曹操~憎悪の館にて(2)
憎悪の館には、これまでの章では袁術の影がちらついていました。
しかし、袁術はすでに地獄に落とされたため、もうここにはいません。
その代わり、袁術よりもっと暗く残酷なものが曹操に牙をむきます。
白い霧のベールに、肥満体の影が映った。
ぺたぺたと、素足のような足音を立てて、そいつは近づいてくる。
事実、そいつは素足だった。
素足どころか、何もまとっていない裸体だ。
ぶよぶよとたるんだ体に血が抜けたような白い肌。体は丸いのに手足の先は細く、昆虫のような鉤爪を持った怪物だった。
「ギョ、ギャ、グゲェ……!」
嗚咽のような声を発して、そいつは曹操の方を見た。
その顔が、一瞬笑ったように見えた。
そいつの顔には、目も鼻もない。
あるのは、そこだけえぐり取られたようにぽっかりと赤黒い肉を見せている、馬鹿でかい口だけだ。
だが、それでも曹操にはその怪物が笑ったように見えた。
「ショウには……似合ってオル……」
その瞬間、曹操の心の底に激しい怒りが燃え上がった。
「黙れ化け物!!」
目にも留まらぬ速さで剣を振りぬき、怪物の胴を薙ぐ。
柔らかい肉が大した抵抗もなく裂け、どす黒い体液が飛び散った。
肩から腹まで切り下ろされて、怪物はどすんと重たい音とともに倒れた。
しかし、振り返った曹操の目に映ったのは、倒れてもなお曹操を嘲笑する怪物のいやらしい笑みだった。
「宦官のクセに……汚らシイ……!」
曹操の背中に、ぞわりと悪寒が這い上がった。
体中に毛虫が這い回るようで、止まってなどいられなくなる。
振り向きざまに、大振りに剣を振り下ろし、怪物の頭をかち割る。
それで怪物は、完全に動かなくなった。
しかし、曹操もこみ上げる怒りを抑えられず、肩で息をしていた。
(なるほど、そういうことか……!!)
怪物のこぼした言葉に、聞き覚えがあった。
はるか昔、袁紹と知り合ったばかりの頃の話だ。
ちょっとした好奇心で忍び込んだ袁紹の館で、この台詞を聞いた。
新しい友達は宦官の孫か。
卑しくて汚らしい……紹には似合いの相手だ。
幼いながらも、吐き気がするような嫌悪感を覚えたのを記憶している。
肥満体の男が、あの性悪な袁術の母と話していた時の言葉だ。
最初は、なぜ自分が袁紹とお似合いなのか分からなかった。
自分が宦官の孫であり、そのことで奇異な目で見られているのは分かっていた。
しかし、名家の長男である袁紹とその自分がお似合いであるとはどういうことか。
答えを知ったのは、袁紹ともう少し仲良くなってからだ。
「僕は、あのお母さんの子供じゃないんだ……」
どうして母親と仲が悪いのかと聞いた曹操に、袁紹はこう答えた。
そしてその後に、消え入りそうな声でこうつけ加えた。
「僕は、父上がお金で買った女の人から生まれたんだって」
それで、曹操は何となく理解した。
袁紹と自分は、娼婦の子と宦官の孫、この世の汚れ同士でお似合いなのだと。
それを知ったとたん、曹操はひどく気分が悪くなった。
自分は確かに宦官の孫だが、自分の意志でそうなった訳ではない。
それに、生まれで全てが決まる訳ではない。
自分はそう信じて、いつか偉くなって周りを見返す日を夢見て毎日頑張っているのに。
袁紹と付き合うことで、そんな目で見られていたなんて!
こんな目で見られるのは、何のせい?
必死の頑張りが無駄になるのは、誰のせい?
もしかして……袁紹と付き合ったせい?
曹操は今でも自分に正直だが、昔はもっと直情的で短絡的だった。
袁紹と付き合ったから、袁家の大人にあんなことを言われた……曹操は一時的とはいえ、袁紹のせいで自分まで汚されたように感じていたことがあった。
だが、曹操は聡明な子供であったため、しばらく袁家を観察していて己の間違いに気づいた。
それと同時に、袁紹ともまた普通に付き合うようになったが……どうも袁紹の中には、その時のことがわだかまりとして残っていたらしい。
「くっ……おまえは、忘れていないという訳か!」
心の底の淀みをかき回されたような不快感に、曹操は思わず胸に爪を立てた。
正直、曹操はこのことを忘れてしまっていた。
袁紹とはまた元のように仲良くなれた、だからもういいじゃないかと。
そうやって心の奥にしまいこみ、袁紹と仲たがいして争うことになっても、思い出したことはなかった。
だが、どうやら袁紹はずっと覚えていたらしい。
袁紹の悪夢がその記憶を呼び戻したということは、思い出せということなのだろう。
「袁紹、おまえはずっと気に病んでいたのか?」
少し呼吸を整えて落ち着くと、曹操は後悔を含んだ目で廊下の奥を見つめた。
あんな思い出を引きずり出されたのは、非常に不快だった。
しかし、袁紹を救ってやるには必要だろう。
袁紹がずっとあの時のことを覚えていて、今でも悩んでいるとしたら、自分がそれを覚えていなければ話が通じないからだ。
袁紹が傷ついている思い出を共有しなければ、袁紹を救えない。
たとえそれが、どんなに思い出したくないことであっても。
袁紹を悪夢から救い出すのは、思ったほど簡単ではないかもしれない。
曹操はようやく、それを悟った。
敵は袁紹の悪夢だけではない。
それに関係する己の悪夢にも打ち勝てなければ、袁紹は救えないのだ。
「いいだろう、今日はいくらでも付き合ってやるさ」
一度体の力を抜いて、曹操は気を取り直した。
忘れていた嫌なことを思い出すのは、とてつもなく精神力を奪われる。
しかし、自分の悪夢ならなおのこと、自分で向き合わなければならない。
自分の悪夢に負けるようでは、天下を取ることなどできるものか。
曹操はこう思い直して、廊下の先へと足を進めた。
犬の怪物もそうでしたが、今回は袁紹と曹操に特別な絆があるせいで怪物たちの反応が異なります。
今回肥満体の怪物が曹操につきつけたのは、袁紹ではなく曹操自身の悪夢でした。
袁紹の悪夢に招かれた人物が己の悪夢と向き合うのは、これまでと同じです。
正しく向き合えずに逃げた劉備以外は、皆己の悪夢を掘り返されて苦悩していたのです。