曹操~洛陽にて(3)
さて、曹操に初の怪物が襲い掛かります。
曹操はすでにこの怪異について知識がある状態からスタートしますが、そんなにうまくいくでしょうか。
かすかに、風を切る音が耳をかすめた。
曹操は、反射的に身を引いた。
「はっ!?」
その刹那、顔のすぐ近くを大きな何かが飛び越えていった。
それは再び霧の中に隠れるかと思いきや、何とかシルエットを認識できる距離に着地した。
四足で大地に降り立ち、こちらに向き直る。
頭の上に耳が立ち、一瞬見えた横顔は大きく裂けた口を持っていた。
(獣、か……)
曹操は安堵して肩の力を抜きかけたが、緊張はすぐにまた体中を駆け巡った。
獣は、すぐにまた飛び掛かってきたのだ。
その姿がはっきりと見えたとたん、曹操の背中に冷や汗が流れた。
獣は、ひどく傷つけられた犬の形をしていた。
毛皮がところどころ破れて、赤い肉が見えている。
だが、それだけなら普通にあり得る話だ。
あり得ないのは、目がなかったことだ。
しかも、空っぽの眼窩から有刺鉄線が生えて、体中に巻き付いている。
金属を生やした獣など、この世にいるものか!
曹操はすぐさま剣を抜き、後方に着地した獣の方に向き直った。
「なるほど、これが袁紹の負の感情という訳か」
辛毗から、話は聞いている。
袁紹は確かに曹操に会いたがっているが、その感情をうまく制御できずに、時として招き入れた者を攻撃するという。
どのような攻撃であるか詳しくは言わなかったが、確かに辛毗は傷だらけになっていた。
辛毗がどのような目に遭ってきたか、今なら分かる気がした。
「さあ来い、今度はまともに相手をしてやる!」
曹操はそう言って挑発したが、獣は今度は飛び掛かってこなかった。
その代わり、悔しげに歯を打ち合わせて、低い唸り声を漏らした。
その表情に、既視感のある感情を見た気がした。
羨ましい、妬ましい、どうしておまえは……!
自由な身の他人を妬み、己の不幸に憤る嫉妬に満ちた視線。
拘束された己を恨み、手に入らぬ自由を渇望する。
体を苛む痛みから逃れられず、周りの全てを憎むような。
まるであの頃、継母に手を引かれていた……
ふいに蘇った記憶に、曹操はくすりと笑みを漏らした。
(なるほど、確かにそんな『おまえ』もいたな)
今自分が見舞われている怪異が、親友によるものだと確信した。
袁紹は昔から感情を処理するのがあまり上手ではなかったから、こういうことになっても不思議とは思えない。
しかし、状況は笑えない方向に進んでいた。
獣は突然その場で大口を開けると、上を向いて遠吠えを発したのだ。
「ウオオォーン!!」
霧の中に、その声がこだまして幾重にも響く。
いや、途中からは明らかに別の場所から聞こえた気がする。
仲間がいるのだ。
一匹ではらちが明かないから、仲間を呼ぼうというのだ。
「ちっ!」
曹操はすぐさま、自分から獣に斬りかかった。
仲間がここに到達する前に、こいつだけでも倒さなければ。
しかし、獣は思った以上に狡猾だった。
曹操が襲ってくるのを認めるやいなや、くるりと身を翻して逃げ出した。
あんなに拘束され、損傷しているとは思えないほど、矢のような速さで走っていく。
あっという間に、その姿は霧の向こうに見えなくなった。
「くそっ!!」
曹操は毒づいたが、もう遅かった。
獣の姿は霧に紛れて見失い、辺りには静寂が漂うばかりだ。
しかし、いつまでもここにいるのは得策ではなかった。
さっきあの獣が遠吠えしたのだ。
今にあれの仲間が、あちこちから集まってくるだろう。
どこかへ、移動しなければ。
しかし、どこへ?
どこへと問われれば袁紹のいる方に決まっているが、それがどこだか分からないのだ。
現世の洛陽で歩いていた通りは分かる。
しかしこの世界でも構造が同じかどうかは分からないし、霧に包まれて移動する際に現在地はあいまいになっている。
現在地を知ろうにも、霧が深くて見当がつかない。
(せめて、どこか開いている店があれば……)
洛陽の通りは碁盤の目のように張り巡らされており、通りの個性はそこにある施設に依存している。
ゆえに、こんな風に全ての店が戸を閉めてしまったら、区別がつかない。
人の集団が個性を作っている、骨組みは皆同じ都市の危うさを、曹操は心底思い知った。
しかし、曹操はとりあえず歩き出した。
どこへ行けばいいかは分からないとしても、ここにいない方がいいのは確実だ。
獣が吠えたのは、この地点なのだ。
敵はここを包囲するように集まるだろう。
たとえ逃げた獣の待ち伏せに遭っても、ここにいてむざむざと包囲されるよりはましだ。
そう決断すると、曹操は獣が逃げた方向に向かって足を速めた。
その辺りの決断の速さが、曹操の名将たるゆえんだ。
優柔不断で決断の遅れがちだった、袁紹とは真逆の性質だ。
むしろ、袁紹はそんな曹操の性質を知っているからこそ、こんな風に試しているのではないか……。
そんな想像が湧いてきて、曹操はくすぐったいような気持ちになった。
袁紹はこうして苦難に対処する自分を見て楽しんでいるのではないか、そう思うと微笑ましささえ覚えた。
そんな曹操の想像に応えるように、通路の先に一人の少年が佇んでいた。
「袁紹!」
曹操が声をかけると、少年は暗い目で曹操を見つめた。
そして、あっという間に曲がり角の向こうに走り去ってしまった。
「あっ待て!」
曹操も今度は見失うまいと、後を追って角を曲がる。
建物の陰を抜けて視界が開けたその先に、少年の姿はなかった。
袁紹の悪夢の世界で体験したことについて、辛毗は曹操にそれほど詳しく伝えませんでした。
主の身を思えばそこは細かく伝えるのが筋でしょうが、辛毗はわざとそうしなかったのです。
そこに、袁紹の想いを知った辛毗の意図があります。
辛毗は曹操に何を望んでいるのか…物語が進むにつれて、それも明らかになっていきます。