表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

59/93

18.最初の黒いスーツ――創業の衣(完全版・追補)

立準備が進むにつれ、

夫妻の装いも、少しずつ変わっていった。


FBIの制服でもない。

公的機関の堅さでもない。


企業として、人と向き合うための服。


それはある日、二人が同時に気づいたことだった。


「……このままの服じゃ、いずれ言葉が届かなくなる」


最初に口にしたのは、アラクネアだった。


彼女は、机の上に数枚の資料を並べた。

それはブランドのカタログではない。


政府関係者や研究機関の要職者が、

静かに通っている仕立て屋の記録だった。


「派手じゃない。でも、軽くもない」


「“責任を背負う服”だな」


アレックスはそう言って、資料を見つめた。


「……二人分、頼むのか?」


「ええ。でも、お揃いにはしない」


アラクネアは即答した。


「同じ思想で、同じ色。でも、同じ線じゃない。

あなたと私では、立つ場所が違うもの」


それが、この黒いスーツの最初の設計だった。



採寸の日、夫妻は小さな工房を訪れた。


派手な装飾も、広告もない。

ただ、年季の入った鏡と、静かな空気。


仕立て師は多くを語らず、

布を広げ、肩の角度を見て、背中の癖を読む。


「黒で?」


その一言に、二人は同時に頷いた。


だが、その黒は一種類ではなかった。


光を吸う黒。

角度で表情を変える黒。

前に出ない黒。


アラクネアはその中から一つを選ぶ。


「……これは、強すぎない」


「ええ」

仕立て師が短く答える。

「前に出る黒ではありません。残る黒です」


デザインに流行はなかった。


・長時間立っていられること

・相手の視線を遮らないこと

・威圧にも、媚びにもならないこと


それだけが条件だった。


「似合うために着るんじゃない」


アラクネアは言った。


「間違えないために着るの」


挿絵(By みてみん)


数週間後、黒いスーツは静かに届いた。


豪奢な箱ではない。

だが、丁寧に畳まれ、役目を待っている。


試着の日、二人は書斎の鏡の前に立った。


それは喪服ではなかった。

だが、どこか区切りの匂いを持っていた。


過去を捨てる服ではない。

過去を抱えたまま、次へ進む服だった。


アラクネアが襟を整えると、

アレックスは小さく笑った。


「似合ってるよ」


「似合うためじゃないわ」


その言葉に、迷いはなかった。


そこへ、書斎の扉がわずかに開く。


ジェイムズだった。

黒い服の両親を見て、少し驚いた顔をする。


「……きょう、だいじなひ?」


アレックスは膝をついて目線を合わせる。


「そうだよ。とても大事な日だ」


マックは、母の袖に触れて言った。


「つめたい」


布の感触に驚いただけの言葉だったが、

アラクネアは微笑んだ。


「すぐ慣れるわ」


黒いスーツは、家の中で“遠い服”にはならなかった。

それは、子どもたちにとって

「パパとママが決めた日の服」だった。


このスーツは、誰かに見せるためのものではない。

二人が、自分たちの線を越えないために着る服だった。


後年、どれほど洗練された装いを纏っても、

この最初の黒だけは、特別だった。


それは会社の制服ではない。

創業の誓約を、布にしたものだった。


――そしてこの夜、

名前と形と、覚悟が揃った。


この黒いスーツは、

創業から5年間だけ着られることになる。


会社がまだ小さく、判断がまだ個人に近かった頃の服。


やがて、事業が拡大し、

公の場に立つ機会が増え、

写真と映像が世界を回るようになると――


夫妻の装いは、自然と変わっていく。


より明確に。

より象徴的に。

より「見られる」ことを前提とした装いへ。


それが、のちに定着する

あのファッションスーツだった。


だが、それは派手さのためではない。


「誰が見ても、同じ人だと分かること」

「説明より先に、安心を与えること」

「余計な印象を排除すること」


そうした理由から、

夫妻は意識的に“同じ装い”を選び続けるようになる。


それがやがて、彼らの象徴となり、会社の顔となり、世界に刷り込まれていく。


そして――

暗殺されるその日まで、二人はその服を変えなかった。


だがこの夜、まだその未来を知る者はいない。


このときの黒いスーツは、ただ静かに、「始まり」を告げていただけだった。


名前と形と、覚悟が揃った夜。


まだ会社は存在しない。

だが、越えてはいけない線と、戻れない場所だけは、確かにここにあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ