9.後になって、人々はこの事件を「偶然」とは呼ばなくなった。
理由は、あまりにも揃いすぎていたからだ。
エリック・サーティーン。
その名が示す数字は「13」。
彼の息子もまた、十三歳だった。
そして彼自身の家系は、皮肉にもアダソン家の十三代前にあたる分家筋に連なっていた。
事件が起きたのは、七月十三日。
曜日は金曜日。
時刻は、夜八時十三分ごろ。
後から並べれば、あまりにも出来すぎた数字だった。
だが当時、それを「呪い」だと口にした者はいない。
口にした瞬間、物語になってしまうからだ。
そして人は、物語になることを本能的に恐れる。
だが、事実だけを並べれば、否定することも難しかった。
十三、十三、十三。
まるで最初から、そこに向かって組まれていた歯車のようだった。
⸻
そして、もう一つ。
この事件が「偶然」として片付けられなくなった理由は、数字だけではなかった。
アラクネアが幼い頃に繰り返し読んでいた一冊の絵本がある。
『バラの国のお姫様』。の存在だった。
誰もが知る名作でもない。
歴史的価値が証明された本でもない。
ただ、彼女の部屋にずっと残っていた――静かな一冊だった。
だが後になって、人々はその物語に奇妙な既視感を覚えるようになる。
それらは、日本のアニメ作品に登場する
**“ジュエルの国のお姫様”**の構造と、ほとんど同じだった。
薔薇を贈る姫と、ドレスを贈る姫。
だが後になって、その物語の展開が、あまりにも夫妻の人生と重なっていたことが知られる。
さらに後年になって、もう一段、奇妙なことが語られるようになった。
その物語は、完全な創作ではない。
作者自身が後年語っているように、物語の前半部分――
“贈り続ける姫”“喜ぶ人々”“尽きていく資源”“孤独に怯える心”
『バラの国のお姫様』の骨格そのものが、
ある日本のアニメキラッとプリチャンに登場する「ジュエルの国の姫君」の寓話を下敷きにしている――という話だ。
ダイアモンドの国の姫が、ドレスを作り続け、贈り続け、
人々の笑顔を糧にして、友達を増やしていく。
しかし作りすぎて資源が尽き、
「もう何も贈れない」と怯えたまま、パーティーの日を迎える。
けれど、友達は来る。
贈り物がなくても、姫の心は届いていたからだ。
――王子が現れる前までは、ほとんど同じだ。
与えることで繋がりを作り、
与えすぎて枯渇し、
「もう終わる」と思ったところで、
本当の理由だけが残る。
笑顔が見たい。
喜んだ顔が見たい。
それだけだった、と。
薔薇を贈る姫と、ドレスを贈る姫。
違うのは題材だけで、
その物語の前半――
「与えることでつながろうとする姫」
「喜ばれるほどに疲弊していく心」
「それでも誰かを信じ続ける姿」
は同じだった。
だが――
『バラの国のお姫様』が、そこから先に進んだのは、王子が登場してからである。
ここから先は、作者自身のオリジナルだった。
薔薇を育てれば、友達ができると信じた“ひとりの姫”。
だが現実は違い、周囲は振り向かなかった。
その孤独の中で唯一、薔薇に興味を示した“遠い国の王子”が現れる。
二人は協力し、薔薇を再生させ、やがて結ばれる。
そして――
二人の男の子が生まれる。
その名前が、奇妙なほど似ていた。
流星を意味する名を与えられた第一子。
虹を意味する名を与えられた第二子。
ジェイムズ。
マック。
さらに、その絵本には “夫妻の歌” のような曲が登場する。
『愛の薔薇讃歌』。
ストラディバリウスの演奏者。
歌詞に織り込まれた、赤とオレンジの象徴。
偶然と言えば、それまでだ。
その構造が、薔薇の絵本にも受け継がれ、
さらに夫妻の人生にも、奇妙なほど重なって見える。
だからこそ、事件後にこの絵本が掘り起こされたとき、
兄弟の世界から「偶然」という言葉が消えた。
偶然にしては似すぎている。
だが、似ているのに救われない。
その“不一致”こそが、
呪いのように残った。
因果なのか。
象徴なのか。
ただの後付けなのか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、
この話が語られた瞬間から、兄弟はもう、
「単なる事件」として親の死を扱えなくなった――ということだけだった。
だが、偶然にしては一致が多すぎた。
まるで、幼い日の彼女が読んだ物語が、
彼女の人生を先に描いてしまっていたかのように。
それでも当時、夫妻はそれを「呪い」とは呼ばなかった。
呼んだ瞬間、人生が物語になってしまうからだ。
だが事件のあと、人々は気づいてしまう。
あの絵本の中にもまた、最後に“妬み”が現れる。
薔薇と笑顔を憎み、奪おうとする者たちが現れる。
王妃は武器を取らず、対話を選び、
一年近い時間をかけて相手を溶かそうとする。
その姿は、どこかで見た光景だった。
「同意し給え」
命令ではなく対話を選び続けた夫妻。
“歪めろ”という要求を拒んだ夫妻。
そして――
薔薇を育てすぎ、資源を尽かせた姫のように、
彼らは制度を“後回し”にしてしまった。
情熱と愛情を注ぎすぎたがゆえに、
自分たちの背負える範囲を、いつの間にか越えていた。
それが、因果なのか。
象徴なのか。
ただの後付けなのか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、
事件後にこの絵本が掘り起こされたとき、
兄弟の世界から「偶然」という言葉が消えた、ということだけだった。
薔薇を理解し、共に育てる王子。
荒れた庭を再生し、国を支え、
やがて家庭を築き、子を授かり、
理想の王国を形にしていく物語。
そこまでは、童話だった。
⸻
だが、その構造は――
あまりにも、夫妻の人生と重なっていた。
幼少期、誰にも理解されず、
ただ一人で“薔薇”を育てていた少女。
やがて、同じ価値観を持つ伴侶と出会い、
共に理想を築き、
二人の子を授かり、
世界と繋がる存在になっていく。
そして――
外から訪れる「理解しない者」との対峙。
物語の中では、対話が実り、王国は救われる。
だが、現実は違った。
童話はハッピーエンドで終わる。
だが夫妻の物語は、終わらされた。
展開は、あまりにも似ていた。
似すぎているほど、似ていた。
同じ道筋を辿りながら、
結末だけが、反転した。
童話はハッピーエンドで終わる。
だが夫妻の物語は、終わらされた。
同じ道筋を辿り、
同じ善意を積み重ね、
同じように世界と向き合いながら、
最後だけが、救われなかった。
⸻
その差が、後になって最も不気味に見えた。
まるで、
同じ設計図を渡されながら、現実だけが救済を拒んだ
――そんな印象を残したからだ。
そして皮肉なことに、
“薔薇の国のお姫様”という物語は、
もともと「希望」を描くために書かれたものだった。
誰かを想い、与え続けることは、
決して無駄ではないのだと。
だが、夫妻の人生は、その物語の続きを現実で生きてしまった。
物語は救った。
現実は、救わなかった。
その差こそが、
この事件を「単なる暗殺」では終わらせなかった理由だった。
⸻
⸻
童話は、希望で終わる。
だが、現実はそうではなかった。
与え続けた者は、必ずしも報われない。
信じ続けた者が、守られるとも限らない。
正しさは、いつでも正しく働くわけではなかった。
薔薇を育て、意味を与え、
誰かのために在り続けた人生は、
ある日、あまりにも静かなかたちで終わりを迎えた。
それは復讐ではなかった。
裁きでもなかった。
ましてや、偶然などではない。
あまりにも多くの選択が、
あまりにも静かに積み重なった末の、
避けられなかった結末だった。
だからこそ――
この事件は「暗殺」という言葉だけでは終わらなかった。
象徴が失われ、
意味が書き換えられ、
社会の土台が揺らいだその瞬間から、
世界はすでに、元の場所には戻れなくなっていた。
それが、後に人々が
「サイバーサイジング・ショック」と呼ぶことになる
崩壊の、始まりだった。
だが、この時点ではまだ、誰もそれを知らない。
人々はただ、こう思っていた。
「悲しい事件が起きた」
「偉大な経営者が亡くなった」
――それだけだと。
この夜の悲劇が、
世界の仕組みそのものを変えてしまうことも、
この死が、連鎖する災厄の始まりになることも。
この「正しさ」こそが、
やがて世界を止める引き金になることを。
こうして第4章は終わる。
静かに。
取り返しのつかない未来へと、
扉を開いたまま。




