曹操~憧憬の通りにて(3)
今回は、最近にしては珍しくサイレントヒルっぽいです。
曹操を襲う容赦ない怪異は、袁紹の何を表しているのでしょうか。
曹操は、はっと目を剥いて手をどけた。
見れば、赤黒く蠢く何かが曹操の手があった場所にのたくっている。
まるで、血とカビが固まったような、ひどく生臭いなにかが。
それだけではない。
いつの間にか、曹操はその赤黒い塊に囲まれていた。
腰かけた曹操を中心に、まるで円を描くように血のような穢れが沁みだしている。
「こ、これは!?」
曹操が慌てて立ち上がると、その穢れは急速に伸びあがった。
ぐじゅぐじゅと不快な音を立てて、赤い柱が伸びる。
その先端には、ざらざらした丸い頭がついている。
まるで、相手を殴ろうと振り上げた拳のように。
気が付けば、曹操はその汚れた柱に囲まれていた。
あたかも囚人を閉じ込める鉄格子のように、曹操の周りをぐるりと囲んでいる。
「……くっ、罠か!」
曹操が剣を抜くが早いか、その地面から生えた拳が曹操に打ちかかった。
ぶんぶんと風を切って、ばらばらに殴りかかる。
ぼこ ぐにゃ べち
打撃の威力は、思ったほどではない。
しかし、その感触に曹操はこみ上げる吐き気を覚えた。
表面はざらざらとやすりのように固く、しかし拳の部分は妙に柔らかく、当たるたびに肉の感触がへばりつく。
おまけに、それは腐ったような臭いを発している。
払いのけるにも、妙に重たくて体力を奪われる。
(これは、牢獄か……!)
曹操は思わぬ奇襲に、顔をしかめた。
(袁紹、やはりおまえは……!!)
裏の袁紹は、相変わらず曹操の目の前で佇んでいる。
助けに入る素振りなど、みじんも見せずに、である。
しかし、その顔からはむしろさっきより悪意が抜けているように思えた。
強い負の感情が鳴りをひそめた、どこかうつろな表情。
心がここにないような、どことなく無関心な顔。
「……われろ」
袁紹が、低い声でつぶやいた。
「囚われろ、囚われたいなら囚われていろ……。
それを望むなら、お前が囚われろ……」
まるで、地の底から響いてくるような不気味に震える声。
曹操は、ぎょっとして身を固くした。
自分は、袁紹のこの顔を知っている。
袁紹の体は、相変わらず血塗られたままだ。
しかし、袁紹は明らかにさっきまで目の前にいた袁紹ではなくなっていた。
どこでこの顔を見たか?
洛陽だ。
呪いをこめてつぶやく袁紹の顔が、曹操の記憶と重なる。
いつこの顔を見たか?
確か、董卓討伐連合軍の終わり。
曹操が袁紹に別れを告げて、去る時だ。
あの時、別れを告げられた袁紹は、急に感情が抜け落ちたような顔になった。
何が起こったのか信じられず、何も言えないまま曹操を見送っていた。
これは、その時の袁紹の苦痛?
「ぐっ……その手を、止めろ!!」
さすがに耐えられなくなって、曹操は愛用の名剣を振るった。
曹操を囲んでいたぶっていた不気味な拳が、切られてバラバラと散る。
だが、それだけでは終わらなかった。
突然、その拳の切り口から赤い霧が吹き出した。
「!?
ぐふっ、げっゴホッ!!」
それをわずかに吸い込んだとたん、曹操は激しく咳き込んだ。
喉が、全力で拒んでいる。
肺の中がぞわぞわして、正常な呼吸ができなくなる。
空気が欲しくて吸い込むたびに、気管が引っ掻き回される。
不快以外の全てを遮る赤い霧の中で、曹操はもがいた。
やめろ、もうやめてくれ!
胸が苦しい、息が詰まる!!
必死で身を転げて、赤い霧から逃れ出る。
袁紹との思い出の場所から、死ぬような思いでなりふり構わず離れるしかない。
幸い、赤い霧を噴き出した拳はしなびるように枯れていった。
後には血痕をばらまいたような赤茶けた円が、その場所を囲むように残っているのみだった。
「はあ、はあ……はあ……」
曹操は息を整えながら、袁紹を見上げた。
「くくく、苦しかったか?
それは気の毒に!」
さっきまでと同じ、陰険で悪意に満ちた袁紹だ。
あのうつろで無表情な仮面は、どこかに行ってしまった。
だが、曹操には分かっていた。
あれは、名門の当主の袁紹だ。
あの時、苦しむ曹操を感情のない顔で見つめた袁紹は、皆の知っている名族の袁紹だ。
下賤の者の苦しみなど、取るに足らないと見下ろす、歪んだ誇りに満ちた袁紹だ。
これから会いに行く、頑なで、己の意思を捨てた袁紹だ。
(歓迎か、それとも……)
この道は、昔と同じ道だ。
しかし、今のここにはにぎわいも喜びもない。
ただひたすらに殺風景な思い出の残骸だ。
おそらく、これから会う袁紹も昔の袁紹ではない。
それだけは身に染みて分かった。
(だが、だからこそ行かねばならぬ!)
昔の幸せをそのまま裏返したような、死んだ通りを前に、それでも曹操の強い意志は揺るがなかった。
この通りに再び色を取り戻すように、必ず袁紹の心に光を与えてみせる。
白く停滞する霧の向こうには、懐かしい館の輪郭が見え始めていた。
次に曹操が向かう館は、袁紹が息子の袁譚を地獄に落としてしまった忌まわしい館です。
そして前の館では、袁紹の実父である袁逢がなかったことにされていました。
袁紹にとって、父親はいかなる存在であったのか……次の館で明かされます。