卞夫人~許昌にて(1)
今回の幕間は、本当に短くする予定です。
たぶん劉琦編の半分くらいで終わると思います。
辛毗に会って救いへの道を確保した袁紹がやり残したことの一つ、家族の仇討が幕を開けます。
私は、悪くない。
私はただ、自分の幸せと息子の将来を考えて行動しただけ。
別に、悪意なんてないのよ。
だからそれで何人殺したって、あなたにとやかく言われたくないわ。
私は名家の妻として、その職務を全うしただけ。
別に、悪巧みなんかじゃないのよ。
だって、あなたにその自覚が足りないんだから、私がやるしかないじゃない!
悪いのは私じゃなくてあなた。
あなたが下賤な女どもを愛するから悪いのよ。
だから、私があなたに呪い殺される理由なんてないんだから!!
うららかな日差しの下を、卞夫人は歩く。
その足を向けた先には、上品な佇まいの小さな館がある。
今日はその、館の主に用があるのだ。
この許昌の都は、彼女の夫、曹操が築いたといっても過言ではない。
ゆえに、彼女はこの都の中で、宮中以外なら自分の庭のように歩けるはずだった。
だが、これから行く場所はそうではない。
その館の主は、そんなに気安く接してはくれない。
その館には、夫曹操の旧友の夫人が住んでいる。
正確には、未亡人だ。
旧友は、もうだいぶ前に死んでしまったのだから。
その経緯を思い出すと、どうしても気が重くなる。
曹操は旧友、袁紹を戦で破った。
その後袁紹は病死し、曹操は袁紹が治めていた河北に攻め込んで袁家を滅ぼした。
その未亡人の息子も、戦で死んでしまった。
(ああ、夫が殺したようなものだわ……)
乱世の定めとはいえ、こればかりは申し訳なく思う。
息子を殺され自分だけが生き延びている苦痛は、どれほどであろうか。
自分の息子が生きていることを謝るように身を縮めて、卞夫人は館の門をくぐった。
「すぐ、お取次ぎいたします」
召使いがうやうやしく一礼し、せわしなく歩いていく。
卞夫人は玄関に立ったまま、召使いが戻ってくるのを待っていた。
こうして立っているだけで、いたたまれない気持ちになるのはなぜだろう。
この館の内装は、冀州城の袁家の生活空間によく似ているという。
当たり前だ、冀州から移送されることになった未亡人が、持てるだけのものを持ってここに引っ越してきたのだから。
それから何年経っても、ここの空気は変わらない。
身分の低い者を蔑み、追い出すような威圧感。
元々が歌妓であった卞夫人にはどうにも居づらいものがある。
(それでも、私はあの人の相手にならなければ……)
卞夫人にその未亡人の相手をさせるのは、夫の曹操だ。
曰く、あの女はもう身寄りもなく孤独だから、話し相手になってやれと。
そもそも、曹操が未亡人をこうして保護することにしたのだ。
旧友であった袁紹に敬意を表してか、曹操はこの未亡人を丁寧に扱った。
無論、袁紹の血を引く子供は攻め滅ぼしてしまったが。
おかげで、卞夫人は時々こうして馬の合わない未亡人と話をするはめになっている。
夫の尻拭いをさせられている感がひどいが、それも仕方ないと卞夫人は思う。
(だって、夫を支えるのは妻の役目ですもの)
そう納得して正妻の座についた以上、やらない訳にはいかなかった。
卞夫人は重くなる心を持ち上げながら、召使いが戻ってくるのを待っていた。
案内されたのは、きれいな庭を眺められる居間だった。
辺りには、すでに茶の香りが満ちている。
未亡人は、庭の方を向いて座っていた。
「こんにちは、劉氏。
ご無沙汰してごめんなさいね」
卞夫人が声をかけると、未亡人……劉氏はようやく気付いたように振り返った。
「あら久しぶり、でも今回は早い方ね」
どこか相手を蔑むような、棘のある物言い。
自分を何様だと思っているのか。
しかし、それも仕方がない。
彼女は、元は河北四州を治めていた名門袁家の長、袁紹の正妻であったのだ。
袁紹が死んで袁家が滅んでも、劉氏の頭の中は変わらないらしい。
心無い人はそれを、時代遅れの石頭などという。
卞夫人自身も時々そう思っているのは、彼女には内緒だ。
卞夫人は思わず心の中で毒づきかけたが、何とか表には出さずに済んだ。
劉氏の顔を直視したとたん、別の衝撃がその感情を凌駕したからだ。
「……まあ、どうなさったの?
ひどい隈だわ……!!」
卞夫人を驚かせたのは、劉氏の目の下に黒くしみついたひどい隈だった。
あれほど身だしなみに気を遣っている劉氏が珍しい……。
もう、それしかすることがないせいもあるが。
卞夫人の視線に気づくと、劉氏は苦々しく口元を歪めた。
「これは、見苦しくてごめんなさいね。
でも、あなたには関係ないことだわ」
そう言って、劉氏は茶に口をつける。
卞夫人も同じように一口飲んで、その濃さに思わず目を見開いた。
「ちょ、ちょっと……こんなに濃いお茶を飲んだらますます眠れなくなるわよ!?
眠れないのなら、もっと薄く淹れてゆっくり休まないと!」
しかし、劉氏は不機嫌な顔のまま言い返す。
「こうしたくてやってるんだから、いいのよ。
お気に召さないなら、あなたの分だけ淹れ直させましょうか?」
「あなたの分だけって……」
こんなに体に悪いことを、自分の意志でやっているのか。
卞夫人は不覚にも、劉氏のことが心から心配になってきた。
いけ好かない女ではある。
だが、自分は夫からこの女の面倒を見るように言われているのだ。
それに、同じ君主の正妻として、彼女の苦悩を分かってあげたいという思いもあった。
自分でも、どこまでも甘い女だと思う。
でも、だからこそ曹操は自分を選んでくれたのだろう。
「何か、事情があるのね。
だったら話してちょうだい、私で力になれるのか分からないけど
話すだけでも、心が軽くなるかもしれないわ」
それを聞くと、劉氏は少しだけ卞夫人と目を合わせた。
「ふうん、お優しいつもりなのね。
いいわ、減るものじゃないし」
相変わらず棘のある言葉、しかし打ち明けてはくれるようだ。
頼ってもらえる喜びに、卞夫人はかすかに目を細めた。
今回登場する卞夫人は、曹操の正妻です。
劉氏は袁紹の正妻ですが、彼女のしたことと性格については袁譚編、辛毗編ですでに語られています。
劉氏がなぜ体調不良になっているのか、これまでの流れを考えるとだいたい想像はつくかと思われますが…。