9.アダソン夫妻の国葬とアダソン兄弟の闇堕ち
そして国葬。
本来、別れのための儀式は、いつのまにか展示の場になった。
棺は展示された。
説明があり、意味づけがあり、世界共通の理解があった。
世界樹は確かに存在した、と世界は確認できた。
だが兄弟は、展示されなかった。
視線は哀悼ではなく、機能確認だった。
「代われるのか」
「鍵は持っているのか」
「いつ復旧する」
棺は「完成された過去」として扱われ、兄弟は「未完成な未来」として評価された。
だが兄弟は未来ではなかった。
その瞬間、確かに現在を生きていた。
親を失った、ただの子どもだった。
もしあの場で、たった一人でもいい。
誰かが肩に手を置き、「今日は君たちは子どもでいい」と言っていたら。
闇落ちは、起きなかった。
だが誰ひとりとして、遺族を見なかった。
悪意があったわけではない。むしろ逆だった。
そこにいた全員が、夫妻ではなく“世界を失った自分自身”を見ていた。
そして全員が、遺族ではなく利用者だった。
世界は悲しむ。称える。「二度と失いたくない」と言う。
だが同時に言った。
「代わりはいない」
「同じにはなれない」
「もう二度とあの安心は戻らない」
それは弔意の形をした、承継可能性の公的否定だった。
親を失った子どもに向かって、
「すぐに親の代わりをやれ」と命じ、同時に「だがお前は親にはなれない」と言う。
この二重拘束が、兄弟を壊した。
だから私は断言しない。
兄弟が正しかったとも、間違っていたとも言わない。
ただ一つ言えるのは、
あの森で、芽を出せと言われた種に、
芽吹く自由が与えられたことは、一度もなかった。
世界樹の比喩を完成させるなら、こうだ。
世界軸(幹)は、アダソン夫妻だった。
世界の体現(枝葉)は、百二十五人の支社長と、百五十の国と地域の支社だった。
生命と知恵の源(根)は、製品であり、鍵であり、ライセンスだった。
森は、アメリカ本社とその周辺――やがて封鎖され、廃墟になりつつある沈黙の敷地だった。
そして、種は、アダソン兄弟だった。次の世界樹になるはずだった存在。
だが、種が芽吹く前に森が封鎖された。
そのとき種は、どこへ行けばいい。
封鎖された本社は、温室ではなく晒し台になる。
誰もが種を幹の代用品として要求する。
悲しみの時間さえ与えず、結果だけを迫る。
芽吹くために必要な未熟さを、罪として裁く。
さらに森は危険になった。
番人たちが一度くぐられた森には、二度目を狙う者が出る。
兄弟は象徴であり、同時に標的になった。
彼らがそこに居続ければ、森は永久に事件現場のまま固まる。
封鎖とは、安全の名をした凍結だ。
凍った土地では、芽は根を張れない。
だから彼らは姿を消した。
裏切りではない。
選択を奪われたまま、選択したことにされた。
――種は、森ではなく、別の土を探す。
芽吹くために。
幹になるために。
いつか、影ではなく光として立つために。
(そして、ここから先は希望にも絶望にも読める。)
彼らが見つけた土が凍っていない土なら、その種はまだ芽を出す。
誰にも見られず、誰にも急かされず、小さな根を静かに伸ばしていく。
だがもし世界がどこまでも追いかけ、幹の代わりを要求し続けるのなら、
種は芽を出さない。
芽を出す前に土の中で形を変える。
――世界が欲しがる世界樹にはならないように。




