卞夫人~許昌にて(2)
よく考えたら、この話に人間の女性が主役級で登場するのは初めてでした。
劉琦編で蔡氏が少しだけ出てきましたが、他は過去の話とか怪物(=母の幻影)ばかりで女キャラをまともに書いていませんでした。
次回作では女キャラも活躍?させていく予定なので、今回は女性回です。
「夫がね、夢に出るのよ」
しばらく沈黙の後、劉氏は唐突にこう言った。
「夫……袁紹殿が、ですか」
卞夫人は、あいずちのようにこう返すことしかできなかった。
劉氏は迷惑そうな顔で続ける。
「それでね、私のことを責めるの。
なぜあんなことをしてのうのうと生きるのか、早くおまえも地獄に来いって」
「まあ、何をそんなに怒ってらっしゃるのかしら?」
卞夫人が問うと、劉氏は突然顔を上げて卞夫人をにらみつけた。
驚いて身を引いた卞夫人に、劉氏は般若のような顔で告げる。
「自分の妾と子供たちを返せって、うるさいったらありゃしないわよ!!」
それを聞いたとたん、卞夫人は思い出した。
そうだ、この女は袁紹の妾とその子供たちを皆殺しにしたんだ!
この女がここに引っ越してきた時、辛毗に警告されたことだ。
劉氏は淑女のように見えて、内面は恐ろしく残虐で冷酷だ。
自分の子を跡継ぎにするためならいくらでも人を殺すし嘘をつく。
審配が袁譚派の家臣の一族を皆殺しにした時も、この女が後ろで糸を引いていた可能性が高い。
そうだ、この女は責められて当然のことをやっているじゃないか。
だが、今更になってそれを気にし出すとはどういうことだろう。
これまで劉氏は、そんな奴らは殺して当然だと言い切っていたのに。
(もしかして、罪の意識が芽生えたのかしら?)
本当に劉氏がそう思っているのなら、責められる夢など見るはずがない。
たった一人になって長い孤独の中で、寂しさから心の底で後悔しているのだろうか。
だとしたら、喜ばしいことだ。
これまで劉氏とはずっと意見が合わなかったが、これからは少し分かり合えるようになるかもしれない。
そんな期待をこめて、卞夫人は劉氏に語りかけた。
「ねえ劉氏、そんなに辛いなら、もう素直に謝ったらどうかしら?
あなたも本当は悪かったと思ってるんでしょう?だからそんな夢を見るのよ。
きちんと今の気持ちを伝えて謝れば、きっと袁紹殿も許して……」
「黙れ雌犬!!」
卞夫人の説得は、劉氏の恐ろしい叫び声に断ち切られた。
びっくりして口を閉じた卞夫人に、劉氏は激昂して言いつのる。
「ふざけるな!謝る?私は悪くないのに!?
悪いのは夫の方でしょう!あんな生まれの卑しい女を愛して、あまつさえ子供まで生ませて……名家の血を何だと思ってるの!?
だから私が後始末をしてやったんじゃない!!」
そこまで言うと、劉氏は卞夫人を見下す目で見つめてささやいた。
「なーんて言っても、あなたには分からないわよねえ?
女売り場から成り上がって、他の雌犬と群れてる誇りの欠片もない雌犬さんには」
劉氏は卞夫人を、まるで汚物でも見るような目で見ていた。
卞夫人は屈辱に奥歯を噛みしめ、煮えたぎる心で理解した。
この女とは、分かり合えない。
どうやっても、無理だ。
劉氏は罪の意識など感じてはいない。
その心根は、嫉妬と歪んだ名族意識の赴くままに妾とその子供を虐殺した日のままだ。
それに対して、自分が情けなく思う時がない訳ではない。
自分の夫曹操には、袁紹とは桁が違う数の妾や愛人がいて、しかも自分はそれを許している。
それどころか曹操と別れた前の正妻にさえ、未だに敬意を払っている。
これは女として、プライドが足りないと言われても仕方ない。
だが、それでも卞夫人は毅然と顔を上げて劉氏を睨み付けた。
「ええ、私はあなたの家みたいな惨劇を起こしたくありませんもの。
私は人間をやめてまで、正妻の地位にこだわる気はありませんから!」
正直、言い過ぎかもしれない。
だが、劉氏の所業はもはや人間のやることではないと思う。
正妻であろうが妾であろうが、夫を愛する一人の人間には変わりない。
どちらの子供であろうが、愛する夫の宝物には変わりない。
それを自己愛のためだけに皆殺しにするなんて、人として許されることではない。
「袁紹殿のお怒り、私にはよく分かります。
あなたのような人でなしに身勝手に子供を殺されて、袁紹殿はさぞ悲しかったでしょうね!」
卞夫人が怒りをこめてこう言うと、劉氏も皮肉をこめて返した。
「あなたのような正妻を持った曹操殿は幸せね。
おかげで好きなように浮気できるし、あなたに飽きてもすぐ取り換えがきくものね!」
もう、我慢の限界だった。
卞夫人は机を乱暴に叩いて立ち上がった。
いくら夫に頼まれたことでも、もうこれ以上は相手にできない。
「……悪いけど、今日はもう帰らせてもらうわ。
あなたとは、いくら話してもらちが明かない気がします」
「そうね、私もそんな気がするのよ。
さっさと獣臭い犬小屋にお帰りなさい」
劉氏も凍りつくような視線で、卞夫人に出て行けと命じた。
こうしてその日は御開きとなり、卞夫人は予定より大幅に早く帰路についた。
帰り道、怒りが収まらない胸で卞夫人は思った。
(あんな女、地獄に落ちればいいんだわ!!)
今この時、劉氏に本当に地獄からの魔の手が迫っていることなど、卞夫人には知らぬことだった。
卞夫人が帰っていくらも経たないうちに、劉氏は眉間にしわを寄せて小さな唸り声をあげた。
「く……う、う……!」
しゃんと伸ばそうとした背は重力に負けてしにゃりと曲がる。
せめて腕に立てようとした爪は、力が入らず肌の上を滑る。
興奮が収まっていくのに合わせて、急速に意識が遠のいていく。
さっきまで荒かった呼吸は深くゆっくりに変わり、いすの上で姿勢が崩れていく。
睡魔が、劉氏の意識を暗黒の泥沼に引き込んでいく。
憎らしい男の気配が、すぐ側に感じられる。
(い、や……眠りたく……ない……。
誰か、私を……起こ……し……)
卞夫人はいけ好かないが、あの女を早く返したのは早計だったかもしれない。
あんな女でも、話していればそれなりに時間を稼げたものを。
自分が睡魔に屈し、夫の悪夢に捕らえられるまでの時間を。
劉氏と卞夫人は、妻としての性格が全く逆だと思います。
三国志演義によれば、劉氏は袁紹の死後、袁紹の五人の妾とその子供を皆殺しにしています。
対する卞夫人は元々歌妓であり、曹操が息子を死なせたことがきっかけで別れてしまった正妻を時々招いてもてなしていたとのことです。ちなみに、曹操の妾は一説には二十五人とか。
夫の態度はともかくとして、卞夫人の方が非常に広い心を持っていたことは間違いないでしょう。