曹操~悔恨の館にて(1)
ようやく、曹操は次の館にたどり着きました。
ここは袁紹が名門袁家の長としての道を歩み始めた館です。
そしてその名門の責務を盾に、袁紹は生前曹操と戦い続けました。ここは曹操と袁紹の亀裂の始まりの地でもあるのです。
懐かしい幻想の通りを抜けて、曹操はようやく目的の館にたどり着いた。
そのそう長くもない通りを抜けるだけで、曹操は体中血糊色の汚れだらけになっていた。
あの血が固まったような拳は、一カ所ではなかったのだ。
「……袁紹め、そんなにおれを避けたいか!」
曹操が袁紹との思い出の場所を見つけて近づくたびに、その場所を囲むように汚れた拳が生えた。
よく買い食いをした店先、お気に入りの雑貨屋、よく休んだ木陰……。
微笑ましい思い出のある場所は、ことごとく怨念に目をつけられていた。
曹操が袁紹の気を引こうとその場所に入ると、すぐに拳が現れて曹操を打ち据えた。
まるで、そこに近づくなと言うように。
思うに、これは袁紹の方が触れてほしくないのではないか。
裏の袁紹……本来の袁紹は曹操と親友だった。
曹操を慕い、辛い時はすがってくれていた。
しかし、名門の嫡子となってからの袁紹は、曹操と距離を置いていた。
(つまり、袁紹はおれとの思い出を掘り返したくないのだな。
確かに、敵対するにはその感情は余計だったろう)
袁紹は結局、死ぬ間際まで曹操と敵対していた。
心がそこから動けないのであれば、曹操との楽しい思い出を避けるのは説明がつく。
それに、袁紹が名門の長として天下を手中にしようとした時点で、曹操と袁紹の道は決して重ねることができなくなった。
袁紹自身、かつての友と戦うのは苦痛だったのかもしれない。
だが、名門の長として作り上げた『自分』が、それを許さなかったのだろう。
だから、こんなにまで曹操との思い出を拒んでいるのではないか。
曹操には、そんな旧友が哀れでならなかった。
(袁紹……もう、己の感情にそんなにふたをしなくていいのだ。
このおれが、おまえをその不毛な責務から解き放ってやる!)
しかし、曹操は気付かなかった。
袁紹は、楽になりたいから作られた地位に身を任せたのだ。
そうしないと自分では立っていられなかったから、そういう道に流れて行ったのだ。
その支えを外したのは、誰だ?
袁紹の心の奥にある治らない傷をつけたのが一体誰なのか、曹操はまるで理解していなかった。
通りの奥にあったのは、これまた見慣れた館だった。
袁紹が叔父、袁成の養子になってから暮らしていた館。
名門袁家の袁紹が生まれた館だ。
その名門袁家の袁紹を作り上げた、育ての母が住まう館だ。
「やはり、ここにも母上がいるのだな」
曹操がいまいましげに尋ねると、裏の袁紹は顔をしかめてうなずいた。
「無論だ、ここには私を引き取った母上がいる。
いや……こちらの私にとっては、あの女を母などとは呼べぬ!」
「おまえを、潰したからか?」
曹操は、裏の袁紹の顔を見て率直にそう思った。
だって、この幼い頃の袁紹は、ここで消されたのだ。
ここで裏の袁紹は封じられ、表の袁紹に変わった。
だからここは、本来の袁紹の墓場でもある。
裏の袁紹は、ぶすっと口をとがらせた。
どうやら、図星だったようだ。
「そこまで分かっておるなら、話は早い。
曹操よ、ここからはおまえ一人で行くのだ」
そこまで言うと、裏の袁紹はにわかに剣呑な顔をした。
「ここにいる母上は、こちらの私を嫌うのでな。
私はここで、貴様の健闘を祈るとしよう」
その言葉は、どこか意地悪な響きをもっていた。
しかし、それは真実だろうと曹操は思う。
ここの母上は……袁成の妻は、袁紹に妾の子として生きることを絶対に許さなかった。
この館の主は、裏の袁紹を拒絶する。
そうして本来の人格を否定された結果、あの栄光に満ちた袁紹が生まれた。
裏を返せば、名門の袁紹にとってはここが生家なのだ。
だから、手紙で『家』に帰るといえば、ここに帰るのだ。
名門の袁紹にとっては、こちらにいるのが母なのだ。
「なるほど分かった。
では、ここからはおれ一人で奴を迎えに行くとしよう」
裏の袁紹を気遣うように優しい口調でつぶやいて、曹操は館の門に足を向けた。
裏の袁紹は、そんな曹操の背中を半ばあきらめたような目で見送っていた。
(ふん、やはり分かっておらぬな。
あのまま表に会っても、ここから生きて出られるものか!)
それに、ここの母が拒むのは、裏の袁紹だけではない。
彼女は、袁紹の高貴な生き方を汚す全てのものを許さなかった。
この館は、曹操を拒絶する。
(さて、あやつがどうにかなるまで、私はゆっくり待つとするか)
裏の袁紹は、急に重たくなった体を支えきれずに膝をついた。
表の袁紹の意志が、急速に強まっている。
両膝が地面について体がくの字に曲がる頃には、裏の袁紹の体はどうやっても動かなくなっていた。
(なるほど、勝手に死なせぬ……ということか)
裏の袁紹の目の前で、曹操を飲み込んだ門が閉まる。
それはまるで、獲物を飲み込んだ化け物が笑っているようだった。
この館にいる『母上』が誰であるかは、読者の皆様にはもう想像がつくでしょう。
さらに、この館の曹操に対する反応は憎悪の館とは異なります。
閉まる門、動けなくなる裏の袁紹……それらは、何を意味しているのでしょうか。