結界のようなものに弾かれて、入ろうとさえ思えなかった。
袁紹がここで母と話している時は、自分は外で待つことしかできなかった。
きちんと帰ってくるんですよ、紹。
彼女は、袁紹の体に印でも刻むようにこう言った。
彼女は、袁紹を下賤な者に触れさせたくなかったから。
この部屋にいる限り、卑しい者は入って来られないから。
思えば、この部屋こそが袁紹を閉じ込めていた牢獄の監視室だった。
「ここが、その机か」
曹操は、部屋の中央に置かれている清楚な机に歩み寄った。
そこには上等な絹が敷かれ、花を活けた花瓶が置かれている。
その白い絹の上に、場違いな赤黒い文字があった。
『袁譚顕思、ここに堕つ』
その文字に顔を近づけると、かすかに生臭い臭いがした。
これは、血文字だ。
その赤黒い色は、血だと分かった。
それも誰かが指で書いたように、太く、指の形さえ見て取れる。
(どういう意味だ?)
曹操は困惑した。
ここは袁紹の悪夢であって、現実の世界ではない。
それなのに、ここに袁譚の名前があるのはなぜだろうか。
確かに、この館は袁紹が袁譚を育てた館でもある。
それを考えれば、痕跡があってもおかしくはない。
だが、しかし……。
「堕つ、とは……どういう意味だ?」
考えられるのは、この館で袁紹と袁譚の間に何かあったのではないかという事だ。
しかし、それが何であるかは、今の曹操には分からない。
そこまで考えて、曹操はふと気づいた。
(辛毗は、何も知らなかったのか?)
曹操に手紙を届けてくれた辛毗は、先にこの館を訪れているはずだ。
同じ部屋を通っている以上、辛毗がこれを見ていないとは考えにくい。
ならば、なぜ教えてくれなかった?
曹操の部下である以上、主の身を思えば全てを伝えるのが筋だろう。
その方が、手っ取り早く袁紹を救えるではないか。
(辛毗め、何か考えておるな……!)
曹操は、思わず歯噛みした。
辛毗は、意図して曹操に全てを伝えなかった可能性が高い。
これはかつて仕えていた袁紹への、忠誠の名残か。
「敵は袁紹だけではない、ということか!」
苦々しく眉間にしわを寄せながら、曹操は再び手紙を懐にしまい込んだ。
今この部屋で得られそうなものは何もない。
念のために引き出しや鏡台なども探ってみたが、特に気になるものはなかった。
しかし、曹操が念には念を入れて花瓶をひっくり返した時、それは起こった。
「な、何!?」
花瓶から流れ出たのは、透明な水などではなかった。
赤黒くどろどろの血糊が、花瓶から流れ出たのだ。
「しまった!」
曹操は慌てて花瓶の口を上に向けたが、もう止まらなかった。
花瓶の口から、あふれるように血が湧いて流れる。
その血は床に落ちると、みるみる広がり出した。
壁にも天井にすら這い上がり、すべてを闇の色に染めていく。
曹操が花瓶を床に放り投げた時には、すでに世界は暗く汚し尽くされていた。
床や壁にはびこる血のような汚れ。
さっきまでは薄暗い程度だったのが、今は急に夕闇に包まれたようだ。
それに何より、全身の毛が逆立つようなおぞましい気配。
先ほどの袁術の館とは、比べ物にならない悪夢だった。
「……袁紹、おまえは本当に救われたいのか?
それとも……」
かすかに湧き上がる疑念をひとまず置いて、曹操は歩き出した。
変わったのは、ここだけではあるまい。
さっき巡ってきた場所も、ここのように変わっているはずだ。
それに、きっと袁紹はこちら側で待っているのだろう。
さっき曹操は館のほとんどの場所を探ったが、袁紹はいなかった。
しかしこうして別の世界があるのなら、そちらのどこかに隠れている可能性はある。
この館に帰ってきていることだけは、確実なのだから。
部屋を出ようとして、曹操はふと気づいた。
さっきと同じ机の上に、さっきと同じように白い花瓶が置かれている。
「……?」
曹操は、いぶかしそうにそれを手に取った。
さっきの花瓶は、自分が床に投げ捨てたはずだ。
慎重に傾けてみると、中身は透明な水だった。
生臭さも感じない、本当に清浄なただの水だ。
ためしに少し床にこぼしてもみたが、特に変化はなかった。
(これで元の世界に戻れる、とはいかぬようだな)
だが、今はその方がいいと曹操は思った。
さっきの館には、袁紹はいなかった。
いるとしたら、こちら側のどこかに違いない。
(ならば、これはこのままにしておくか)
曹操は、とりあえずその花瓶を机の上に戻して部屋を後にした。
今はただ、袁紹を迎えに行く……それ以外の道は必要なかった。
曹操が花瓶の水をこぼすと、館は裏世界に変貌しました。
水をこぼすという行為は、覆水盆に返らずという諺を意味しています。
曹操が現世でこぼしてしまったもの、そして元に戻せなくなったものは……。