父を殺した男は、死んだ神の喉を掘っていた
一
父を殺した男は、死んだ神の喉を掘っていた。
その噂を聞いてから、レアは三つの領境を越えた。秋の初めには赤かった樹々が、最後の峠へ着いたときには葉を落としていた。道の低いところには霜が残り、荷馬の吐く息は、朝のうち白く尾を引いた。
十一月の初め、最後の峠から西を望むと、巨神の胸が開けていた。
幾本もの肋骨が、平原から立ち上がっていた。その一本一本が山であった。麓には森があり、中腹には雲がかかり、頂には、すでに冬の雪が白く積もっていた。折れた骨の断面へ日が当たると、遠くからでも、内側に無数の小さい穴のあることが分かった。そこに砦を築いた領主がいた。大きな空洞を穀倉にしている町もあった。
神は西の海へ頭を向け、東の平原へ脚を延ばして倒れている。片腕は南の海峡を渡り、その指先は、人々が五つの島と呼ぶ土地になっていた。肩に降った雨は古い肉の失われた谷を下り、胸の低地へ注いだ。腹を覆った土には麦が育ち、骨盤の縁には塩の湖があった。
生まれた土地で一生を終える者の多くは、神の骨を見上げることはあっても、その全身の形を知ることはなかった。地図を広げて初めて、自分の町が腕の内側にあることや、海だと思っていた水面が、神の指の間に挟まれた湾であることを知るのであった。レアも、二十二歳で旅に出るまで、故郷の南に続く白い丘が、神の手首であることを知らなかった。
神が何と呼ばれ、何のために死んだのかについては、聖堂ごとに説が違っていた。人間を守って死んだという者があり、人間に殺されたという者もあった。だが、骨の採掘権を定める際には、どの領主も地図の線を用いた。神の名について何年争っても、税を取り立てる村の数には間違いがなかった。
人々は神の骨で家を建てた。乾いた血の残る石から火を取り、その火で鉄を鍛え、パンを焼いた。聖堂の祭壇も、家畜小屋の敷石も、同じ白い骨から切り出されていた。
峠を下りるにつれて、それらの白さが近づいてきた。骨の断崖を背に、小さな家々が身を寄せていた。屋根には薄い石が載り、石の上には、風で飛ばないよう、さらに骨の塊が置かれていた。家と家の間を、赤い荷を背負った男たちが歩いている。荷から落ちた粉が道を染め、雨の流れた跡だけが白く残っていた。そこが、肋谷という集落だった。
レアが宿で男の名を尋ねると、女主人は、火にかけた鍋から顔を上げた。
「ガルドなら喉にいるよ」
「一人か」
「今は骨屑を運びに二人行っている。何の用だい」
「会えば分かる」
女主人はレアの腰を見た。旅装の外へ、剣の柄が出ていた。
「道は、そこの聖堂の脇から」
レアが踵を返すと、女は名を尋ねた。
「レア」
それだけ答えて外へ出た。
聖堂では、昼の祈りが終わったところだった。戸口から出てきた鉱夫たちの髪には白い粉がついていた。その一人が、階段の端で膝をつき、骨に手を当てた。祈りの言葉を口にしてから、同じ手で背負い籠を担ぎ直した。
聖堂の先から、道は緩く下っていた。神の胸を抜ける風が背中を押し、曲がり角を越えると、黒い穴が見えた。口元には小屋があり、雨水を受ける樽と、刃の欠けた鑿が並んでいた。レアは小屋の棚から灯りを一つ借り、穴へ入った。
初めは高かった天井が、奥では低くなった。足元に細い水路があり、ときどき、その水を外へ逃がす横穴があった。日の入る横穴の周囲には、灯りに寄る小さな虫が群れていた。さらに奥へ進むと、昼の明るさはなくなった。
奥から、槌を打つ音が聞こえた。三度続くとしばらく止み、また三度、暗い通路に響いた。レアはその音を頼りに進み、骨屑の籠を抱える若者とすれ違った。若者は、剣を避けるように身体を壁へ寄せた。
突き当たりで、老人が座っていた。槌が下りるたび、白い粉が肩へ落ちたが、老人はそれを払わず、左手の鑿を少しずらしてまた打った。三度打ってから手を止めると、次の一打までには、レアが思っていたより長い間があった。その間、老人はただ息をしていた。
レアが剣の鞘を壁へ当てると、老人は振り向き、まず槌を膝に置いてから顔を上げた。目を細めているので、彼女は灯りを高くした。
「ガルドか」
「そうだ」
「ラント村を覚えているか」
老人の目が彼女に定まった。頬は落ち、首には深い筋が寄っていた。額も、口の周りも、彼女の記憶にある男とは違っていた。ただ、右の眉を割る傷があった。眉の下から人を見る、その目の置き方を、レアは覚えていた。
「覚えている」
「白い外套の部隊を率いていた。村へ火をかけたな」
「かけた」
「逃げる者を斬った」
「斬った」
レアが剣の柄を握ると、老人は槌を床へ置き、次に鑿を置いた。二つの道具が転がらないよう柄を壁のくぼみへ寄せ、それから彼女へ向き直った。その手つきが、レアには腹立たしかった。
「立て」
老人は片手を壁につき、右脚を引き寄せようとして顔をしかめた。膝が伸びないのであった。レアが見下ろす前で、腕の骨が、袖の中で細く動いた。
「そのままでいい」
自分の声が、ひどく低く聞こえた。老人は壁から手を離した。
「村の生き残りか」
「父を、お前が殺した」
「そうか」
老人が襟を下げると、骨の浮いた首が見えた。
「ここでいい」
レアは刃を鞘から引いた。
「待ってくれ」
背後で灯りが揺れた。宿の女主人が、さっきの若者と、もう一人の鉱夫を連れて来ていた。狭い通路を急いだためか、息を切らしていた。
「この人に恨みがあるというのは聞いた。だが、道が通るまで待ってもらえないか」
「どけ」
「頼むよ」
後ろの鉱夫が、老人を庇うように一歩進んだ。
「この人は、もう十九年もここを掘っているんだ。今では聖堂の司祭だって、立派な――」
「私の父は死んだ」
鉱夫は口を閉じた。
「この男が何年ここを掘ろうと、私の父は死んだままだ」
「その通りだ」と老人が言った。「マルタ、帰ってくれ。この人の用は、私にある」
女主人は動かず、レアの顔を見ていた。
「父親を殺された人に、私から、この人を許せとは言えない」
「だったら」
「道を待っているんだよ。私らは」
女の声には、先ほどまでの息切れが残っていた。
「峠で人が落ちる。熱を出した子を、背負って越える。荷を運ぶために、家の者を順番に出す。それが来年も再来年も続く。ここが通れば、冬にも下へ行ける」
レアは女を見た。女はレアの剣を見なかった。
「あと、どれだけだ」
レアが老人へ尋ねると、彼は白い壁へ目を向けた。
「この冬のうちに、と思っている」
「そう言って、何年待たせた」
「分からないところがある。壁の厚みは、外から測っただけだ」
「なら、明日通るかもしれないし、あと十年かもしれない」
「十年はかからない」
そこで初めて、老人の声に力が入った。レアはその顔を見た。首を差し出したときには何も動かなかった目が、今は、壁の奥を見ようとしていた。
「人が一人、向こうへ通れるようになったら、その夜、お前たちは邪魔をしないな」
マルタは唇を結んだ。
「しない」
「誰が出てきても、私を止めるな」
「引き受ける」
レアは老人へ目を戻した。
「逃げれば、お前を捜す。今度は誰が何を言っても待たない」
「逃げない」
レアは剣を鞘へ収めた。
宿へ戻ると、マルタは鍋を火にかけ直した。レアは部屋代を出し、窓から穴のある方を見た。日が傾き、肋骨の峰が赤く染まっていた。その影が、家々を端から暗くしていった。
レアは、十九年という長さを思った。父の死から数えた二十年は、彼女の中に一日も欠けずにあった。だが同じ年月のほとんどを、あの男が暗い穴で費やしたことは、今日まで知らなかった。
知ったからといって、何が変わるものでもなかった。レアは窓を閉めた。
二
翌朝、レアはガルドより先に穴へ行った。
入口の小屋には、干した上着と、一足の靴があった。片方の靴は底が剥がれかかり、もう片方には、つま先へ厚い革が縫いつけられていた。壁に掛けた袋を開くと、針と糸、乾いた豆、塩の塊が出てきた。金目のものはなく、レアは、それらを元の場所へ戻した。
やがてガルドが、食事の包みを持って上がってきた。先に来ているレアを見ても何も言わず、灯りを取り、穴へ入った。彼女も後につき、その日は壁際に立って、老人の仕事を見続けた。
老人が鑿を当てて槌を振ると、骨がわずかに欠けた。彼は刃先を少しずらしてまた打ったが、落ちるのは薄い破片ばかりだった。まとまった塊が落ちるまでには、何度も刃先を替えなければならなかった。
老人は、ときどき槌を腿へ置いた。そのたびにレアは、また休むのかと思った。だが、次の一打を待っているうちに、彼の息が、座っているだけでは治まらないほど乱れていることが分かってきた。息が戻ると、槌が上がった。
昼には入口まで戻り、堅いパンを水で湿らせて食べた。ガルドはレアにも半分差し出したが、彼女は自分の包みを開いて見せた。午後も、午前と同じであった。
日暮れに骨屑を籠へ集め、壁の前を片づけると、その日の仕事の跡が見えた。大人が両手を広げたほどの面が、わずかに奥へ引っ込んでいた。レアは削った壁と老人とを交互に見た。この男が今日一日を費やして開いたのは、これだけであった。
見張りを始めて三日が過ぎても、その量は大きく変わらなかった。四日目、ガルドは刃の丸くなった鑿を二本持って鍛冶場へ出かけた。レアは小屋の前で待ったが、午後に雪がちらつき始めても、老人はまだ戻らなかった。
その夜、レアは宿でマルタに尋ねた。
「十九年、ずっとあの調子なのか」
「初めは、もっと進んだよ。若かったしね」
「誰も手を貸さなかったのか」
「貸したさ。私の夫も行った」
マルタは、炉の灰を掻いた。
「ただ、赤石を掘らなきゃ食べられない。春になれば畑もある。道が何年先に通るかも分からないうちは、毎日あそこへ行ける者はいなかった」
女は棚から、紐で括った古い帳面を出した。宿の出入りをつけたものだった。何枚もめくり、黄色くなった頁をレアの方へ向けた。
鉄の鑿、六本。油、二壺。男三人、二十日。
字の形は今のマルタのものより丸く、墨は薄かった。
「掘り始めて十年目の帳面だよ。この年は下の町にも金を出してもらった。鍛冶屋と石工が来て、大勢で打てばすぐ通ると思ったんだ」
「通らなかった」
「一年ほどで金が尽きて、来ていた人も半分に減った。十二年目になる頃には、ほとんど来なくなった」
ガルドが最初の槌を持って喉へ入ったのは、十九年余り前だという。当時、人々は笑った。人が食って生きるだけでも骨を折る土地で、食えもしない穴を掘り、死ぬまでそこへ通うつもりか、と言った。
一冬が過ぎ、二冬目が来た。ガルドが外へ積む白い骨屑の山だけが高くなった。笑う者は減り、代わりに仕事場を覗き込む者が増えた。三年目には誰かが小屋の戸口へ食事を置くようになり、五年目には、ガルドが自分で直していた鑿を、鍛冶屋がまとめて引き受けた。
人が増えた年にも、誰も来なくなった年にも、ガルドは同じ穴へ入った。奥が深くなると、外からは姿が見えなくなった。それでも小屋の前には、乾く暇のない濡れた靴があった。夕方には新しい骨屑が運び出された。
マルタは帳面を閉じ、炉のそばへ置いた。
「この人のせいで人が死んだ、とは聞いていたよ。ここへ来た頃、自分でそう言っていたから。罪滅ぼしに、人のための仕事を探していると」
「それで、穴を掘ったのか」
「来て間もない頃に、峠で荷運びが一人落ちたんだ。ガルドは、引き上げる綱を握っていた。私もいたよ。上がってきた男は、もう死んでいた」
マルタは火を見た。
「幾日かして、鍛冶屋へ道具を借りに来た。ここを掘れば、人が落ちずに済むかもしれないと。それから、穴へ通い始めた」
「それで、十九年か」
「今はね」
レアは火の上の鍋を見ていた。女がその十九年を大切に数えるほど、彼女は自分の二十年を奪われるように感じた。片方の年月を示されたからといって、もう片方を引っ込めることはできなかった。
見張りを始めて五日目の朝、レアは坑道の壁に手を当てた。冷たい、滑らかな面であった。ところどころに細い筋が走り、灯りを近づけると、白い内側に薄い黄色の層が見えた。普通の石に似てはいたが、同じではなかった。
レアの剣には、柄の中に神血を固めた小石が嵌めてあった。決まった順序で息を吐き、指で刻印を押さえると、その力を刀身へ流せた。鎖帷子の継ぎ目を裂くときにも、獣の厚い皮を切り開くときにも、彼女はそれを使った。
「術なら、もっと速い」
レアが言うと、ガルドは顔を上げた。
「骨へ通してはいけない」
「神の骨だから、傷つけるなというのか」
「傷が戻る」
ガルドは、道具を置くくぼみの下を指した。赤錆びた鉄が、親指の爪ほどの幅だけ出ていた。レアが膝をついて灯りを寄せると、それは折れた刃であった。その両側を、白い骨が隙間なく挟んでいた。
「私の剣だ」と老人が言った。「初めの年にやった。刃は入った。だが、抜くより先に塞がった。引こうとして折った」
人間が術と呼んでいるものの多くは、神血に残った力を、かつて神へ捧げられた祈りの形で動かすものだった。火を寄せ、刃を強くし、灯りをともすことができた。その力を神の骨そのものへ戻すと、骨は傷つく前の形を取り戻そうとした。神血の術で、神の骨を砕くことはできなかった。
ただの鉄を、人の腕で打ち込めば、その傷は残った。ガルドの十九年は、その小さな違いの上に積もっていたのである。
レアは錆びた刃へ爪を当てた。しっかり埋まっていた。
「あと、どれほどだ」
「向こうの裂け目に近づいているはずだ」
「はずか」
「外から測ったときには、そう見えた。海側から掘ることも考えたが、崩れた斜面に人を置き続けられなかった。こちらなら、横穴から水も出せる」
ガルドは壁へ鑿を置き、また槌を取った。
「そう何度も尋ねられても、同じことしか答えられない」
その言葉を聞いて、レアはしばらく黙った。老人は休み休み働き、砕いた骨を運び、刃が丸くなれば鍛冶屋へ出かけた。その一つ一つの用事が済むまで、レアは何もできずに待ち続けなければならなかった。
九年、捜した。
ラント村の名は、聖堂の遠征記録に残っていた。敵の敗走兵へ食糧を渡した村への処罰として、その焼き討ちは戦功の欄に記されていた。レアが役所へ行くと、すでに終わった軍の仕事だと言われた。
白い外套を着ていた聖騎士、ガルド。その名に辿り着いたのは二十二歳の年だった。解散した部隊の記録を追い、昔の従者を訪ね、戦死した者の名簿を調べた。肩の町で二度冬を越し、掌の平野では、見当違いの男をひと月追った。銅貨が尽きれば護衛を引き受け、旅費ができると、また捜した。
それを思えば、この冬くらい待てるはずであった。だが、見つけるまでの九年より、目の前で槌の上がるのを待つ一刻の方が、レアには耐えがたかった。
「余った道具はあるか」
ガルドが手を止めた。
「槌と鑿だ」
「小屋にある」
「私も掘る」
老人は彼女を見た。
「早くお前を殺すためだ。勘違いするな」
「分かった」
それだけ答え、壁の前を少し空けた。
レアは剣帯を外して道具のくぼみへ置き、借りてきた鑿を左手に握って壁へ当てた。一打目は鑿が跳ね、二打目では腕へ痺れが来た。三打目に薄い破片が一つ落ちたが、それから何度打っても、同じ場所が白く潰れるばかりだった。
「少し寝かせる」
ガルドが言った。レアは聞こえないふりをしてもう一度打ったが、骨は欠けず、鑿が滑った。
「腕で押さえ込まなくていい。刃先が入る場所を探す」
彼女が槌を下ろすと、老人は自分の鑿を細い筋へ当て、一度打った。指二本ほどの骨が落ちた。レアはその筋の続きを探し、刃先を当て直した。
鑿が滑るたびに刃先を置き直し、何度か打ち続けるうちに、ようやく小さな骨片が落ちた。腕の力なら自分の方があった。それでも老人の足元には、彼女より大きな破片が溜まった。悔しさのために、レアは休むことも忘れた。昼前には掌が擦れ、夕方には、親指の付け根に血が滲んだ。
骨屑を集めると、その日はいつもの二倍近くあった。レアが籠を入口へ運ぶと、背後でガルドが立ち上がろうとしている音がした。彼女は戻り、残っていた籠も持った。
これも、道が早く通るためであった。
三
二人で掘り始めて十日が過ぎた。レアの掌には水疱ができ、それが潰れて薄い皮が剥けた。布を巻けば持てないこともなかったが、強く握ると傷が開いた。剣の柄では、こんな場所に傷を作ったことはなかった。
腕より先に肩が痛み、その痛みが薄れる頃には背中が張った。朝、寝床から身体を起こすと、昨日どこを多く使ったかが分かった。それでも坑道へ入ると、昨日より先へ進んだ壁があった。
ガルドは、彼女がどれほど痛むかを尋ねなかった。打ち方がおかしくなると肩を下げるように言い、鑿が深く入ると、すぐには引かず、少し横へ揺するように教えた。レアも、必要なことだけを聞いた。
ある夕方、ガルドが槌を取り落とした。柄へ巻いてあった布がずれ、その下から、黒く磨かれた木が出ていた。老人は布を巻き直したが、次に打ったときにも、槌は掌の中で少し回った。
「それを見せろ」
レアが手を出し、受け取った柄を確かめると、それは太く、長く使ううちに握るところが不均等に減っていた。ガルドの指は曲がりきらず、小指の先が木に届いていなかった。
「布を巻くから、余計に持ちにくい」
「滑るんだ」
「借りていく」
レアは槌を持ち帰った。
宿の炉端で、レアは木の筋を確かめながら柄の側面を削った。刃が深く入らないよう親指を添えると、薄い木屑が膝へ落ち、乾いた木の匂いがかすかに立った。その匂いに、父の仕事場を思い出した。
父は、削り終えた柄を、すぐには客へ渡さなかった。実際に道具へ差し、使う人の手で握らせた。太い指の男にも、年を取った女にも、同じ形の柄を渡して済ませることはなかった。
レアは客の帰った後、床に落ちた木屑を拾い、細いものから炉へくべた。大きく巻いた木屑があると指へ通して輪にしたが、父は、それを片づけの済んでいない机へ並べるのを嫌がった。
片づけなさいと叱り、自分も袖で二つ三つ落とした。夕食になると、髪につけた木屑を取らずに食卓へ来た。母のいない家で、父はしばしば鍋の塩を忘れた。レアが味のしない煮込みへ顔をしかめると、父は黙って塩壺を近づけた。
レアは小刀を止めた。長いあいだ思い出してきた父は、血を流して倒れる父だった。倒れる前に何を食べ、何を面倒がり、どんなことで笑ったのかは、その姿の後ろへ隠れていた。
膝の上には、柄を削りかけた槌が載っていた。レアはそれを炉へ投げ込もうと思った。なぜ自分が、父を殺した男の手を楽にしてやらなければならないのか。その男がもう一度しっかり握れるよう、父から教わった手つきで木を削っている。そのことが、耐えがたくなった。
彼女は槌を机へ置き、部屋へ上がった。
翌朝、削り残した片側を仕上げた。これがあった方が仕事は早い。ただ、それだけだった。
坑道で槌を渡すと、ガルドは何度か握り直し、肘を曲げて重みを確かめた。
「これなら、持てる」
レアは道具を取り上げてしまいたくなった。だが、何も言わずに自分の場所へ座った。
昼になって入口へ戻ると、レアはいつものように剣帯をつけ直した。パンを食べながら、彼女は尋ねた。
「父の名を覚えているか」
ガルドは手を止めた。
「ラント村で、お前が斬った男だ。私の父だ」
老人はしばらく彼女を見ていた。
「覚えていない」
レアの指の中で、パンが潰れた。
「思い出せ」
ガルドは目を落とした。
「名は、聞かなかった」
小屋の軒から、水が一滴落ちた。前の日の雪が昼の日差しで解けていた。レアは立ち上がり、老人を見下ろした。
「お前は、何も知らずに殺したんだな」
「そうだ」
「あの人が何をして暮らしていたかも、誰を家で待たせていたかも」
ガルドは答えなかった。レアは小屋の前へ回り、老人の顔を正面から見た。
「穀物小屋に人が入っていた」
言葉にすると、あの日の戸が見えた。
村の広場に、刈り入れた麦を積む小屋があった。村人は家から追われてそこへ集められた。十一歳のレアは、父に押し込まれた薪小屋の隙間から、向こうを見ていた。乾いた樹皮が頬へ当たり、動くと音がした。
父は広場で、穀物小屋の戸を開けようとしていた。そこへ白い外套の男が近づき、父が何か言いかけたとき、男の腕が動いた。父の身体が戸へぶつかり、そのまま座るように地面へ落ちた。戸を開ける手が、いつまでも前へ出ていた。
「戸を閉じろと言ったのは、お前か」
「私だ」
「兵が、閂をかけた」
「かけさせた」
「子供がいると、声がしていた」
レアは一語ずつ言った。
「お前にも聞こえていたか」
ガルドは顔を上げた。
「聞こえていた」
レアは、いつの間にか腰の剣の柄を握っていた。その手へ、さらに力を込めた。
「なぜだ」
「逃がせば、また兵へ食糧を運ぶと思った」
「子供がか」
老人の唇が動き、止まった。
「命令だったと言うのか」
「村を焼く命令はあった。だが、戸を閉じさせたのは私だ」
レアは老人の目を見ていた。言い訳を見つけてくれれば、もっと憎めると思った。開き直りでも、侮りでもよかった。剣を抜く手へ、もう一度力の入る何かが欲しかった。だが、目の前の男は、彼女の言葉を受けて、ただ座っていた。
「ダンだ」とレアは言った。「父の名は、ダンだ」
ガルドの喉が動いた。それ以上は聞かず、レアは小屋を離れた。
夕方まで、彼女は穴へ戻らなかった。集落の外れへ行くと、雪の薄い畑があった。畑の向こうでは肋骨の根元が露出し、その白い面へ、小さな墓穴が並んでいた。骨を削って穴を作り、その中へ死者を納めるのであった。
墓の前に、小さな木の椀が置いてあった。鳥が椀の縁をつつき、レアが近づくと飛び去った。
父には墓がなかった。
村へ戻れたとき、焼けた建物は崩れ、誰の骨かも分からなくなっていた。父のいた戸の前には大きな梁が落ちていて、レアはそれを一人では持ち上げられなかった。そのことを、まだ覚えていた。
掌が痛んだ。剣の柄を握ったため、傷がまた開いていた。彼女が布を巻き直すと、その端から、潰れたパンの欠片が落ちた。
翌朝、レアは坑道へ行った。止めれば、そのぶんだけ終わりが遠くなる。老人はまた、一人で少しずつ壁を削り、彼女はそれを待つことになる。
ガルドは、直された槌を使っていた。彼女が横へ座ると少し身体をずらしたが、何も尋ねなかった。レアも何も言わずに鑿を当てた。新しい木肌の見える柄が、老人の掌から何度も上がり、下りた。
四
十二月に入ると、巨神の胸から地面の色が消えた。
雪は肋骨の高いところから下り、森を覆い、畑の畝を埋めた。南の海で水を含んだ風が、骨の山へぶつかって雲を作り、その雲が胸の内側へ雪を落とすのであった。峠の向こうで晴れている日にも、肋谷には雪が降った。
巨神の腹の平野では、この季節にも麦を挽いているという。掌の港では、南の島から果物が届くという。そういう土地へ赤石を運ぶ馬も、人も、今は白い骨の峰を越えられなかった。
家々の軒下には、雪の来る前に積んだ赤石があった。暖を取る火には困らなかったが、火を焚くための石を売れなければ、小麦粉も塩も増えなかった。宿の食卓では煮込みに入る豆の割合が多くなり、パンは薄く切られ、その代わりに湯がよく出た。マルタは誰かに文句を言われる前に、今年はまだ樽がある、と言った。樽のない年もあったのだろうと、レアは思った。
坑道の中では、雪は降らなかった。朝も夕方も同じ灯りが壁を照らし、横穴に雪が吹き込めば掻き出した。水路に骨粉が詰まると小さな板でさらい、それが済めば、また奥へ行った。
レアは仕事の順序を覚えた。初めに昨日の壁を叩き、響きを聞いて筋を見つける。傷んだ刃は早めに取り替える。割れそうな大きな塊があっても、その上の層を見ずに手を出してはいけない。一枚落ちると、その後ろから、別の一枚が続くことがあった。
一度、彼女は頭ほどの骨を落とした。喜んで次の鑿を当てると天井で細い音がし、ガルドが槌の手を押さえた。二人で壁を調べ、削りすぎた上へ支えを入れなければならなかった。その日は前へ進まず、レアは腹を立てた。それでも、支えを入れた場所を通るたび、頭上を見るようになった。
二人で掘り始めて、ひと月ほどになった。レアの掌の皮は厚くなり、潰れた水疱の跡へ新しい皮が重なった。鑿を握るときには前ほど布を巻かなくなったが、代わりに、爪の隙間の骨粉が落ちなくなった。湯で洗っても白いものが残った。
ガルドの指は、寒さとともに赤く腫れていった。朝には一本ずつ伸ばさなければ動かず、小屋から仕事場まで来る間にも休むことが増えた。それでも奥へ着くと、同じ場所へ座り、同じ道具を持った。
レアは、彼の足元の骨屑を先に運び出すようになった。老人が立ち上がる回数が減れば、壁を削る回数が増えるからであった。水も彼女が汲み、灯りが薄くなると、自分の灯芯と一緒に彼のものも切った。食事の包みが手の届かないところへ置かれていれば、近くへ寄せた。
そうしている自分に気づくと、レアは父の名を心の中で呼んだ。顔も、あの戸の前の姿も、すぐに浮かんだ。それでも次の骨片が落ちれば、彼女はまた壁へ目を戻した。
年の替わる夜、集落では聖堂の鐘を鳴らした。
骨の峰へ小さな火をともす習わしがあり、レアも宿の前から、その火を見た。下の家々からは、峰に従って灯りが空へ上がっていくように見えた。神の胸を縁取る火は遠いものほど弱く、最後の幾つかは星と見分けがつかなかった。
マルタが温めた酒を配った。鉱夫が来年には海の町で飲めると言うと、別の男は、荷馬を通せるようになるにはまだ何年もかかると答えた。
「馬は後でいい。背負って歩ければ、それでいい」
マルタが言った。
「うちの人も、それで帰れた」
女は酒を鍋へ足した。夫が死んだのは十四年前だと、あとで聞いた。赤石を運んだ帰りに、氷へ足を取られた。荷が重かったからではない。帰りの籠には、塩と小麦粉しか入っていなかったという。
レアは酒を飲み干し、遠い峰の火を見上げた。一つ消え、しばらくして隣も消えた。高いところの風が強くなったのだった。
年が明けて幾日かした昼、ガルドが仕事場で眠った。鑿を持ったまま頭を下げ、呼びかけてもすぐには顔を上げなかった。レアが肩に触れるとようやく目を開いたが、小屋へ帰れと言っても、まだ昼だと答えた。
「何歳だ」
レアは尋ねた。
「六十二」
父が生きていれば、いくつになっていただろう。レアは数え、それをすぐにやめた。この男は、道が通る前に死ぬかもしれなかった。
そう思うと、彼女は急に落ち着かなくなった。自分は何を待っているのか。目の前にいる男が弱るのを見ながら、わずかな骨が落ちるのを待ち、その果てに、誰も恨みを受け取らないまま終わってしまうのではないか。その日の仕事を終えてからも、その考えが離れなかった。
夜、レアは剣を取った。外では風が止み、雪が静かに降っていた。家々の戸は閉じられ、宿の炉には灰がかけてあった。彼女は誰も起こさずに外へ出た。
道が通るまでという約束を、自分からした。だが、その約束のために父の仇を取り損なうのなら、自分は何をしに、ここまで来たのか。小屋の寝床であれば、すぐ済むはずだった。
入口へ来ると、戸の隙間が暗かった。レアが戸を押すと、寝床は空で、干してあった上着もなかった。穴の奥から槌の音がするので、彼女は灯りを取り、入っていった。
雪を踏む音がなくなると、槌の響きが大きくなった。一つ打っては長く休み、ようやく次の音が響いた。昼間よりも長いその間隔に、レアは耳を澄ませた。
最後の横穴を過ぎたところで足を止めると、奥の灯りにガルドの背が見えた。壁へ頭を寄せ、左手を置いている。しばらくして右腕が上がり、鉄が鳴った。小さな骨が足元へ転がると、老人はそれを目で追い、また鑿を当て直した。
槌を握る手を、ときどき腿へ擦りつけた。指が利かないのであった。持ち直し、振り上げ、下ろした。顔を横へ向けて咳をし、それが治まるのを待ってから、また握った。
レアは剣の柄から手を放した。
彼の足元まで来る間、彼女は壁の古い鑿跡を見た。腰より低い場所にも、頭の上にも跡があった。それらの一つ一つに、その都度槌を上げた腕があった。
今日、自分の削った壁は、ほんのわずかであった。昨日も、一昨日もそうだった。そのわずかな奥へ、またわずかな奥へと進んで、十九年が、この長い暗がりを作ったのであった。
ガルドの口が動いていた。耳を澄ますと、食事の前にも唱える祈りだった。骨に支えられる者のために、今日一日の糧を願う、短い言葉だった。声は途中で掠れ、槌の音に消えた。言い終えたのか、まだ続いているのかも分からなかった。
「ガルド」
レアが呼ぶと、老人は振り向いた。
「休め」
「まだ、できる」
「明日も働くんだろう」
レアは前へ行き、彼の足元から槌を取った。
「そこを空けろ」
ガルドはしばらく彼女を見ていたが、やがて手をついて、壁から身体を離した。レアはそこへ座り、邪魔になる剣帯を外して脇へ置いた。
老人から鑿を受け取り、壁へ当てた。昼に削った筋の続きが、指に触れた。
「この下か」
「もう少し左だ」
レアは刃先をずらし、槌を振った。
それからの日々も、二人は同じ穴へ入った。雪が横穴を塞ぐ日があり、床の水が凍って、骨屑の籠を抱えて歩けない日があった。鑿が欠け、油が尽き、打ち込んだところに思わぬ硬い層が出た。その一つ一つを片づけるうちに、もうひと月が過ぎた。
レアは朝、目を覚ますと、昨日残した骨の筋を思い出すようになった。あの下へ刃が入る。あの塊を先に取らなければ上が落ちる。身体を起こす前から、指が置き場所を探した。
マルタが持ってくる食事は、奥のくぼみに二つ並ぶようになった。ガルドは片方を取り、レアはもう片方を取った。手についた骨粉を払い、包みを開いた。
レアは、ときどき、昼の半ばまで剣のことを思い出さなかった。
五
二月も半ばを過ぎた、雪の止んだ朝だった。ガルドは、いつもより長く骨壁の響きを確かめていた。槌を振るのではなく、柄の尻で場所を変えながら小さく叩き、そのたびに顔を近づけていた。
「ここか」
レアも隣へ座り、老人の触れていた場所を打った。少し離れたところより音が低く、もう一度打つと、向こうで響きが膨らむように聞こえた。
「奥が空いている」
ガルドが言った。
「近いのか」
「そう思う」
それきり、二人とも喋らなくなった。
白い層の下から、黄色い薄い筋が出ていた。これまで何度も見た骨の筋だったが、この日は、それが壁の奥まで続いているように見えた。薄い層を剥がしては刃を替え、二人はその筋に沿って少しずつ掘り進んだ。
昼にマルタが来て、包みを置くと壁を見た。
「何か変わったのかい」
「近い」
レアが答えた。
「どれくらい」
彼女は顔を上げかけ、ガルドを見た。
「まだ、分からない」
そう答えてから、自分が初めの日に尋ねたことを思い出した。マルタはそれ以上聞かず、水の壺を取り替えて帰った。
その日の午後、二人は大きな破片を二つ落とした。一つ目が落ちると目の前の筋が深くなり、二つ目が落ちたときには、砕ける音の後に、薄いものを叩くような響きが残った。
夕方、レアが骨屑を運び出したとき、最後の横穴から見える空は暗くなっていた。灯りに油を継ぎ足して戻り、二人は三つ目の塊を取ろうと、さらに掘り続けた。何度も刃先を替え、ようやく細い筋が奥まで届き始めたとき、レアは力を入れすぎて鑿を噛ませた。
「急がなくていい」
ガルドに言われ、彼女は槌を置いた。息を吐いて鑿を左右へ動かすと少しずつ抜けてきたが、刃先が外れてからも、小さな粉が落ち続けた。その粉が、壁からこちらへ、細く流れた。
レアが灯りを近づけると、筋の底に、針の先ほどの黒い点があった。
「ここを」
言い終える前に、ガルドが身体を寄せた。老人は黒い点の下へ細い鑿を置き、その先を押さえた。レアが柄を支えると、ガルドの槌が一度下りた。鉄が軽く鳴り、鑿が前へ抜け、二人の手が一緒に壁へ当たった。
冷たい空気が、レアの指を撫でた。灯りの火が細くなり、こちらへ傾いた。頬に触れる空気には、長く嗅いでいた油と骨粉の匂いがなかった。ガルドが何か言ったが、声にならなかった。
レアが鑿を抜くと、指の通る穴があった。穴の向こうは暗かったが、目を近づけると、その暗さの中に、少し薄いところがあった。夜の空だった。油を継ぎ足して働くうちに、夜はすっかり更けていたのである。
「抜けた」
レアが言うと、ガルドは彼女が目を離すのを待ち、穴へ顔を寄せた。肩が震えていた。それから急に、短い、乾いた笑い声を上げた。笑いが咳に変わり、咳が止まるとまた笑った。レアは老人の背へ手を当てたが、彼は構わず穴の縁を撫でていた。
「まだ指だけだ」
レアも笑っていた。
「人が通らなくちゃいけない」
ガルドは何度も頷き、道具へ手を伸ばした。
そこからの数時間は、それまでのどの日より短かった。穴の縁へ刃を当てれば、破片が向こう側へ落ちた。レアはその音を聞くたびに次の刃を置き、もう一度、もう一度と、指が場所を探した。
ガルドが上を削り、レアが下を広げた。互いの手が近いときには槌を止め、先へ出す手を見て、次の一打を待った。腕も膝も痛み、槌を握れなくなると相手へ任せて短く休んだが、その間も、目は壁の筋を追っていた。
灯りの油を継ぎ足し、交替で掘り続けるうちに、顔が通る幅になり、肩が当たる幅になった。ガルドが外れそうな上の塊を調べ、レアはその下を削った。最後に残った細いところへ鑿を差してゆっくり起こすと、塊が向こうへ倒れた。
人の通れる穴が開いたときには、夜半をとうに過ぎていた。
レアは灯りを先へ出した。向こうには古い骨の壁と、その下を斜めに下る裂け目があった。開いた穴のすぐ下に、土の溜まった棚が見えた。
彼女は道具を置いて身を屈め、片肩を出し、膝を送った。腰のあたりが壁へ擦れたが、引っかかりはしなかった。両足を土の棚へ下ろすと、骨壁に手を添え、ゆっくり身体を起こした。
灯りを下へ向けると、足元の棚は、そのまま天然の裂け目へ続いていた。さらに下には、雪のない斜面と、折れ曲がりながら海へ下る古道が見えた。
「通れる」
振り返って呼ぶと、声がひどく大きく出た。
「ガルド、通れるぞ」
老人が穴へ顔を出した。肩は抜けたが、膝を送るのに手間取った。レアは穴の口へ戻って腕を取り、足の置けるところを教えた。彼の袖が骨へ引っかかると、それを外してやった。ガルドの身体が、向こうへ抜けた。
空が広がっていた。
胸の内側で見ていた空には、いつも肋骨の縁があった。その向こうへ星が隠れ、月が掛かり、雲は骨を越えて来た。ここには、その縁がなかった。
西の海が、夜の底まで続いていた。月明かりを受けた波が、細く白く動いていた。近くには巨神の顎が、崩れた岬となって海へ突き出していた。巨大な歯の一つは、先端に草を載せ、暗い島のように立っていた。
その歯の根元には家々の灯りが集まり、古道に沿って点々と続いた先に、港の火が海面を細く照らしていた。神の身体はここまで続いていた。その身体を越えて、船の行ける海があった。風に、塩の匂いがした。
「見えるか」
レアはガルドの腕を引いた。
「下に道がある」
老人は頷き、目を細めて顔を前へ出した。よく見えるところへ行こうとして足をもつれさせたので、レアは両手で彼を支えた。ガルドは笑っていた。目から涙が流れ、その涙を拭こうともせず、遠い灯りを見ていた。
レアも何か言おうとしたが、喉が詰まって言葉が出なかった。彼女は老人の袖を握ったまま、幾度も息を吸った。
通ったのである。十九年、白い壁だったところを、人が通ったのである。
ガルドが彼女を見て頷くと、レアも幾度も頷き返した。胸の中がいっぱいになり、笑った拍子に涙が出た。
彼女は、その男と喜んでいた。
やがて風の冷たさが分かってきた。濡れた膝が冷え、汗の乾いた背中が震えた。ガルドはレアに支えられて骨の棚へ座り、彼女も隣へ座った。
穴の向こうでは、灯りの火が小さく揺れていた。槌の音はなく、二人の呼吸と、海から上がってくる風の音だけがあった。
六
レアは開いた穴から胸側の坑道へ戻り、床へ灯りを置いて、ガルドが身体を通すのを待った。二人の後から風がついてきた。老人を壁際へ座らせると、彼女は道具のくぼみから剣帯を取り、腰へ戻した。
「集落へ知らせてくる」
ガルドは頷いた。
外では、雲の切れ目から月が出ていた。レアは聖堂の脇を抜け、眠った家々の間を歩いて宿へ戻った。戸を何度か叩くと中で物音がし、マルタが肩へ上着を掛けて出てきた。
「通った」
レアが言っても、女はすぐには答えなかった。彼女の顔と、骨粉で白くなった服とを見た。
「人が、通れるのかい」
「私も、ガルドも通った。向こうに古い道がある。海へ下りられる」
マルタは戸口に手をつき、長く息を吐いた。笑おうとして顔を歪め、同じことを何度も言った。
「そうかい。通ったのかい」
レアは頷いた。マルタが戸口を離れかけたとき、彼女は言った。
「夜が明けるまで、誰も穴へ来させないでくれ」
女は止まり、レアの腰へ目を落とした。しばらくして顔を上げた。
「分かった」
「他の者にも」
「私から言う」
マルタは上着の前を合わせた。指がうまく動かないのか、二度、留め具を掛け損ねた。レアはその手を見ていた。
「夜が明けたら、人を連れて来てくれ」
マルタは頷き、それ以上、何も尋ねなかった。
レアが宿から坑口へ戻る頃には、空から夜の深い黒が薄れ始めていた。穴へ足を踏み入れると、灯りの火が、来たときよりよく燃えているのが見えた。風に吹かれて壁の影が揺れ、入口近くの水面には細い波が立っていた。
骨屑の籠はそのまま置かれ、使い古した支え木も、雨水の染みも変わらなかった。ただ、奥から空気が来ていた。レアは、ここを初めて歩いた日のことを思い出した。あのときには、ただ奥へ行けばよかった。槌の音の主に会い、名を確かめ、剣を抜けば済むはずだった。
今は、削り直した天井の下で少し身を屈め、暗い場所にある窪みを避け、籠の置かれた側へ足を寄せた。身体が、歩くところを知っていた。
ガルドは、貫通した穴の近くで、食事の布を使って首を拭いていた。レアの来たのを知ると、その布を畳み、脇へ置いた。
「知らせたか」
「知らせた」
「そうか」
老人は壁から手を離し、片膝を引き寄せ、もう片方の膝も揃えようとした。思うように動かず、額に汗が浮いた。レアは立って見ていた。
ガルドは諦め、少し斜めの姿勢で背を伸ばした。襟を下げると、初めの日と同じ、骨の浮いた首が見えた。
「道は通った」
老人が言った。
「約束の日だ」
レアは剣の柄へ手をかけた。
誰もいなかった。後ろにも横にも、彼を庇う者はいなかった。男は立つこともできず、武器も持たずに首を上げていた。その首を斬るために、彼女は九年捜したのであった。
父の顔が浮かんだ。戸の前で手を伸ばしていた。血に濡れた土があり、白い外套があった。小屋の向こうから叫ぶ声があり、煙で、見えるものが少なくなっていった。
レアは何一つ忘れていなかった。父の死は、今も彼女の中にあった。夜が明けて、この道を何人が通ったところで、父が戻るわけではなかった。ガルドのしたことが、別の行いへ変わることもなかった。
彼女は剣の柄を強く握った。厚くなった掌の皮が革へ当たり、親指の脇には、鑿の頭でつけた傷があった。指の節にも、爪の下にも、この穴で働いた跡が残っていた。
レアは、目の前の手を見た。ガルドの手は膝に置かれていた。節の腫れた、うまく伸びない指だった。その指が鑿を支えるところを、彼女は知っていた。硬い層の見つけ方も、落とした骨を拾う手つきも、パンを湿らせるときに手が少し震えることも知っていた。
昔、父を殺した手だった。今夜、彼女が海の見えるところへ引いた手でもあった。
レアは息を吸った。胸が詰まり、剣を握っているのに腕が上がらなかった。何度も思い描いた一振りが、そこから先へ進まなかった。
「レア」
老人に呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「分かっている」
答えると、声が震えた。レアは柄から手を離し、その手をしばらく見ていた。
彼女には、もう、この男を殺せなかった。
ガルドが動かずにいるあいだ、レアは腰の剣帯を外し、いつも置いていたくぼみへ戻した。そこに残っていた鑿を一本取り、槌を持った。
人一人が通れる穴の下には、先ほどレアが膝を擦った骨の角が残っていた。夜明けにここを歩く者が足を取られるかもしれないと思い、彼女はその前へ座った。鑿を置いたが、左手が震え、刃先が滑って壁へ小さく当たった。
「ここを」
彼女が言うと、ガルドは顔を上げた。
「持ってくれ」
老人はしばらく彼女を見ていたが、やがて壁に手をつき、ゆっくり身体を寄せた。レアから鑿を受け取ると、刃先を角の根元へ当てた。
彼女はその角度を見て、槌を上げた。
「もう少し、下」
レアが言うと老人の指が動き、彼女は頷いて槌を下ろした。
角が小さく欠けた。ガルドが鑿を置き直すのを待ってもう一度打つと、その半分が足元へ落ちた。レアは破片を見つめたまま、頬を伝う涙を拭かず、次の一打を下ろした。
海へ下る道の向こうが、少しずつ白くなっていた。やがて、ここへ人が来る。荷を背負った者が来る。誰かを背負った者が来る。足を休め、灯りを替え、二人の知らない話をしながら、この穴を通っていく。
レアは、いま削っている骨の角を見ていた。その根元へ当てられた鑿を、ガルドの指が支えていた。
海から来た風が、二人の足元の骨粉を、巨神の胸の方へ運んでいった。
お読みいただき、ありがとうございます。
本作は、菊池寛『恩讐の彼方に』へのオマージュとして制作した短編です。
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