表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/93

12.棺の中で完成した人々

後になって、私はもう一つの歴史的記憶とこの出来事が重なっていることに気づいた。

それは、マイケル・ジャクソンの急逝だった。


彼が亡くなったとき、世界は同時に二つの反応を示した。

現実的な混乱と、圧倒的な追悼。

否定と称賛は矛盾しなかった。

むしろ同時に起きたからこそ、どちらも真実だった。


サイバーサイジング社で起きたことも、それとまったく同じだった。


会社は止まり、混乱が広がった。

だがその瞬間、世界は初めて理解したのだ。

彼らが、どれほどの重さを一身に背負っていたのかを。


称賛は遅れて届いた。

だが、遅れたからこそ本物だった。


失って初めて、人はその価値を測る。

だからこれは失敗の物語ではない。

まして慢心の物語でもない。


正しさを持ち続けた者たちが、

その正しさの重さゆえに、一本化されてしまった物語だ。


世界は、幹が折れてから学ぶ。

守られていたことに、守る者がいなくなってから気づく。

そして人は、その痛みの理由を誰かに押しつける。


生き残った者が矢面に立たされる。

それもまた、構造の一部だった。


だから私は断言しない。

誰も裁かない。


ただ、これだけは記しておく。


――任せてもいい。だが、考えることまで手放すな。

――信じてもいい。だが、責任まで預け切るな。


この物語は英雄譚ではない。

成功譚でもない。


依存は、どこから判断を奪うのか。

偶像化は、どこから人権侵害になるのか。

善意は、いつ構造的暴力へと変わるのか。


それを静かに残すための記録だ。


アダソン夫妻は、今もそこに眠っている。


かつてサイバーサイジング社のアメリカ本社があった、

あの封鎖された森の向かい側。

聖ヴェルヘルマン記念墓地公園。


世界の喧騒から少し離れた、静かな場所だ。


墓は華美ではない。

だが、生前に愛した赤とオレンジの薔薇が、季節を問わず手向けられている。

二人は、結婚当時の衣装のまま並んで眠っている。


誰の判断だったのかは、記録に残っていない。

だが不思議と、誰もそれを不自然だとは思わなかった。


今も人は訪れる。

花を置く者。

ただ立ち尽くす者。

写真も撮らず、名も名乗らず去る者。


中には、救われたと信じている人もいる。

何に救われたのか分からないまま来る人もいる。

そして――

彼らの名さえ知らずに、「かつて世界を変えた人たちが眠る場所」として訪れる者もいる。


それでも墓は、変わらずそこにある。


誰かの信仰でも、後悔でもなく、

ただ「存在していた事実」として。


おそらく、そこに立つ人々の胸には、同じ問いが浮かぶ。


――もし、あの人たちがいなければ。

――もし、違う選択をしていたら。


だが、その問いに答えはない。


彼らは間違っていなかった。

ただ、未来があまりにも遠く、重かった。


正しさには、期限がある。

だが当時の彼らは、それを知らなかっただけだ。


あの夜の判断は、

二十五年後の世界を、静かに縛った。


だからこれは、過ちの物語ではない。

「正しさが、未来を縛ることもある」という記録だ。


そして、もう一つの事実がある。


アダソン夫妻が眠るその場所――

そこは、かつて「触れてはならない」とされてきた土地だった。


サイバーサイジング社アメリカ本社の向かいに広がる森。

それは、代々アダソン家が所有しながら、

誰一人として開発しなかった土地だった。


理由は記録に残っていない。

ただ、古い文書には一貫してこう記されている。


――この森には、手を入れるな。


病が出るわけでも、事故が起きるわけでもない。

だが、そこに関わった者は、決まって判断を誤る。

正しさに固執し、引き返せなくなる。


まるで、ホーンテッドマンションのように。


本来、建ててはならなかった場所に建てられた館。

呪われていたのではない。

ただ、「人が自分の限界を忘れた瞬間」にだけ、牙をむく場所。


アダソン夫妻は、そのことを知っていた。

少なくとも、父は知っていた。


だが彼は合理主義者だった。

迷信を否定し、制度を信じ、構造を信じた。


「恐れられてきた場所だからこそ、理性で使うべきだ」

「自分たちなら制御できる」

「例外になれる」


そう信じるに足る実績が、確かに彼らにはあった。


そして実際、会社は成功した。

森は整備され、本社は世界の中枢となった。


だから誰も疑わなかった。


だが後になって、人々は理解する。


あの土地は呪われていたのではない。

人が「自分は大丈夫だ」と思った瞬間だけ、

問いを返してくる場所だったのだ。


――本当に、背負いきれるのか。


夫妻は、その問いに答えてしまった。


「大丈夫だ」と。


だから森は沈黙した。

何も起こさず、何も壊さず、ただ時間を重ねた。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


そして創立から二十五年後。

森は封鎖され、夫妻はその向かいに眠ることになる。


それは罰ではない。

象徴でもない。


ただの、配置だった。


人が自分の限界を忘れた場所と、

その結果を引き受けた者たちが、

向かい合って存在するという、静かな構図。


挿絵(By みてみん)


墓地は、午後になると光が屈折し、虹がかかる丘にある。


その場所を選んだのは、アダソン兄弟だった。


「空と地面の境目が分からなくなる場所がいい」

「どこまでも続くように見える場所がいい」


それは祈りではなかった。

慰めでもなかった。


――せめて、眠る場所にだけは境界を作りたくなかった。


遺体は、代々仕えるエンバーマーによって整えられた。

兄弟はこう頼んだという。


「結婚した日の姿で」


棺には赤とオレンジの薔薇。

そして、誰にも公表されなかったが、

冬に身につけていたマフラーが添えられた。


「寒いから」


そう言ったと記録に残っている。


合理的ではない。

だが、彼らはまだ人間だった。


もしここで象徴にしていたら。

英雄として処理していたら。

兄弟は完全に、感情の側へ落ちていただろう。



挿絵(By みてみん)


だから彼らは選んだ。


――人として眠らせる。

――物語にしすぎない。


だが皮肉なことに、

世界はその「人としての終わり方」すら象徴にしてしまった。


今も人は訪れる。

理由も分からぬまま、墓の前に立つ。


彼らを見に来ているのではない。

「正しさを信じ切った時代」を、見に来ているのだ。


そして世界は、まだ答えを出せずにいる。


正しさは、どこまで信じていいのか。

人は、どこまで委ねていいのか。

制度は、いつ必要だったのか。


もしあのとき、

「まだ早い」と立ち止まっていれば。


もし、彼らが自分の上に制度を置いていれば。


サイバーサイジング・ショックは起きなかったかもしれない。


だが現実には、

「まだ大丈夫だ」という判断が、

創立二十五年後の逃げ道を消した。


それが、この物語の最も残酷な点だ。


だからこれは、

英雄の終わりではない。

悪の崩壊でもない。


正しさが、制度になる前に崩れたとき、

世界がどれほど脆くなるのか。


その事実を、

ただ静かに残すための記録である。


――ここに記されたのは、

「選ばれた者たち」の物語ではない。


選び続けてしまった世界の、

その結末である。


そしてこの章は、

その問いを置いたまま、静かに閉じられる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ