8-2 残されたのは、膨大な証拠と、理解しきれない動機だけだった。
捜査が進むにつれ明らかになったのは、彼が異常なほど“車”に執着していたという事実だった。
エリックは、事件の三ヶ月以上前から計画を立てていた。
自宅の地下には、異常なほど広いガレージがあり、
そこには世界各国から集められた高級なスーパーカーやスポーツカーが並んでいた。
エレベーターで地上と直結する構造。
リビングの壁は全面ガラス張り。室内には、まるで展示場のように車が置かれていた。
その空間は、単なるガレージではなかった。
世界各地のモーターショーで発表された最新モデルの資料、限定車のカタログ、設計図のコピー。
この部屋には、怒りも叫びもなかった。
あったのは、静かな計算だけだった。
どの車が、どの速度で、どの角度で衝突すればどうなるのか。
それを、彼は“感情抜き”で理解していた。
そして気づかぬうちに、
彼の中で現実とゲームの境界は、すでに消えていた。
エリックは、かつてはごく普通の父親だった。
週末になれば、奥さんと13歳の息子を連れてドライブに出かけた。
自慢のスーパーカーやスポーツカーに家族を乗せ、海沿いの道を走るのが何よりの楽しみだった。
窓を開けて風を入れ、子どもが歓声を上げるたびに、
彼はハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。
その音も、加速も、当時はただの「楽しい時間」だった。
高速道路のサービスエリアで休憩し、
コーヒーを買い、
写真を撮り、
何でもない会話を交わす。
その時間は、確かに幸福だった。
彼はその頃、
まだ世界を敵だとは思っていなかった。
制度を憎んでもいなかった。
何かを壊そうとも、証明しようともしていなかった。
ただ――
「速さ」が好きだった。
「機械が思い通りに動く感覚」が好きだった。
そして何より、
家族がその隣にいることが、嬉しかった。
だが、少しずつ変わっていった。
仕事が忙しくなり、
考え方がすれ違い、
会話が減り、
ドライブは一人きりのものになった。
助手席は空いたままになり、
後部座席には、もう誰も座らなくなった。
それでも彼は、同じ車に乗り続けた。
同じ道を走り続けた。
まるで、
あの頃の時間に戻れると信じるように。
そしていつしか、
車は「家族と過ごす場所」ではなく、
「自分だけの世界」に変わっていった。
ハンドルの向こうにあったのは、
笑顔ではなく、
数字と速度と、
制御できる現実だけだった。
それが、彼が戻れなくなった瞬間だった。
棚には、スーパーカーやスポーツカーの精巧な模型やミニカーが何十台も並び、
床や壁には、歴代モデルの写真や展示会の入場証が無造作に貼られていた。
エリックは、実際に自分の足で世界中のモーターショーを巡っていた。
アメリカ国内はもちろん、ヨーロッパ、中東、そして日本。
東京モーターショーや地方の展示会にも足を運び、新型車の発表や技術解説に熱心に耳を傾けていた記録が残っている。
それは「趣味」という言葉では収まらない執着だった。
エリックは、ただ車を所有していたのではない。
「車という概念そのもの」を収集していたのだ。
それは次第に、趣味の域を超え、執着と呼ぶほうがふさわしい状態へと変わっていった。
同時に、銃器、爆発物、刃物、改造用パーツ。
そして、アダソン夫妻の行動ルートを詳細に記した地図。
すべてが揃っていた。
当初の計画は、もっと直接的なものだったとされる。
武器を用いた襲撃。
だが、それは実行不可能だと判断された。
理由は一つ――
アダソン家の警備が、あまりにも堅牢だったからだ。
七つの警備網。
常時更新される動線。
隙のない配置。
正面からは、決して届かない。
そこでエリックは、別の方法を選んだ。
「日常」に紛れること。
警戒が最も薄くなる瞬間――
夫妻が、ただの“移動”をしている時間。
それが、リムジンだった。
リムジンは警護の象徴であると同時に、
最も“疑われない存在”でもある。
決まった時間。
決まったルート。
決まった速度。
護られているがゆえに、変化がない。
変化がないということは、予測ができるということだった。
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彼が犯行に選んだのは、漆黒のボディを持つ一台。
ランボルギーニ社製――アヴェンタドールSVJ。
それは単なる高級車ではない。
地面に吸いつくような極端な低重心。
視認しづらい黒。
夜間では輪郭すら曖昧になる色。
そして何より――
彼が所有する車の中で、最も“信頼していた”一台だった。
エリックは複数のスーパーカーを所有していた。
だが、その中でもSVJは別格だった。
・加速性能
・車体剛性
・改造の自由度
・構造の単純さ
・限界まで詰められる出力
どれを取っても、犯行に最も適していた。
道路状況、交差点の幅、夜間の視認性。
すべてを計算に入れた結果、
「この車でなければ成立しない」という結論に至っていた。
黒い車体は夜に溶け込み、
低いシルエットは視界に入りにくく、
エンジン音は遠くで聞けばただの“騒音”として処理される。
そして何より――
この車は、違法改造に最も耐えうる構造をしていた。
出力制御の解除。
排気系の直結。
安全装置の無効化。
それらを施しても、なお破綻しない剛性。
彼にとってそれは、
「速い車」ではなく、
「確実に届く道具」だった。
だからこそ、彼はこの車を選んだ。
逃げるためではない。
威嚇のためでもない。
“届かせるため”の車だった。
正面からは届かない。
だが、日常に溶け込めば届く。
警備が最も緩む瞬間。
誰も疑わない時間。
誰も構えない移動。
そこに、この車を滑り込ませる。
それが、彼の導き出した答えだった。
捜査の過程で明らかになったのは、
彼が事件のかなり前から、東海岸に短期間の拠点を持っていたという事実だった。
住居と呼ぶには簡素で、生活の痕跡はほとんどない。
家具は最低限。
滞在のためというより、「目的のために用意された場所」だった。
そこにあったのは、生活ではなく、工程だった。
彼が所有していた車両は、カリフォルニアで手を加えられていた。
だが、それが直接運ばれたわけではない。
改造はすべて、西海岸で完了していた。
そこから先は、彼の手を離れ、ただの「貨物」として扱われた。
それは西海岸で行われ、彼の手を離れた時点で、車は「道具」から「工程」へと変わった。
車は、あくまで「業務の一部」として移動している。
物流会社。
車両輸送業者。
名義と書類。
番号と日付。
すべてが整っており、
誰も疑問を持たない仕組みだった。
エリックは、自分で運ばなかった。
運ばせたのだ。
人ではなく、工程として。
フィラデルフィア近郊に置かれていたその車は、
「保管されていた」というより、
「処理待ちの工程として存在していた」と言う方が正しかった。
倉庫でも、展示場でもない。
だが、どちらであっても不自然ではない。
誰も気に留めない。
なぜなら、それは“流れの中”にあったからだ。
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