曹操~洛陽にて(2)
曹操は袁紹と比べて、人の感情について淡泊で悪く言えば冷徹なところがあります。
それゆえに個人の感情よりも、天下の情勢を優先して正しい手を打てるので、為政者としては袁紹より上です。
そんな曹操を、袁紹はどう思っていたのでしょうか。
少年はすぐに、人ごみに紛れて遠ざかろうとした。
曹操は、ほぼ反射的に足を速めてその後を追った。
(間違いない、あれは……!)
振り向きかけたその顔は、まぎれもなく幼い頃の袁紹であった。
整った、年の割に大人びた顔立ち。
何かに怯えるような、不安げな眼差し。
必死で作り上げた美術品のような、心を隠すための笑顔。
昔、袁紹と深く付き合っていた頃はずっと側で見ていた。
見間違えることなど、あるものか。
少年がまとっている上品な着物も、記憶にあるような気がする。
汚したら怒られるから、と袁紹が言ったのを覚えている。
それが着物ではなく名家の面子だと気づいたのは、だいぶ大きくなってからのこと。
あの頃から、袁紹と完全に意志が通じていた訳ではなかった。
大きくなるにつれて、意志の疎通はますます難しくなった。
袁紹が名家の誇りを鎧のように身にまとい、あまり本心を出さなくなったせいだ。
時々、本当はどう思っているのかと聞いても、煙に巻くようにはぐらかすようになった。
まるで今、周囲に湧き上がる霧のように。
気が付けば、曹操の周りで霧が急激に濃さを増していた。
さっきまではあれほどの晴天であったのに、今はすれ違う人の顔も分からないほどだ。
(なるほど、これが辛毗の言っていた怪異か……)
普通の人間ならこれだけでうろたえるところだが、前もって知っていればどうということはない。
それに、曹操は元々異常事態にも強い人間だ。
これが親友の起こしているものなら、なおのこと。
怪異に写る親友の心をできるだけ汲み取ってやりたかった。
すれ違う人影が、どんどん減っていく。
辺りに響いていた人の声が消えていき、静寂が周囲を埋め尽くす。
今や、そこにいるのは少年とその後を追う曹操のみだった。
少年は振り返らずにずんずん歩いていく。
曹操は脇目も振らずに、その後をついて行く。
いくつかの角を曲がった時、曹操の姿は現世の洛陽から消え去っていた。
かすかに、風が吹いた。
霧がたなびき、周りの景色が少し開ける。
「なるほど、そういうことか」
さっきまで歩くにも邪魔なくらい満ちていた人間が、一人残らず消えている。
沿道に広がっていた露店や客の姿はなく、声も聞こえない。
建物はことごとく戸を閉め、街自体が死んだように静かだった。
辛毗は詳しくは言わなかったが、きっとこれが袁紹の世界なのだろう。
とりあえず、受け入れてはもらえたらしい。
「さてと、これからどうするか……」
曹操は一度深呼吸をして、辺りを見回した。
少年の姿は、いつの間にか見失った。
霧に巻かれるように、曹操の前から消え去ってしまった。
袁紹らしい、と曹操は苦笑する。
大人になってからの袁紹と話している時は、いつもこんな感じだった。
大人になってからの袁紹は、個人としての意思を聞かれるのを嫌っていた。
曹操が本心を尋ねると、言いたくない場合は一般論で煙に巻いてはぐらかしてしまう。
思えばそれは、袁紹自身の意思と袁家としてとるべき行動が食い違った場合の反応だったのだが、当時の曹操はそれに気づかず苛立ちをつのらせていた。
(そうだな、あの時はおれもおまえも若かった)
曹操は、袁紹の置かれている状況と立場を理解できていなかった。
袁紹は、立場に縛られて曹操の気持ちを受け取ることができなかった。
その結果、お互いに孤独感を味わった。
今、曹操が感じている死んだ世界のような。
だが、こうして接触してくる以上、袁紹もうすうす気づいてはいたのだと思う。
だからこそ、死んで立場の枷が外れてから会いに来てくれたのだろう。
いつも理論的で冷徹な曹操も、これは素直に嬉しく思った。
「さて、袁紹。
さっさとおまえを見つけだしてやるぞ!」
曹操はこの異常な世界にも恐れることなく、足取り軽く歩き出した。
肝が据わっているのは、いつものことだ。
そのうえこの現象が、親友のしわざであると分かっていればなおさら。
曹操は歩く。
しかし、霧は晴れない。
濃く、薄くたなびきながら曹操の視界を遮ってしまう。
曹操は気づかなかった。
袁紹の自分に対する感情はそれほど単純なものではないことを。
曹操の呼び声に気づいたのか、背の低いものがのそのそと動き出した。
やり場のない感情を鋭い牙と爪に変え、邂逅の喜びに涎を垂らして歩み寄る。
音もなく、自分の頭を飲み込めそうなほどの大口を開けて、その意思は曹操に襲い掛かった。
理論を重んじるということは、逆に感情を軽んじるということです。
例えば人間関係など、自分が心の底で失いたくないと思っているものでも、曹操は理論を優先して切り捨ててしまいます。
切り捨てる曹操は、捨てるものについて深く考えたりしませんでしたが、切り捨てられる袁紹はどうにもならぬ感情の泥沼に足をとられてしまったのでした。