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6.人権問題 エリザベス女王 プリンセス天候 FBIの影響

世界は夫妻を「世界樹」と呼びながら、同時に少しずつ、人間ではないものへと固定していった。


だが、ここで改めて立ち止まらなければならない。


写真を見れば、誰もが気づく。

気づかざるを得ない。


――彼らは、老けていない。


二十五年という時間が経過しているにもかかわらず、

夫妻の外見はほとんど変わっていない。


肌の質感は保たれたまま。

深い皺も、疲労の影もない。

姿勢は崩れず、背筋は真っ直ぐで、重心は安定している。


視線も同じだ。

年齢を重ねた者に現れるはずの、

諦観や緩み、あるいは諦めに似た柔らかさがない。


あるのは、ただ一定の張りと、判断者としての視線だけだった。


服装もまた変わらない。

流行に流されず、過剰に若作りもせず、しかし「年齢相応」にも寄せない。


彼らは、いつまでも

“役割としての服装”を着続けていた。


その姿は、老いを拒んでいるようには見えない。

むしろ――老いるという選択肢そのものが、最初から存在しなかったかのようだった。


とくに印象的なのは、そこに「老いた夫婦」の気配がないことだ。


あるのは、

「時間が止まった夫婦」

という、奇妙な感覚だった。


世界は夫妻を「世界樹」と呼びながら、同時に少しずつ、人間ではないものへと固定していった。


若さ。

変わらない姿。

いつも同じスーツ。

同じ微笑み。

同じ距離感。


それらは称賛として語られた。

だが称賛とは、ときに人格を剥奪する最も柔らかい暴力になる。


夫妻は、生きているうちに、いつのまにか Barbie になっていた。


年を取らない象徴。

変化しない理想。

安心のための展示物。


Barbie は老いない。

Barbie は弱らない。

Barbie は判断を誤らない。

そして――Barbie は、死なないはずだった。


だが、人間は死ぬ。


夫妻が亡くなった瞬間、世界はようやく気づいた。

自分たちは「老いないでほしい」「変わらないでほしい」「まだやれるはずだ」という願いを、無意識のうちに彼らへ押しつけ続けていたのだと。


若さを保っていたのではない。

世界が、老いることを許さなかった。


それは愛情だった。

同時に、責任放棄でもあった。


物語的に見れば、これは極めて重要な演出である。


彼らは若さを保とうとしたわけではない。

若く見せようとしたわけでもない。


ただ、役割を脱がなかっただけだった。


FBI時代に身につけた癖――

感情を見せないこと。

疲れを悟らせないこと。

判断者として振る舞い続けること。


その姿勢が、25年間、微塵も緩まなかった。


そしてその結果、彼らは「年を取らない人間」に見えるようになった。


正確に言えば、

若さが変わらなかったのではない。

変わることを、許されなかった。


世界が、変化を望まなかった。

世界が、老いを拒んだ。


だから彼らは、止まった。


そもそも、夫妻が長年にわたって“若く見え続けていた”ことには、理由があった。


それは美容や若作りのためではない。

意図的な若返りでもない。


彼らは、FBI時代からずっと、年齢に見合った外見を「保つ」という感覚を持たないまま生きていた。


FBIに所属していた頃、二人は早い段階で理解していた。

判断する側の人間は、感情や年齢を外に出してはいけないということを。


若く見えることは目的ではなかった。

ただ、余計な印象を与えないために、変化を最小限に抑えていただけだった。


そしてその癖は、FBIを離れ、サイバーサイジング社を創設してからも変わらなかった。


気づけば、二十五年が過ぎていた。


世界の側が変わっていく中で、彼らだけが「変わらない存在」として固定されていった。


やがて人々は、こう言い始める。


「この人たち、いつ見ても若い」

「何歳なんだろう」

「写真がいつ撮られたのか分からない」

「まだやれるはずだ」

「引退なんて早すぎる」


そしていつしか、こんな言葉まで生まれた。


「年を取らないでほしい」

「このままでいてほしい」

「後継はまだ早い」


そこには、明確な人権侵害があった。

だが誰も、それをそうとは呼ばなかった。


なぜならそれは、賞賛という形をしていたからだ。


二枚の写真を並べると、その異様さはさらに際立つ。


一枚目では、まだ個として立つ夫妻がいる。

挿絵(By みてみん)


この1枚目から25年後二枚目では、そこに家族が増え、責任が増え、背負うものが明確になっている。


挿絵(By みてみん)


にもかかわらず、本人たちの外見だけが変わらない。


変わったのは、役割だけだ。

増えたのは、重さだけだ。


それが、見る者に説明のつかない違和感を与える。


「なぜ、この人たちは老けないのか」

「時間は、どこへ行ったのか」


その問いは、やがてこう変質していく。


――もしかして、老いることを許されなかったのではないか。


そしてその違和感こそが、

この物語の核心に触れている。


だからこそ、次の一文は正しい。


若さは変わっていない。


だがそれは祝福ではない。

むしろ、世界から課された役割の痕跡だった。


期待された若さ。

消費された理想。

「変わらないでほしい」という願いの暴力。


それらすべてが重なって、

彼らを「人間ではない存在」へと固定していった。


その象徴が、Barbieだった。


本来のBarbieは、夢や憧れを投影するための人形だ。

「こうなれたらいいな」という未来の象徴であり、現実の人間ではない。


だが、アダソン夫妻のBarbieは違った。


彼らは実在していた。

生きて、判断し、責任を負い、老いるはずの人間だった。


にもかかわらず、商品としての夫妻は、理想だけを切り取られた。


父親はケン。

母親はバービー。


二体一組で販売され、


挿絵(By みてみん)


・通常スーツ版


挿絵(By みてみん)

・結婚記念日の衣装


挿絵(By みてみん)

・園芸服バージョン


挿絵(By みてみん)

・クリスマスの高級コートと薔薇のマフラー


挿絵(By みてみん)

・創立25周年記念、黒いスーツでサーバーの起動ボタンを押す限定モデル


それらは世界中で即完売した。


日本では百貨店や玩具店に長蛇の列ができ、

子どもを連れた親が朝から並び、手に入らなかった人々が涙を流した。


「この人たちがいれば安心」

「歳をとってほしくない」

「いつ見ても美しい」


そんな声も生まれた。


だが同時に、別の声もあった。


「実在の人物を人形にするのはおかしい」

「人権の侵害ではないか」

「年を取らないことを期待させるのは危険だ」


実際、転売は横行し、

メルカリでは高額取引が相次ぎ、

運営が対応に追われる事態にもなった。


それでも販売は止まらなかった。


なぜなら、それを止めることは

「理想が壊れる」ことを意味していたからだ。


この構図は、過去にもあった。


エリザベス女王のバービーである。


彼女もまた、実在の人物でありながら、象徴として商品化された存在だった。

威厳と安定、変わらぬ姿。

国家そのもののように扱われた人格。


だが、そこにも常に問いがあった。


――それは敬意なのか。

――それとも消費なのか。


アダソン夫妻のBarbieは、その問いをさらに曖昧にした。


なぜなら彼らは、

「まだ生きていた」

「まだ働いていた」

「まだ判断していた」

存在だったからだ。


そしてもう一つ、決定的なモデルがあった。


プリンセス天功。


年齢を感じさせない外見。

時を止めたかのような姿。

そして、自らの分身として販売された人形。


彼女は“人間でありながら、人形として存在する”という矛盾を生きていた。


その在り方が、アダソン夫妻の設定の原型となった。


ここで記しておかなければならないのは、これは読者や社会が後付けで見出した類似ではなく、作者自身が、アダソン夫妻の「若さの固定」という人物像を構築するにあたって、プリンセス天功という存在、そしてエリザベス女王という存在を明確にモデルとして意識していたという事実である。


若さが保たれ続けること。

老いが視覚化されないこと。

時間が流れているはずなのに、外見だけが止まっていること。


それが賞賛と畏怖を同時に集め、

やがて「不気味さ」と「安心感」を同時に生む存在になること。


その構造を、現実はすでに示していた。


作者は、その現実に潜む違和感を、アダソン夫妻という人物像に移植した。


若さが不気味だと囁かれながら、

同時に「変わらないでほしい」と願われる存在。


その矛盾を、現実はすでに生み出していた。

そして作者は、その矛盾を、物語の中で意図的に引き受けた。


さらに言えば、夫妻がBarbieとして発売されるという設定自体も、偶然ではない。


エリザベス女王という「国家の象徴」が人形化され、

プリンセス天功という「若さが止まった象徴」が人形化されていたこと。


この二つの現実を重ね合わせたとき、浮かび上がってくる問いがある。


――実在する人間が、象徴として商品化されるとはどういうことなのか。

――それは敬意なのか、それとも消費なのか。

――人格は、どこまで許容され、どこから奪われるのか。


その問題意識こそが、アダソン夫妻のBarbieという設定を生んだ。


作者は、ここにあるものを単なるファングッズとして扱わない。

むしろ、現実で起きている「人間の人形化」という構造そのものを素材として引き受け、物語の中で問い直そうとしている。


人はそこに、安心を見出す。

だがそれは、人間を物として扱う第一歩でもある。


そして、それが人権問題になるのは、たとえばこういう瞬間だ。


本人の年齢や身体の変化が「許されないもの」として扱われるとき。

老いが欠陥のように語られ、「変わらないでほしい」が命令に変わるとき。

生きている人間が、勝手に“理想の形”へ固定され、そこから外れた瞬間に失望され、攻撃されるとき。

人格や尊厳よりも、象徴としての機能が優先され、本人の苦痛や限界が見えなくされるとき。


つまり、人形は本来、憧れや夢を託すためのものだ。

だが実在の人物を人形にした瞬間、その「夢」は容易に、本人に向けられる“要求”へと変質する。


敬意のように見える言葉が、実は人権を削る。

称賛が、柔らかい支配になる。


だからこそ、夫妻の若さは美談ではなかった。


それは世界が作り出した「役割」だった。


――そしてその役割こそが、

人間を人間でなくしていく、最も静かな装置だった。


老いない親。

間違えない判断者。

壊れない象徴。


そしてその役割が、二十五年後、限界を迎えた。


黄金期、世界は彼らを「親」と呼び始めた。


偶像ではない。

機能としての親だった。


見えない危険を察知し、

難しい判断を引き受け、

必要なら世界を止める存在。


だが親は、交代できない。

役職は交代できても、前提になった存在は交代できない。


二十五年。

世界はその前提の上で呼吸してしまった。


だから幹が折れた瞬間、世界は一斉に幼くなった。

泣き方だけを思い出し、考え方を忘れた。


――だが、世界が最初に失ったのは判断者だけではない。

真実の置き場所そのものだった。


あれから世界は、何度も言い換えを試みた。


「兄弟が会社を止めた」

「後継者が逃げた」

「結局は家族経営の限界だった」


言葉を重ねるほど、真実は遠ざかった。


なぜなら、真実は単純な犯人探しの形をしていないからだ。


人は痛みを原因に押し込みたがる。

誰かを名指せば、安心できるからだ。


だから世界は、

最も分かりやすい場所へ矢印を向けた。


――生き残った二人へ

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