劉氏~愛惜の館にて(3)
劉氏は生前、袁紹との結婚生活は波風をたてないように過ごしてきました。
しかしそれは劉氏が努力したというより、袁紹が生まれを隠し名家の威光に引き摺られるように生きてきたせいでしょう。袁紹が劉氏に逆らわなかったから、劉氏もおとなしくしていたのです。
劉氏が手を伸ばした瞬間、木製の扉にざあっと黒い染みが浮き出た。
「え?」
驚いた劉氏が手を引く前に、その黒い染みは扉から突き出してきた。
細長い何かが根元で集まって、それは手の形になった。
黒く、かすかに透き通った、小さな手だ。
「ひ、き、きゃああああ!!!」
悲鳴をあげる間にも、黒い何かはどんどんこちらに突き出してくる。
小さな頭、寸足らずな胴体……それは、人の形をしていた。
真っ黒で透き通った小さな子供の影が、次々と扉をすり抜けて入ってくる。
「え、な、何よこれ!?
下がりなさい、下がってよおお!!」
劉氏は半狂乱になって叫んだが、黒い影は後から後から入ってくる。
「父上はどこ?」
「母上はどこ?」
舌足らずなつぶやきを漏らしながら、劉氏に向かって手を伸ばす。
「いやあっ!!」
劉氏はその小さな手を逃れようと、よろよろと後ずさった。
ほどなくして、背中にどん、と何かが当たる。
次の瞬間、劉氏は氷のような腕で寝台に引きずりこまれていた。
「劉よ……」
耳元で、袁紹が冷たい息とともに囁く。
劉氏は、追い詰められて寝台のところまで戻ってきてしまったのだ。
寝台の周りを、黒い子供の影が埋め尽くす。
恐怖に震える劉氏を、袁紹の手がざらりと撫でる。
「分からぬな……わしと結婚した当初、おまえはあんなに幸せそうだったのに。
こうして撫でてやったら、子猫のように甘えてきたのを覚えておるぞ」
「そ、その時は、あなたの本当の生まれを知らなかったからよ!」
懐かしそうに髪を撫でてくる袁紹の腕の中で、劉氏もまた昔を思い出していた。
前妻と死に別れた名家の嫡男、袁紹と結婚したあの日。
輝かしい未来への道が、どこまでも続いていると思われたあの日を。
二人の運命が狂い始めた、あの日を。
いずれ名門袁家を束ねる方だと、皆が噂していた。
容姿端麗で、文武ともに弟たちより優れ、さらに教養も高い理想の男。
この人なら自分にふさわしいと思って、結婚を決めたのに。
「娼のくせに、汚らわしい!」
出生の真実を打ち明けられたのは、自分が嫡男の袁尚を産んでからだ。
確かに、前々からそういう噂はあった。
きちんと身元調査をしなかったといえば、こちらにも落ち度はある。
しかし、袁紹の血筋に安心しきっていた劉氏にとっては手のひらを返されたようだった。
袁紹の母親は、卑しい血筋だった!
袁紹の美貌は、母親譲りの商売道具。
どんなに能力が優れていたって、血筋が卑しければ服従のためのものでしかない。
それ以来劉氏は、袁紹のことを愛せなくなった。
そして卑しい血を引いた息子を腕に抱きながら、仇討のように決意した。
袁紹の代で汚れた血を自分の高貴な血で浄化する代わりに、袁家は私が奪ってやると。
腕の中に眠る息子にも、心からの愛情はなかった。
「愚かな……!
そうやってわしの血筋を恨んで、あれほど多くの命を奪ったのか!
わしはこのような生まれなりに、血筋を汚さぬよう必死で努力してきたというのに……!!」
袁紹の手が、劉氏の首を絞めるようにあてがわれる。
それでも劉氏は、鬼のような顔で首を振った。
「恨みなんてとんでもない、私は袁家の高貴な血を守るために妾と子供を処分したのよ!
全ては、袁家の血を守るためにやったことだわ!!」
反論したとたん、袁紹の手に力がこもった。
「袁家を守るだと、笑わせる!
血を守りたいなら、できるだけ多く子を残せとわしは親から教わったのだがな?
たとえ曹操に嫡子や男子を全て殺されても、妾の娘だけでも残れば袁家は絶えずに済んだはずだ。おまえが、皆殺しにしたりしなければなあ!!!」
袁紹の爪が、劉氏の首に食い込む。
その痛みに悶えながら、それでも劉氏は逃れようともがいた。
袁家は確かに滅んだ、だがそれは自分のせいじゃない。
袁紹が言うことは結果論にすぎない。
自分は、決して悪いことをしようとした訳ではない。
だから、私がこの男に呪い殺される理由なんて、どこにもないんだから!!
劉氏は全身の力をこめて、首にあてがわれた袁紹の手を少しだけずらした。
そして、悪鬼のごとく大口を開けて骨を砕かんばかりに噛みつく。
「ぐああぁ!!?」
突然の反撃に、袁紹の力が緩んだ。
その隙に、劉氏は必死でその腕を振り払った。
逃げられる道があるかなんて分からない。
だが、逃げられるだけ逃げてやる!
素早く部屋の中に視線を走らせて、劉氏は心の中でほくそ笑んだ。
さっきまで部屋を埋め尽くしていた、あの小さな人影が消えている。
(ほらね、やっぱり天は私を助けてくれるのよ!)
寝台から部屋の出口まで、阻むものは何もなかった。
そうよ、殺される理由もないのに殺される訳がない。
そんな筋道の通らないことを天が見過ごす訳がない。
私は、生まれながらに選ばれた人間なんだから!
再び掴もうと伸ばしてきた袁紹の手を打ち払って、劉氏は寝台から転げ落ちるように身を乗り出した。
あとは体重に任せて、床を転げて距離をとるだけだ。
そう思って寝台の下を目にしたとたん、劉氏はあっと目を見開いた。
床が、ない。
目の前に広がっているのは、どこまで続くのか分からない暗黒の空間。
ちょうど寝台の前だけ、落とし穴のように床の金網が外れていた。
金網?
よく見れば、木であったはずの床はいつの間にか金網に変わっていた。
淫靡な装飾は全てはげ落ち、部屋は処刑場のような殺風景な場所に変貌していた。
「あ……」
異変を認識した時は、すでに遅し。
劉氏はそのまま勢い止まらず、ぽっかりと口を開けた地獄への穴に転げ落ちていった。
世の中に、理想の高すぎる人間はいるのもです。
本人の性格のせいか親の教育のせいかは微妙なところですが、劉氏もそんな人間でした。
そういう人間の中でも、自覚がないタイプはさらにたちが悪いです。
他人に対して思いやりというものを持たず、当たり前のように高すぎる理想を押し付ける…そうして多くの命を殺めた結果、劉氏は夫の手で地獄へ落とされるのでした。