20.1999年――創立の日、そして最初の電源
そして1999年、創立の日が来る。
会合の場は華美ではなかった。だが空気は厳粛だった。
初期の顧客、技術協力先、信頼できる数名の関係者。
彼らの前で、アレックスとアラクネアは言葉を選びながら、同じことを繰り返した。
利益よりも倫理。
技術よりも人。
効率よりも信頼。
それは理念というより、契約の前提だった。
この前提が受け入れられない相手とは、最初から仕事をしない。
そういう会社になるのだと。
その日、幼いアダソン兄弟も“そこにいた”。
ただし、壇上の中央ではない。会合の輪の内側でもない。
少し離れた場所――人の流れを邪魔しない控えの部屋、もしくはホールの端。
長年仕える使用人が二人を連れて、静かに見守っていた。
本社の奥。
動線から外れた、静かな部屋。
会議室でも、応接室でもない。
子どもが声を出しても叱られず、
眠くなったら横になれる。
必要以上に注目されず、
それでいて、必ず誰かの視線が届く場所だった。
創立当初のサイバーサイジング社には、
まだ「保育園」という制度は存在しなかった。
ただ、この部屋だけがあった。
そこを見守っていたのは、
アダソン家に長く仕えてきた者たちに加え、
保育士資格、あるいは幼児教育の現場経験を持つ人間だった。
使用人として迎えられた者もいれば、
最初から「子どもを見る役割」を任されて招かれた者もいる。
肩書きは、まだ定まっていなかった。
保育士という専門性はあったが、
「保育園」という制度が存在していなかったからだ。
秘書でも、家政でもない。
けれど確かに、
子どもを守るために、そこにいる人間だった。
夫妻は、この空間を制度として整えなかった。
理由は単純だった。
制度は、後からでも作れる。
だが、姿勢は最初に置かなければならない。
子どもが“邪魔にならないように隔離される”のではなく、
仕事のすぐ隣で、静かに守られていること。
それが、この会社の前提だった。
ジェイムズは、背筋を伸ばして立とうとする。
まだ五歳なのに、“ちゃんとする日”だと分かっている顔をしていた。
マックは三歳で、場の緊張に少しだけ眉を寄せ、使用人の手をぎゅっと握っている。
けれど、両親が視界に入ると、安心したように目を丸くした。
黒いスーツの二人は、いつものパパとママより少し遠くに見えた。
けれど同時に、どこか近かった。
それは、家で見た「決めた顔」と同じだったからだ。
会合が終わり、人が散りはじめると、夫妻は一度だけ兄弟のいる方へ視線を向けた。
ほんの数秒。
それだけで十分だった。
ジェイムズは、その視線を受け取ると、胸の奥に何かをしまうみたいに小さく頷いた。
マックは頷けない代わりに、ぱっと笑って、口の形だけで言う。
「ぱぱ」
声にはしない。
でも、呼んだ。
その一瞬、夫妻の肩から力が抜けたのを、近くにいた者だけが知っている。
その瞬間、
ジェイムズは少し遅れて、言葉を探すように唇を動かした。
そして、ようやく見つけた短い言葉を、
両親の背中に向けて投げる。
「パパ、ママ……おめでとう」
声はまだ幼く、
この場に似合うほど強くはなかった。
けれど、その言葉は確かに、二人の背中に届いた。
アラクネアは振り返らないまま、
ほんの僅かに頬を緩めた。
アレックスは肩越しに、一度だけ目を細める。
それだけで、返事だった。
会合の終わり、二人は本社の入口に立った。
フィラデルフィア郊外。森の気配が近い土地。
ここが、これから“戻る場所”ではなく“始める場所”になる。
ドアプレートに、ロゴを置く。
緑の頂点と、Sの構造。
まだ新しい金属の冷たさが指先に残り、アラクネアは一瞬だけ目を閉じた。
あの夜、宮殿の門前で確定した決断が、いま目の前の“形”になっている。
あの夜、
宮殿の書斎で言葉を選び続けた時間が、
いま、目の前の“形”になっている。
少し離れた場所で、ジェイムズは背伸びをして、そのドアプレートを見た。
ロゴの意味など理解していない。
けれど「これがパパとママの“新しい場所のしるし”」だということは、肌で分かった。
意味は分からない。
けれど、それが「パパとママの場所」だということは、身体で分かった。
「ママ、あれ……ママの?」
マックが小さく訊くと、使用人がそっと教える。
「そうよ。お父さまとお母さまの会社の印よ」
小さな声に、使用人が微笑んで答える。
「そうよ。
お父さまとお母さまの会社の印」
その言葉を聞いて、ジェイムズは小さく頷いた。
その言葉を聞いて、ジェイムズはもう一度、小さく頷いた。
次に二人が向かったのは、サーバー室だった。
ここが、この会社の心臓になる。
企業向けセキュリティシステム。
サーバー・ITインフラ構築。
システム設計・運用支援。
そのすべての起点。
やがて二人は、建物の奥へと向かう。
サーバールーム。
この会社の心臓になる場所だ。
扉を開けると、
冷たい空気が頬を撫でた。
金属と、新しい配線の匂い。
それは“始まり”の匂いだった。
扉が開くと、冷たい空気が頬を撫でた。
配線の匂い。
機械の静かな待機音。
アレックスが手を伸ばす。
スイッチに触れる指先は、わずかに震えている。
アレックスは、一歩前に出る。
スイッチに手をかける指先が、わずかに震えていた。
恐怖ではない。
緊張でもない。
責任の震えだった。
恐怖ではない。
迷いでもない。
それは――責任だった。
「いくよ」
アラクネアは、静かに頷く。
アラクネアは、黙って頷く。
そして、電源が入る。
スイッチが入る。
低い駆動音。
冷却ファンが回り、
空気が流れ、
機械が“生き始める”音。
低い駆動音。
ファンが回り、空気が流れ、
システムが“生き始める”。
その音を、
ジェイムズは少し離れた廊下で聞いていた。
その音を、廊下の奥でジェイムズは聞いていた。
意味は分からない。
けれど、
何かが動き出した音だということは分かった。
意味は分からない。
だが、何かが始まった音だということは分かった。
マックは一瞬だけ驚き、
そばの大人の腕にしがみつく。
けれど、すぐに顔を上げて、両親を見る。
マックは一瞬だけ驚き、
すぐに母の背中を見る。
怖い音ではないと、
両親の背中が教えていたからだ。
怖くない、と教える背中だった。
その瞬間、夫妻は理解した。
国家の外へ出たのではない。
国家の外に、
守るための“新しい器”を作ったのだと。
国家の外に出たのではない。
国家の外に、守るための器を作ったのだと。
サイバーサイジング社は、
こうして誕生した。
会社が先にあったのではない。
倫理が、先にあった。
会社が先にあったのではない。
倫理が、先にあった。
その倫理を現実に落とし込むために、
事業モデルを設計し、
顧客と関係を築き、
組織とガバナンスを最初から置いた。
その倫理を現実に落とすために、
組織が生まれ、
制度が後から追いかけた。
大きくなるためではない。
歪まないために。
やがて社員が増え、
同じように子どもを持つ者が現れ、
あの部屋には、兄弟以外の小さな靴も並ぶようになる。
最初は短い時間だけ。
やがて半日。
一日を過ごす子も出てくる。
その頃には、
最初から関わっていた保育士たちに加え、
新たに正式な保育士資格を持つ人材が迎えられ、
部屋は少しずつ形を変えていった。
それでも、
あの場所が「静かな部屋」であることだけは変わらなかった。
後年、ジェイムズは思い出す。
あの部屋は、
遊ぶための場所ではなかった。
けれど、怖い場所でもなかった。
外では大人たちが難しい顔で話をしている。
中では誰かが絵本をめくり、
誰かが眠り、
誰かが静かに待っている。
「待つ」ということを、
初めて覚えた場所だった。
マックにとっては、
床の感触と、椅子の脚と、
人が立ち止まる位置を覚えた場所だった。
走り回らなくても、
そこにいれば大丈夫だと、
身体が知った最初の空間。
二人にとって、
あの部屋は“保育園”ではなかった。
仕事のすぐ隣で、
守られていた場所。
それ以上でも、それ以下でもない。
そして後になって、
社員の子どもたちが増え、
専門の保育士たちが当たり前に配置されるようになった頃。
誰かが言った。
「この会社は、
エンジニアだけじゃなく、
保育士まで“守る側の一員”なんですね」
その言葉に、
アレックスは答えなかった。
アラクネアも、説明しなかった。
必要はなかった。
あの静かな部屋が、
すでに答えだったからだ。
──
──
そして後年――
どれほど豪華なリムジンに乗り、
どれほど大きな式典に立っても、
二人の中では、すべてがあの夜へ戻っていく。
普通のセダン。
二人きりの沈黙。
午前四時の門前。
まだ何者でもなかった二人が、
何者かになるために、
初めて自分たちの責任を選んだ夜。
その夜だけは、
二度と上書きできない。
上書きできないからこそ、
いつまでも“起点”のまま、
胸の奥で静かに光り続けるのだった。
──
そして第3章は、この静かな始まりをもって、幕を閉じる。
――だが、このとき誰も知らなかった。
いや、一体誰が想像できただろうか。
二十五年後、あの夜と同じように静かなかたちで、世界の運命を変える出来事が訪れるなどと。
この「正しさ」が、やがて世界そのものを巻き込み、止めることのできない流れを生むことになるとは。
この電源が押された創立の日から、二十五年後。
誰もが予想しなかったかたちで、“あの選択”の重さを思い知る夜が訪れる。
それが――
サイバーサイジング・ショックと呼ばれる悲劇の始まりだった。
そしてすべては、この創立の日から、二十五年後のあの夜へと向かって、静かに動き始めていたのだった。




