劉氏~愛惜の館にて(4)
夫婦で争いになることは現実でもよくあることですが、その原因は様々です。
どちらかが配偶者のためになると思ってやったことが配偶者の気にくわない場合もありますし、ちょっとした不満が積み重なっての場合もあります。
しかし、愛のある夫婦であれば、多少のすれ違いはあってもまた和解できます。
劉氏は袁紹に対して、元から愛情というものがありませんでした。
袁紹がそれに気づいてしまった今、劉氏には破滅しか残されていないのです。
熱風が、体を撫でる。
地獄へとつながる穴の淵に、劉氏はかろうじてぶら下がっていた。
必死で握りしめたのは、寝台のカーテン。
あれほど嫌がっていた思い出の寝台が、劉氏の魂をどうにかこの世にとどめていた。
「う……う!」
生まれてこのかた、腕一本で体を支えたことなど一度もない。
筋肉の少ない肩がきしみ、劉氏の額に苦悶の汗が浮かんだ。
「どうした劉、早く手を放さぬか」
袁紹は、特に何をしてくる訳でもなかった。
ただ、氷のように冷たい眼差しで劉氏を見下ろし、こう言っただけだ。
当然だ、袁紹は劉氏の力がどの程度のものかよく知っている。
何もしなくても、決着がつくのにそれほど時間はかからないだろう。
ならばこちらからは手を出さず、ただ劉氏が力尽きるのを見届けようというのだ。
劉氏は恐怖と屈辱に震えた。
袁紹は、もう自分を許してくれない。
そのうえ、天にまで見捨てられてしまったのか。
このまま下賤な男の理不尽な暴力で、地獄に落とされてしまうのか。
非を認めて謝るという選択肢は、劉氏にはなかった。
その代わりに、何かすがれるものはないかと頭の中で必死に探した。
(私がいないと袁紹が困ること……あるじゃない!)
そして何かを見つけた劉氏は、痺れてきた手で必死にカーテンを握りしめて叫んだ。
「私を地獄に落として、尚に何て言うつもり!?
尚は私とあなたの子、あなただけの子じゃないのよ!!」
その言葉に、一瞬袁紹の瞳が揺れた。
袁尚は、袁紹と劉氏の大切な息子。
袁紹も劉氏も、この上なく愛情を注いで育てた最愛の息子。
劉氏が最後にすがったのは、自分が袁紹に捧げた中で唯一実体のあるもの、自分の腹を痛めて産んだ息子だった。
「あなたは、尚から母親を奪う気なの?
母親を理不尽に奪ったあなたを、尚は許してくれるかしら?」
ここぞとばかりに、追い打ちをかける。
大丈夫、袁紹は生前、家族を何より大切にしていた。
だからきっと、尚のことを持ち出せば、私を許してくれるはず。
だが、劉氏の予想に反して、袁紹は冷静だった。
「ああ……尚のことなら心配するな。
あやつも、最期はおまえのことを恨んでいたようだから」
口を開いたまま固まった劉氏に、袁紹は静かに告げた。
「ここに来る前に、最期まで尚につき従っていた兵の夢に出て、聞いてきた。
おまえの言うように、尚がおまえをずっと愛していたら、こうする訳にいかなかったからな。
だがそれは心配ない、尚はもう……おまえを愛してなどいない」
袁家が滅びる間際、袁尚は徹底的に追い詰められていた。
あれほど忠誠を誓っていた兵士たちは、次々と曹操に降っていく。
誰よりも尽くしてくれた審配は、首をはねられてしまった。
袁尚は、たった一人だった。
まだついて来る部下はいたが、裏切りの恐怖に苛まれて信じることなどできなかった。
そんな時、たった一人だけ袁尚を温かく出迎えてくれた者があった。
「大丈夫だよ、僕はずっと尚の味方だよ。
だって、兄弟だもの!」
誰にも頼れずぼろぼろになった袁尚を抱きしめてくれたのは、兄の袁煕だった。
劉氏の子ではない、母親の違う兄。
袁紹の血を引きながら、唯一生き残っている兄。
その瞬間、袁尚の目から涙があふれた。
兄弟とは、こんなに温かいものだったのか!
袁煕の腕の中で泣きじゃくりながら、袁尚は亡き兄弟たちに謝った。
母が皆殺しにしてしまった、同じ父親をもつかわいい兄弟たちに。
彼らも生きていれば、こうして自分を支えて、あるいは自分が死んでも袁家を守って祭祀を絶やさずにいてくれたかもしれないのに。
そんな尊い兄弟たちに、自分は何ということをしてしまったのだろう!!
「……どうして、気がつかなかったんだろう。
あいつらも、血筋は違っても、俺の兄弟だったのに……!!」
後悔に泣き叫ぶ袁尚に、袁煕は優しくささやいた。
「おまえが血筋なんてものに囚われて、目を塞いでいたからだよ。
血筋なんて、肝心な時に何の役にも立たない幻なのに。
でも仕方ない、尚はずっと劉義母様にそうやって育てられていたんだもの」
その瞬間、袁尚は己の愚行を後悔するとともに劉氏をひどく恨んだ。
袁煕によれば、父が長兄の袁譚を憎んだのも袁譚が血筋に囚われていたからだという。
袁尚は、それにひどく衝撃を受けた。
「何だ、それ……!
それじゃ、母上様は、あの糞兄貴と同じじゃないか!!」
あれほど軽蔑していた袁譚と母親が同じ妄想にとりつかれていたなんて、袁尚には悔しくて仕方がなかった。
そして、もし自分が生き残ったら、殺されたたくさんの兄弟たちを一生弔って生きると約束した。
もっともその誓いは、袁尚の死によって果たされずに終わったのだけれど。
「皮肉なものだな……わしが自分と同じような目に遭わせてしまった煕が、一番わしの気持ちを理解していたとは。
だが、尚も過ちに気づいてくれてよかった。
これでようやく、心からの笑顔で尚に会える」
袁紹はあっけにとられている劉氏の前で、すらりと小刀を抜いた。
「家族は皆死に、邪魔者のいない場所に行った。
邪魔者はおまえだけだ、おまえがいなければ元よりずっと幸せに暮らせる」
袁紹は他の家族を想って微笑みながら、小刀の刃を伸びきったカーテンに押し付けた。
劉氏は袁紹の予想に反して、まだがんばっている。
顔を真っ赤にして歯を食いしばり、白むほど力をこめた手でカーテンを握りしめている。
「少しおまえを見くびっておったか……。
間違ってはいるが、術や譚よりはずっと根性があるな」
カーテンの線維が切れ、そこからビーッと音を立てて布が裂けていく。
正直、劉氏がここまで耐えるとは思わなかった。
劉氏の自分は選ばれた人間なんだという思い込みは、誰にも破れないほど強靭だ。
そのためなら、ここまでの力を出せるのだ。
だが、いくら力を振るっても間違いは間違いだ。
妻には、それを分からせてやらないと。
ブツッと鈍い音がして、最後の糸が切れた。
「いやああああ!!!」
劉氏の悲鳴が、奈落の底に吸い込まれていく。
「さらばだ劉、おまえにふさわしい夫でなくて、悪かったな。
地獄でかつての暴君の魂でも漁れば、おまえの理想の男がいるかもしれぬぞ!」
吹き上げる熱風が、袁紹の髪を撫でる。
これまで、幾人をこの地獄の釜に落としてきただろう。
だが、きっとこの蓋を開くのは、これで最後になると思う。
この先自分の前に伸びているのは、安らぎに通じる救いの道だから……。
部屋を元に戻すと、表の袁紹は部屋の外で待っていた裏の自分に声をかけた。
「さあ、旧友を迎えに行こう!」
この世で会いたいのはあと一人。
二人で素直な気持ちを伝えて、一番救ってほしい者に救ってもらおう。
そして望む救いを得られた時こそ、自分は本当に解放されるのだと信じて。
この話は、劉琦編で登場した袁煕に関する回答にもなっています。
母親が兄弟たちを皆殺しにするのを止めなかった袁尚は、その後曹操に追い詰められて孤独の報いを受けたのです。しかし、袁紹の気持ちを理解していた心優しい袁煕が袁尚を救ってくれました。
最後の地獄落としを終えて、袁紹は意を決して曹操のもとへ向かいます。
いよいよ最終章、袁紹の旅路の結末をどうか見届けてください。