曹操~許昌にて
悪夢行もついに最終話、旧友曹操の登場です。
曹操は非常にメジャーな人物ですが、一応紹介を置いていきます。
曹操・孟徳 生年155年 没年220年
三国のうち、魏の基礎を築いた乱世の奸雄。袁紹とは旧友であったが、それぞれが独立して河北の覇権を争ううちに、官渡の戦いで袁紹を破り、袁家を滅ぼしてしまった。その後南下して江南を攻めようとするも、赤壁の戦いで大損害をこうむり天下への夢を断たれた。
「劉夫人が、身罷られました」
曹操がその日朝一で聞いた報告は、訃報だった。
それも、保護していた旧友の妻の。
それを聞いたとたん、曹操の腕の中にいた正妻の卞夫人がびくりと肩をすくめた。
「ああ……!」
うろたえるように曹操から目を反らし、後悔を含んだ悲鳴をあげる。
その反応に、曹操は昨晩のことを思い出した。
昨日、卞夫人はその劉氏と喧嘩をしたと言って帰ってきたのだ。
劉氏の暴言に卞夫人はひどく傷ついていたため、曹操は久しぶりに卞夫人と夜を共にすることになった。
そうして慰めている時に、卞夫人はぽつりと漏らした。
「あんな女、勝手に地獄に落ちればいいのよ。
誰が助けてなんかやるもんですか!」
そういうことを予感させる何かが、昨日二人の間であったのだろうか。
だが、とりあえず葬式には行かねばなるまい。
妻とは険悪だったとはいえ、旧友の妻なのだ。
「気にするな、卞。
何もしなくても人は死ぬものだ。
おまえが何をしようと、人の命運はそう変わるものではない」
曹操は卞夫人を安心させるように撫でてやり、喪服を持ってくるように命じた。
通夜と葬式は、ひっそりと行われた。
滅ぼされた敵将の妻ということもあるが、それ以上に表ざたにしたくない雰囲気がその家に流れていた。
棺はしっかりと閉ざされ、中にいる劉氏の顔を見ることは許されない。
召使いたちは一様に口を固く閉ざし、劉氏の棺から距離をとっている。
そんな召使いたちの顔は、一様に青ざめていた。
「一体、何があったというのだ?」
曹操が問いかけても、召使いたちは皆震えながら知らないと答えるばかりだ。
煮え切らぬ返事に曹操が苛立ってきたのに気付いたのか、卞夫人がささやいた。
「あなた、少しお話がございます。
昨日の、劉氏のことで」
卞夫人は、いつになく真剣な顔をしていた。
何か深刻な話があると、目で訴えかけている。
「……聞こう」
曹操はひとまず小さな客間に入り、卞夫人の話に耳を傾けた。
しばらくして出てくると、曹操は召使いたちを集めてこう言った。
「劉氏の、棺を開けろ」
召使いたちはこの世の終わりがきたように嫌がったが、卞夫人が説得した。
すると、召使いたちはしぶしぶ納得して曹操を棺の前に案内した。
「ここで見たものは、どうか誰にも言わないでください。
私たちはただ、平和な日常に戻りたいのです」
必死の表情でそれだけ言って、召使いたちは禁忌のふたを開け放った。
とたんに、曹操と卞夫人はあっと口を押えた。
劉氏の死に顔は、これがあの高貴な夫人かと思うほど醜く歪んでいた。
やつれた顔には深いしわが刻まれ、一夜にして老婆になったようだ。
白目をむいて叫ぶように口を開き、絶叫の表情が張り付いたままになっている。
美しく手入れされていた髪は、真っ白に変わって逆立っていた。
戦場で数多の死体を見てきた曹操も、さすがにここまでひどいものは見たことがなかった。
召使いたちならなおさら、恐れる理由が分かった。
(呪いにでも、かかったようだな……)
曹操は元来、そういうものを信じるたちではない。
だが、今回ばかりは信じない訳にはいかなかった。
曹操は、思わず懐に入っている手紙に手を添えた。
数日前、辛毗から受け取った手紙に。
すでにこの世にいないはずの、旧友からの手紙に。
曹操は小さな吐息を漏らすと、召使いたちに棺を閉じるように命じた。
「道士を呼び、念のためお祓いを頼め。
これは確かに、人に見せぬ方が良い」
そうして劉氏の棺を再び厳重に封印した後、曹操は卞夫人と共に館に帰った。
劉氏の葬式が終わると、曹操はにわかに一人旅の荷物をまとめた。
そして、ついて来ようとする夏侯惇の手を払って言った。
「これは、おれ一人で決着をつけねばならぬ問題だ。
いかにおまえたちといえど、巻き込む訳にはいかぬ」
夏侯惇は心配そうな顔をしたが、曹操はやんわりと断った。
「大丈夫だ、おれは必ず戻る。
それに、これをどうにかせねば、おそらく南に攻め込むことはできまい。
まだ、北に……この江北の地にやり残したことがあるのだ」
誰にも口外しないように夏侯惇に釘をさした後、曹操は一人で馬に乗って駆け出した。
目的地は、洛陽。かつてこの国の首都であった都市だ。
かつて曹操が、旧友袁紹と共に守っていた街だ。
「袁紹……まだ、この世にいるのか」
この手紙の真偽は、行ってみなければ分からない。
しかし曹操は行かなければならない、そんな気がした。
辛毗から受け取った手紙には、懐かしい袁紹の筆跡でこう書かれていた。
あいまいな眠りの中で、夢見るのはあの街、洛陽。
いつか二人で取り戻そうと言っておきながら、おまえは私を裏切った。
私は一人でそこにいる。
あの思い出の街で、おまえを待っている。
曹操は袁紹の過去と、本来の袁紹を知っている数少ない人物です。
それゆえに、袁紹は最後に曹操の救いを求めました。
これまでの孫策編、辛毗編、劉氏編での袁紹の想いが全てここにつながっていきます。
悪夢の果ての最終章、ご期待ください。