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2.制度の後悔

そして、最大の皮肉

もし、あのとき。

もし、夫妻が――「まだ早い」と言わず、制度を置き、自分たちの上に“止める構造”を作っていたなら。

世界は、ここまで壊れなかったかもしれない。

だが彼らは、善意でそれをしなかった。

子どもたちが成人するまで。会社が安定するまで。混乱が起きるまでは。

そう思った。

その判断こそが、二十五年後の“タイムリミット”だった。


当時の彼らにとって、「まだ大丈夫」は合理だった。危機は見えない。混乱は起きていない。世界は回っている。だからこそ、制度を置くことは“余計な不信”に見えた。

だが歴史は、いつもここで牙をむく。

「まだ大丈夫」という判断は、危機を先延ばしにするのではない。危機が来たときに逃げ込む場所を、先に燃やしてしまう。

制度とは、事故が起きてから作るものではない。

事故が起きた瞬間に、すでに間に合わないものだ。それでも人は、「今は大丈夫」に賭けたくなる。そしてその賭けは、勝っている間は正しさに見える。だからこそ怖い。


“正しい判断”ほど、後から取り返しがつかない形で効いてくる。正しさは、遅れて爆発する。期限が切れるまで、正しさは正しさの顔をしているからだ


やはり当時決めたことが原因で、当時は大丈夫でも、将来取り返しのつかないことが起きた。

そして、もっと正確に言えばこうだ。

当時「責任を引き受けたこと」そのものが、未来で「逃げ道を消した」


それは、彼らが「逃げた」からではない。

むしろ逆で――逃げ道を要らないものにしたのだ。

責任感の強さが、制度の必要性を押し流した。

善意の強さが、保険の設計を「まだ早い」に変えていった。


この構造は、企業だけの話ではない。

国家でも、軍でも、帝国でも、同じ形で繰り返されている。


戊辰戦争の時代に起きたのも、単純な勝敗の問題ではない。

「いまの秩序で回っている」という感覚が、次の秩序のための制度設計を遅らせ、

変化が来た瞬間、“調整の逃げ道”が存在しないまま衝突が起きた。

当時の決断は、その時点では正しかった。

だが後から見れば、その正しさが、別の正しさを締め出していた。


ナポレオンも、同じ種類の罠を踏む。

彼が引き受けた責任は巨大で、彼の判断は速く、彼の正しさは目に見えていた。

だから人々は、制度より先に“人”に頼る。

だが人が背負えば背負うほど、制度は育たない。

そして一度崩れれば、崩れるのは個人ではなく、個人に寄りかかった世界の足場だ。


ローマ帝国の皇帝権力も、同じ結末を持っている。

皇帝が強いほど秩序は安定して見える。

だがその安定は、制度の強さではなく、人格の強さの上に立ってしまう。

“強い皇帝”は国を守る。

同時に、皇帝がいない国では守れない形を完成させてしまう。


夫妻が成し遂げた二十五年の安定は、偉業だった。

だが偉業であるほど、後世はそこに学ぶ。

「なぜ止められなかったのか」ではなく、

**「なぜ止め方を作らなかったのか」**を。


だからこれは、過ちの糾弾ではない。

“当時は大丈夫”という決断が、未来の逃げ道を削るとき、

それがどれほど静かに、どれほど不可逆に世界を縛るか――

その警鐘だ。


彼らは間違っていなかった。

ただ、未来があまりにも遠く、重かっただけだ。


当時の彼らは、間違っていなかった。

ただ、正しさに期限があることを、知らなかっただけだった。

その夜に選ばれた一つの判断は、二十五年後の世界を静かに縛っていく。

だからこれは、過ちの物語ではない。

「正しさが、未来を縛ることもある」という、記録である。


あるいは、もっと静かに:

その選択が間違いだったと、誰が言えるだろう。

だが確かに、あの夜に引かれた線は、二十五年後の世界を、逃げ場のない場所へ導いていた。


もし、あのとき。

もし、夫妻が「まだ早い」と言わず、制度を先に置いていたなら。


それは、彼らの力を削ぐことではなかった。

むしろ逆だったかもしれない。

判断を独占しない構造を、まだ余裕のあるうちに置いていたなら、

世界は「この二人がいなくても回る形」を、時間をかけて学ぶことができた。


もし、あの時点で取締役会が実質的な拒否権を持ち、

倫理委員会が独立し、

緊急停止の判断が個人ではなく手続きとして存在していたなら。


もし、代表取締役社長挨拶が、人格ではなく制度を語る場であり続けていたなら。

もし、写真が象徴ではなく、単なる記録であり続けていたなら。

もし、「安心」が人ではなく仕組みに宿っていたなら。


サイバーサイジング・ショックは、起きなかったかもしれない。

少なくとも、あの形では起きなかっただろう。


世界は混乱しただろう。

だが、停止はしなかったはずだ。

「誰が判断するのか分からない」という恐怖ではなく、

「決められた手順に従う」という不安で済んだはずだ。


そして何より――

夫妻が、あそこまで“象徴”になることはなかった。


彼らは尊敬されただろう。

だが、崇拝はされなかったはずだ。

期待はされても、依存はされなかった。

世界が「見上げる存在」ではなく、「通過する存在」として、彼らを見ることができた。


そうであれば、

あの写真は偶像にならなかった。

抱き合う姿は、ただの私的な一瞬として消えていった。

会社は人格ではなく、構造として理解された。


そして何より――

兄弟が、あれほど重い役割を背負うことはなかった。


だが、そうはならなかった。


制度は後回しにされ、

責任は先に引き受けられ、

善意は保険の代わりに置かれた。


その結果、

世界は「正しさ」に守られ、

同時に「正しさ」から逃げられなくなった。


だからこれは、後悔の物語ではない。

「こうしていれば助かった」という安易な反省でもない。


これは、

正しい判断を、正しい時期に置かなかったことが、

どれほど静かに未来を縛るか

そのことを記録するための章だ。


もし制度があったなら。

もし止め方が用意されていたなら。

もし人格ではなく構造が先に立っていたなら。


世界は、あそこまで彼らを必要としなかった。

そして彼らも、世界を背負う必要はなかった。


だが現実には、

「まだ大丈夫」という判断が、

二十五年後の逃げ道を消した。


それが、この物語の最も残酷なところだ

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