16.なぜ「森」だったのか――候補地と、視察の日
創立準備が進むにつれ、「本社をどこに置くか」という現実的な問題が浮上した。
候補地はいくつもあった。
フィラデルフィア市内のオフィスビル。
ワシントンD.C.近郊のビジネス街。
高速道路沿いの再開発地区。
どれも合理的で、説明しやすく、投資家にも理解されやすい場所だった。
通信網、警備、交通、法的整備――どれを取っても申し分がない。
だが、二人はどこにも決めきれずにいた。
「ここだと、判断が早くなりすぎる」
アラクネアが、資料をめくりながらぽつりと言った。
「効率は上がる。でも……“立ち止まる余地”がない」
アレックスはその言葉に、すぐ頷いた。
FBIで学んだのは、判断が速すぎる組織ほど、誤りを修正できないという現実だった。
速さは力になる。
だが、止まれない速さは、破滅に直結する。
「考える時間が削られる場所は、いずれ判断を外す」
そう言って、彼は資料を閉じた。
そこで二人が向かったのが、
アダソン家が代々所有してきた、フィラデルフィア郊外の森だった。
街の音が途切れ、舗装路が終わり、車窓の色がゆっくりと変わっていく。
緑が濃くなり、風の匂いが変わる。
この日、同行していたのは家族だけだった。
ジェイムズは五歳。
マックは三歳。
視察という言葉は大人のためのもので、
子どもにとっては「森に行く日」だった。
黒いセダンが、未舗装の道の手前で止まる。
まだこの頃、夫妻に警備はついていない。
運転席にいるのは――アレックス自身だった。
リムジンでもない。
装甲車でもない。
ただの、少し年季の入った黒いセダン。
彼はハンドルを切りながら、森の奥を一度だけ見た。
この道は、何度も通った道だった。
子どもが生まれる前も。
FBIにいた頃も。
そして今も――変わらず、同じ角度で曲がる。
「……やっぱり、ここだな」
独り言のように呟き、車を止める。
エンジンが切れると、森の音が一気に流れ込んできた。
「ねえ、なんでこんなところに来たの?」
後部座席から、ジェイムズが身を乗り出す。
アレックスは振り返り、穏やかに答えた。
「ここはね、昔からパパの家が持っている森なんだ」
「でも、おうちないよ?」
「うん。だからいいんだ」
ジェイムズは首を傾げる。
マックは黙ったまま、地面に落ちた枝を踏んで音を楽しんでいる。
アラクネアは子どもたちの前にしゃがみ、ゆっくり言った。
「この森はね、代々“使わない”って決められてきた場所なの」
「つかわないのに?」
「そう。使わないために、持っている」
子どもには少し難しい言葉だったが、
その場の空気は不思議と伝わった。
ここは、何かを建てるための場所ではない。
何かを急ぐための場所でもない。
森は、ただそこにあった。
そして、その森の道を挟んだ向かい側には――
もう一つ、アダソン家の土地があった。
聖ヴェルヘルマン記念墓地公園。
代々の家主と、縁あってこの一族に迎えられた人々が眠る場所。
派手さはなく、観光地でもない。
だが、きちんと整えられ、風が通り、花が絶えない場所だった。
ジェイムズが小さく言った。
「……あそこは?」
アレックスは少しだけ声を落とす。
「ご先祖さまが眠っているところだよ」
「ふーん……」
深く考える年齢ではない。
だが、その風景は、無意識の奥に刻まれていく。
――そして二十五年後。
自分たちが、あの場所に眠ることになるなど、
このときの二人は、まだ知らない。
森と墓地。
生きる場所と、眠る場所。
その間にある道を、家族四人は静かに歩いていた。
森の奥へ進むと、ひときわ大きな木があった。
周囲よりも高く、枝を広げ、
根は地中深くへと伸びている。
アレックスは、その木の前で足を止めた。
「……ここだな」
アラクネアが振り返る。
「何が?」
「中心になる場所」
ジェイムズが見上げる。
「おっきいね」
マックは木の幹に手を当て、ぐっと押してみる。
当然、びくともしない。
「切らないの?」とジェイムズ。
アラクネアは静かに首を振った。
「切らない。残すの」
「じゃあ、じゃまだよ?」
「ううん。ここに“あること”が大事なの」
アレックスは木を見つめながら言った。
「会社も、これと同じでいい。
目立たなくてもいい。
でも、倒れない。
支え合って立つ」
アラクネアはその言葉を受け取り、静かに続ける。
「ここに建てるなら、建物は脇役ね。
主役は、ここに流れる時間」
この瞬間、二人の中で一致していた。
――本社は、ビルである必要はない。
――むしろ、大学のキャンパスのようであるべきだ。
建物が分かれ、道があり、余白があり、
人が歩き、考え、立ち止まれる場所。
指示を出すためではなく、
判断を熟成させるための空間。
森の中に、点在する知性。
それが、彼らの思い描いた「本社」だった。
アレックスは、ふと呟いた。
「この木は、残そう」
「記念樹にする?」
「違う。象徴にする」
その木は、やがて切られることなく残される。
建物が増え、組織が拡大しても、
その木だけは中心に立ち続ける。
二十五年後、世界中から人が集まる場所になっても、
この木は変わらず、そこにある。
その意味を、まだ誰も知らない。
森を後にし、黒いセダンに戻る。
この日も、護衛はいない。
警戒もない。
まだ、世界は彼らを象徴として扱っていなかった。
だがこの場所は、すでに選ばれていた。
その夜。
宮殿の書斎で、アレックスは紙に一本の線を引いた。
昼間見た、あの木の形を思い出しながら。
「……これだな」
アラクネアが覗き込む。
それは、森のような形だった。
頂点があり、層があり、支え合う線がある。
「名前は?」
「まだ決めない」
「でも、方向は決まったわね」
「うん。大きくするためじゃない。整えるための会社だ」
その夜、言葉はまだ与えられなかった。
だが、形はすでに生まれていた。
森は静かで、
風は優しく、
世界はまだ、何も壊れていなかった




