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13.制度の有無――宮殿という職場、25年後の崩壊はここから始まった

宮殿は当時、二人にとって職場になった。

豪奢な建物の威圧ではない。誰にも邪魔されず、誰にも歪められず、「線を引く」ための空間。

書斎の机は会議室になり、長い食卓は資料の展開台になり、廊下の静けさは、判断の冷却材になった。


そして、その職場には、いつも小さな生活音があった。


この時、ジェイムズは五歳。マックは三歳。

まだ時間の感覚は曖昧で、「朝」と「夜」の違いは、親がいるかどうかで決まる年齢だった。


午前中、アレックスが書斎で資料を広げていると、ジェイムズがそっと扉を開ける。


「パパ、いまおしごと?」


「そうだよ。でも、どうした?」


「えほん、よんでほしい」


その声は、仕事の邪魔ではなかった。

むしろ、判断の基準だった。


アレックスは一度ペンを置き、椅子を引いて床に座る。

アラクネアは廊下の向こうからその様子を見て、小さく息を吐いた。


――これが、私たちの現実なのだ。


会社を作るということは、“時間を奪われる”ことでもある。

だからこそ、この一年間、二人は意図的に「家で働く」ことを選んだ。


昼間は、子どもたちが起きている。

夜は、子どもたちが眠る。

深い思考は夜に回し、昼間は、資料整理や設計の確認に留める。

効率は悪い。だが、見失わない。


ジェイムズが積み木を積み上げる横で、アラクネアは事業モデルの図を書いた。

マックが床に座って車のおもちゃを転がす音を聞きながら、アレックスはガバナンス構造の線を引いた。


子どもの笑い声と、紙をめくる音が同じ部屋にある。

それは未熟さではなく、意志だった。

この会社は、家庭を失って成り立つものであってはならない。

自分たちが、最初にそれを破ってはいけない。


挿絵(By みてみん)

夜。

子どもたちが眠り、宮殿の空気がいちばん静かになる時間。

アレックスは書斎の机に、白紙を一枚置いた。

アラクネアは、すでにノートを開いている。あの「越えてはいけない線」の続きが、まだ乾かないまま残っている。


「会社の制度を作るなら、最初に“正解”を置くべきだ」


アレックスが、紙の端を指で押さえた。

言葉は丁寧だった。だが、慎重というより、決めた人間の声だった。


アラクネアはすぐに頷かなかった。

彼女は、ノートの冒頭――「何をしてはいけないか」に、もう一度目を落とす。


「制度は、文書にすると“抜け道”が生まれる」


「それでも、何もないのは危険だ」


「何もないわけじゃない。私たちは、“人”に分解して置ける」


アレックスは、少しだけ沈黙した。

彼女が何を言おうとしているかは、もう分かっている。


「……つまり、“委員会”を置く代わりに」


「委員会が担うはずの判断を、最初から私たちが背負って、分けて、止める層を必ず通す」


アラクネアはペンを取り、白紙に線を引き始めた。

図ではない。地図でもない。

ただ、戻れなくなる前に置くための、順序だった。


上から下へ。

判断が落ちていく。

落ちる途中で、必ず止まれるように、段差が置かれる。


「入口は、私たち。……少なくとも、新規の案件だけは」


「それが第0層」


アレックスが言うと、彼女は頷いた。


「受理と実行は、同じじゃない。受理は“保留”にできる。保留ができない会社は、必ず暴走する」


アレックスは、その言葉にだけは即答した。


「分かる。FBIでも同じだった。止められない組織は、正しくても壊れる」


アラクネアは次の層を指先で叩く。


「第1層は倫理。長期。不可逆性。社会影響。――私はそこを引き受ける」


言い方は淡々としていた。

だが、それは役割分担ではなく、誓約に近かった。


「第2層は、決断と交渉と停止」


アレックスが続ける。


「引き受けるか、断るか。どこまでやるか。途中で止めるか。最終責任を一致させる。――僕がやる」


アラクネアは、紙の下の方に、さらに線を引いた。


「でも、私たちだけだと危険よ」


「分かってる。現実が必要だ。現場が必要だ。止める権限が必要だ」


アレックスが言い終える前に、彼女は書いた。


支社長。

法律。国情。人員。時間。NOを言う役。


書き終えたあと、彼女は一度ペンを止めた。

その言葉が、今この家の中ではまだ早いことを、本人がいちばん分かっていた。


「……“支社長”は、まだいないわね」


アレックスが、静かに言う。

いま存在するのは、アメリカ本社だけ。

支社という言葉が現実を持つのは、もっと先だ。


アラクネアは否定しなかった。

否定せずに、少しだけ言葉を選ぶ。


「いない。でも――“必要になる”」


「最初から、未来の形で置く?」


「ええ。支社が増えたときに、あとから役職名を変えると歪む。最初から“同じ役割”として置く」


彼女は“支社長”の文字の横に、小さく補助線を書く。

呼び名を、今の現実に合わせるための線だった。


本社司令補佐(支社長相当)

――現実ブレーキ。

――NOを言う役。


「本社に置く。将来、支社ができたら同じ役割を“支社長”として複製する」


アレックスは、その設計に納得したように頷いた。


「……つまり、“支社がないのに支社長を置く”んじゃない。“支社長になる役割”を本社に先に置く」


「そう。組織が大きくなる前に、止める役を確保する。止める役は、後から作れない」


アレックスは紙の上を指でなぞりながら、低く続けた。


「人は増える。案件も増える。いずれ必ず“全部受けろ”と言われる。そのとき本社が抱え込んだら終わりだ」


アラクネアは即答した。


「だから、抱え込まない選択肢を“制度として先に置く”」


彼女は、紙の余白に、チェックを打つみたいに短い言葉を並べる。


❌ 無理にやらせる

❌ 1支社で抱え込む

❌ 人格で押し切る


ではなく、


✅ 他支社に回す

✅ 顧客と再協議する

✅ 諦める(断る)

✅ 複数支社で役割分担

✅ 必要な人材を一時的に集結させる

✅ 期間限定の越境出張で対応


アレックスが、ほんの少しだけ笑う。


「……それ、会社の運営というより」


「危機対応」


アラクネアが、先に言った。


「国家・軍・国際機関がやる“危機対応モデル”よ。選択肢を必ず複数用意する。抱え込まない。無理にやらせない。止める」


アレックスは、その言葉に、FBIの会議室の匂いを思い出したように目を細めた。


「たしかに。FBIでも同じだった。“やる”の前に、“やらない”が必要だった。断る勇気がない組織が、一番危ない」


「そうよ。企業は平時だけを想定する。でも、私たちが扱うのは“非常時が常態化した世界”」


会社は、戦場ではない。

だが判断の性質は、戦場と同じになる。


だから彼らは、

企業経営に、国家・軍・国際機関の危機対応モデルを移植した。


その結果が、後に「異常なほど慎重で、断る会社」と呼ばれる文化になることを、

この時の二人は、まだ知らない。


アラクネアは、紙を見たまま言う。


「だから“断る”を制度にする。気分じゃなく、手順にする」


「顧客が怒るぞ」


「怒っていい。怒ってもいいから、人を死なせない。社会を壊さない。不可逆なものを作らない」


その語尾は強くなかった。

強さではなく、冷たさでもなく、決めた人間の硬さだった。


アレックスは、彼女の方を見て、しばらく黙る。

そして、静かに言う。


「……役割は、自然に分かれるな」


アラクネアが視線だけを向ける。


「あなたは、止める。交渉する。責任を引き受ける。そういう時に迷わない」


「君は、線を引く。長期を見る。不可逆を怖がれる。――僕はそこが弱い」


「弱いんじゃない。“役割が違う”だけ」


アラクネアは、ノートの最初の頁を指で叩く。

「越えてはいけない線」。

彼女が最初に書いた、あの頁だ。


「私は、“何をしてはいけないか”が先に来る。あなたは、“どこまでなら引き受けられるか”を決める」


アレックスは頷く。


「倫理と停止は、同じ場所に置くと危ない。迷いが遅れになる。だから分ける」


アラクネアは、小さく息を吐いた。


「母親だから倫理、父親だから交渉、じゃないわ」


「分かってる」


「私が倫理を担うのは、私が母親だからじゃない。――子どもがいるから“倫理が現実になる”のを、私がいちばん早く知ってしまうから」


アレックスは、その言葉を否定しなかった。

子どもが眠っている廊下の奥を、一度だけ見た。


「そして僕が最終判断を担うのは、僕が父親だからじゃない。交渉と停止を“嫌われ役”として引き受けられるのが、僕の方だからだ」


アラクネアは、そこでようやく頷く。


「嫌われ役を誰もやらない組織は、必ず無理を通して壊れる」


アレックスはペンを取り、紙の上に短く書く。


“NOを言う役を制度にする”


「これを置く。最初から置く。支社ができる前から置く」


アラクネアは、その文字を見て、静かに言った。


「――本社だけでも、私たちは“複数の支社がある前提”で動く。そうしないと、いつか一つの場所が全部抱えて、世界ごと歪む」


その言葉は、未来を知っている言い方ではなかった。

ただ、FBIで知ってしまった“組織の壊れ方”を避ける言い方だった。


アラクネアはそのまま続ける。


「ここが第3層。私たちの判断を、現地現実に翻訳する層」


さらにその下に、彼女は書く。


部門責任者。

技術的可否。安全。工程。現場保全。


「第4層。現場を壊さない最後の防壁」


アラクネアは「部門責任者」と書いた行の下に、もう一本、細い線を足した。

線は分岐した。二本に。


「部門責任者は、二系統にする」


アレックスがペン先を止める。


「二系統?」


「ええ。現場の“現実”は一種類じゃない。数字の現実と、技術の現実。どっちも止める力になる」


彼女は一つ目の線の先に、淡々と書く。


総合事務責任者。

経理・財務・会計。

人事・採用・労務。

総務・法務・契約管理。

広報・ブランディング。

福利厚生・施設運営。


「会社が大きくなる前ほど、ここが暴走しやすいの。金と人と契約は、勝手に正義を作る」


アレックスは短く頷いた。

次に彼女は二つ目の線へ移る。


開発・技術業務別責任者。

セキュリティシステム。

サーバー・ITインフラ。

物流・管理システム。

ソフトウェア開発。

業務用ロボット・AI。

技術サポート・保守。


アレックスが、少しだけ眉を上げる。


「……いまは、そんなに要らないだろ」


「いまは要らない。いまあるのは二つだけ」


アラクネアはペンを止め、言葉を選んだ。

断定ではなく、この夜の“現実”として置くために。


「創業当時の事業は、サーバーとITインフラ、それから企業向けのセキュリティシステム。――当面は、それだけで回る」


アレックスは白紙を見下ろす。


「他は?」


「箱だけ置く。将来を見越した“役割の箱”。人はまだ少ない。けれど、箱がないと、増えたときに順序が歪む」


彼女は二つの系統の下に、短く付け足した。


各責任者の下に社員。

実行部隊は、必ず誰かの範囲に属する。

誰にも属さない実行を、作らない。


アレックスが小さく息を吐く。


「……自由に動ける天才集団、みたいなのは、最初から潰すんだな」


「ええ。判断しない実行部隊は必要。でも、判断する実行部隊は危険よ」


彼女は続けて、もう一つの“運用”を書き足す。


「人事は、国家公務員型にする」


「固定しない?」


「固定しない。部署は年単位で動かす。支社ができたら、他支社へ転勤もある」


アレックスが頷く前に、彼女は条件を添える。


「ただし、本人が勝手に決めない。会社も一方的に命じない」


「……どうやって決める」


アラクネアは、そこだけ少し丁寧に言った。


「夫妻と、部門責任者と、支社長と、本人。協議して決める。キャリアを会社に奪わせないため。かつ、個人の独断にしないため」


アレックスは、白紙の“段差”を見渡しながら言う。


「責任の所在が明確になる。意思決定も速い。――業務別責任者制、ってことか」


「ええ。世界共通の品質と運営水準を守るには、専門分野ごとのチーム制が必要になる」


アラクネアは最後に、全体の形を指でなぞった。

それは制度の条文ではなく、人の配置だった。


「文書で縛るんじゃない。上下指揮命令系統式の“順序”で回す。二つの部門は対立させない。常に連携して、一つのチームとして機能させる」


アレックスはゆっくり頷く。


「制度にしない制度、か」


「そう。制度は穴が開く。順序は、穴を開けにくい」


アレックスは、紙全体を見渡した。

ピラミッドのように見えた。

だが、それは権力のための形ではなく、“止めるための段差”として置かれている。


「……上下指揮命令系統式、だな」


「ええ。だけど、目的は支配じゃない」


アラクネアは、ペン先を机に置いたまま言った。


「人格を一箇所に固めると、いずれ世界がそこに依存する。だから人格を分けて、薄めて、止める」


アレックスは静かに息を吐く。


「制度を“人の役割”として埋め込む。つまり、制度は“人の順序”として存在する」


「その順序を崩せないように、文化にする」


アラクネアは言葉を削るように続ける。


「勝手に判断しない。任された範囲だけ実行する。逸脱は必ず上に戻す」


そのとき、廊下の奥から、小さな寝返りの音がした。

ジェイムズか、マックか。あるいは二人とも。

眠りの中の生活音が、二人の会話に混ざる。


アラクネアは、音のした方へ一度だけ視線を向けた。

そして、少しだけ声を落とす。


「……この形は、子どもがいるからこそ必要なのよ」


「家庭を壊す会社を、私たちが作るわけにはいかない」


アレックスも同じ温度で返す。


「国家の中では、家庭が犠牲になることが正当化された。だけど、僕らはもう、それを“仕方ない”にしない」


アラクネアは、白紙の端に小さく書いた。


“最上段は、目立たない方がいい”


アレックスがそれを見て、少し眉を上げる。


「……目立たない?」


ここでアラクネアは、言い切らなかった。

言い切れば、未来の断定になってしまうからではない。

ただ、この夜の正体は「予言」ではなく「恐れ」だと、彼女自身が分かっていたからだ。


「……もし、前に出しすぎたら、まずい気がするの」


「まずい?」


「私の怖さよ。世界がどう、じゃない。私が――怖い」


アレックスは黙って、続きを待った。


「“私たちが見ている”って空気ができたら、誰かが考えるのをやめるかもしれない。止めるのを、待つようになるかもしれない。そうなった瞬間、この会社は危険だと思う」


アレックスは、ゆっくりと頷いた。


「分かる。便利な象徴は、危ない。……だから、必要なときだけだ。国家案件や、人命に関わる案件だけ。そこだけは、最後に名を出さないと交渉が通らない」


「分かってる。だからこそ、“内部の順序”だけは崩れないようにする」


アラクネアは、白紙の横に、もう一枚小さなメモ用紙を置いた。

そこに、まだ確定ではない言葉を書き留める。


代表取締役会。

会長。

倫理委員会。


アレックスが視線を落とす。


「……それは?」


アラクネアは、即答しなかった。

メモ用紙を指で押さえ、静かに言う。


「今は置かない。今の段階で“上”を増やすと、判断が遅れる。情報が漏れる。政治が入り込む」


「でも、いつか必要になる」


「ええ。私たちが歳を取る。子どもが大きくなる。会社が大きくなる。――そのとき“助言と制動”の横並びが必要になる」


アラクネアは、書いた言葉の横に小さく付け足す。


“指揮命令はしない(横並び)”


「これは“今の会社”の設計図じゃない。未来の置き場所よ」


アレックスは、メモ用紙を見たまま頷いた。


「……順序を守るために、未来の順序も置いておく。そういうことか」


「そう」


アラクネアはメモ用紙を指で押さえたまま、もう一度だけ廊下の奥を見た。

寝息がある。だからこそ、今ここで“未来の形”を置いておく必要がある。


「それと……もう一つ、決めておきたい」


アレックスが視線を上げる。


「子どもたちのこと?」


「ええ。特別扱いはしない。採用も同じ条件。落ちる可能性も受け入れる。――それは前提として」


アラクネアは、白紙の端に指先で小さく線を引くような仕草をした。


「でも、もし彼らが“入口”に立つ段階が来たら、入口の立ち方そのものを訓練しておく必要がある」


「訓練?」


アレックスが、声を落とす。


「会社の中だけじゃ足りない。企業の論理だけじゃ足りない。――危機の扱い方は、別の場所で鍛えないと」


アラクネアは頷いた。


「だから、“訓練場”を用意する。企業の外側に置く。国際的な危機と情報を扱うための、諜報と危機対応の訓練機関」


言い切ってから、彼女は少しだけ言葉を削る。


「まだ名前は決めない。名前を決めると、器が固まる。――今は、空白の箱でいい」


アレックスが白紙を見下ろす。


「……兄弟の役割も、そこで分ける?」


「ええ。ジェイムズは私の側で。倫理と長期と統合判断。――あの訓練場の“ボス”として育てる」

「マックはあなたの側で。交渉と停止と実行制御。――補佐官として、前線の制動を鍛える」


アレックスは、すぐに頷かなかった。

否定ではない。重さを測っている沈黙だった。


「……それは、後継のため?」


「後継のためでもある。でも、それだけじゃない。人格依存を避けるため。入口に立つ人間が、怖がれるようにするため」


アレックスは小さく息を吐く。


「企業が抱えきれない領域が来るかもしれない。……そのとき、家族の名前で押し切らないために、“訓練された順序”を渡す」


アラクネアは白紙の余白に、目立たないように小さく書いた。

――のちにAIIBSOと呼ばれることになる、その“訓練場”の器だけを。


「名前は、あとでいい」


「名前より、順序だな」


「ええ。制度より、姿勢。構造より、恐れ。未来より、この夜の判断」


アラクネアは、少しだけ間を置いて、さらに続けた。

未来を断定するためではない。

この夜の“姿勢”として、恐れを形に残すためだった。


「いつか、判断の入口に立つ人が変わる。私たちじゃなくなる。……そのとき、その人が一人で背負わないように」


アレックスが眉を上げる。


「……入口に立つ人?」


廊下の奥の寝息に、二人は一瞬だけ耳を澄ませた。

それだけで答えは決まってしまうような夜だった。


アラクネアは声を落とす。


「もし、あの子たちが関わることになったとしても、特別扱いはしない。親子だから例外を作らない。採用試験も、同じ条件で受ける。落ちる可能性も最初から受け入れる」


アレックスは短く頷いた。


「人格依存を避けるなら、それしかない」


「そう。だからこそ――もし彼らが判断の入口に立つ段階が来たら」


アラクネアは、メモ用紙に書いた三つの言葉を、指先で軽く叩く。


「代表取締役会と、会長と、倫理委員会。これはそのときのために置く。あの子たちの“助言役”で、同時に“制動役”として」


「助言だけじゃなく、止める?」


「止める。横から止める。命令はしない。でも、止められる」


アレックスはその意図を理解したように、ゆっくり息を吐いた。


「……入口に立つ人間が、怖がれるようにする。怖がれなくなるのが一番危ない」


アラクネアは頷く。


「この夜の私たちは、まだ何も知らない。未来の名前も、出来事も、あの子たちの行く末も。……でも、“歪み方”だけは知ってる。だから先に、置くだけ置く」


アレックスは、メモ用紙の端を指で押さえた。


「未来の置き場所、か」


「ええ。未来の置き場所。今は空白のまま。だけど、ここだけは、空席にしない」


その夜、二人は長く話したわけではない。

だが、線だけは増えていった。


何をするかではない。

何をしてはいけないか。

どこで止めるか。

誰がNOを言うか。

誰が責任を引き受けるか。

そして、誰が実行するか。


アラクネアは最後に、白紙の一番下に書く。


社員(実行部隊)。

役割分担表(Assignment Sheet)。


「ここに渡るときは、もう“確定”している状態」


「社員は判断しない」


「判断させない。判断を背負わせない」


彼女の言葉は冷たいのではなく、守るための硬さだった。


アレックスは、白紙をゆっくりと裏返す。

裏面はまだ真っ白だ。

その白さが、少し怖かった。


「……僕らがもし、この形のまま“象徴”にされる日が来たら」


アレックスが、珍しく仮定を口にした。


ここで彼は、言い切りかけて、飲み込んだ。

世界を語るのは、この夜の仕事じゃない。

この夜にあるのは、彼自身の怖さだけだった。


「……僕が怖いのは、構造が見えなくなることだ」


アラクネアが視線を上げる。


「みんなが、仕組みじゃなく“顔”を見るようになったら。……その時点で、この会社は危険だと思う。だから、今、前に出すぎない」


アラクネアはすぐに答えなかった。

代わりに、ノートの最初の頁――「越えてはいけない線」に戻り、そこへ一本、赤い線を引く。


「だから、線を引くのよ」


「外がどう見るかは、制御できない」


「でも、私たちが越えない線は制御できる」



アレックスは、白紙の下段――「社員(実行部隊)」と書かれたあたりを指でなぞった。

段差は作れた。順序も置けた。だが、最後に残るのはいつも同じ疑問だ。


「……じゃあ、どこまでを僕たちが見る?」


アラクネアはすぐに答えなかった。

彼女は「第0層」の文字を一度だけ見返し、静かに首を振る。


「全部は見ない。見た瞬間、私たちの目が“制度”になる。制度は人を甘やかす」


アレックスが小さく息を吐く。


「でも、放っておくと暴走する」


「暴走させない。暴走しない範囲を、“最初から渡す”の」


アラクネアはペンを持ち直し、白紙の端に短い線を引いた。

線は境界だった。例外ではない。日常の入口だった。


「通常運用。ここは私たちが直接判断しない」


アレックスが眉を寄せる。


「例えば?」


アラクネアは淡々と言った。


「問い合わせ。相談。修理や保守。既存製品の購入と更新。新人研修」


アレックスは頷きながらも、視線を上げない。


「……そういうのこそ、現場に任せるべきだ」


「ええ。だから現地に渡す。各国・各地域の最寄り支社。各部署の担当責任者」


アレックスはペン先で紙を軽く叩いた。


「ただ、基準が揺れると終わる。支社ごとに正義が変わったら、世界が割れる」


アラクネアはその言葉にだけは即答した。


「揺らがせない。だから――マニュアルと基準の作成と更新は、現地だけに任せない」


「本社が持つ?」


「本社が“共有する”。命令じゃない。共有。支社も現場も、同じ線の上で動けるようにする」


アラクネアは言葉を選びながら、順序を口にした。


「部署責任者と、部門責任者と、支社長と――私たち。四者で作る。四者で更新する」


アレックスが目を細める。


「……現地が決めるんじゃない。僕たちが決めるんでもない」


「そう。誰か一人の気分にしない。現場の現実と、会社の線と、国の事情と、人の負荷。全部を同じ机に並べる」


廊下の奥で、子どもが小さく寝返りを打った。

その生活音が、二人の「線」に温度を与えた。


アレックスは、眠りの方向を一度だけ見て、静かに言う。


「……日常運用は現地。判断基準と倫理は、本社と共有」


アラクネアは頷いた。


「ええ。現地に任せて、現地を孤立させない。これができない会社は、どこかで必ず歪む」


アレックスは白紙の下段を見つめたまま、低く言った。


「だから、僕たちは“全部を見る”んじゃなくて、“全部が同じ線で動けるようにする”」


「そう。制度は文書じゃない。順序と共有で回す」


【例外:通常運用業務】


以下は夫妻が直接判断しない領域

• コールセンター

• 問い合わせ・相談

• 修理・保守

• 既存製品の購入・更新

• 新人研修


担当

• 各国・各地域の最寄り支社

• 各部署の担当責任者


ただし、

マニュアル・基準の作成と更新は

• 部署責任者

• 部門責任者

• 支社長

• アダソン夫妻


が共同で行っていた。


日常運用は現地、判断基準と倫理は本社と共有。



「あとは採用という最初の関門、会社が形を持ち始めると、避けられない問いが出てくる。誰を入れるのか」


アレックスは即答した。


「優秀な人はいらない。判断を“自分でしない人”が必要だ」


アラクネアは補足する。


「勝手に正義を作らない人。命令を待てる人。NOを上から言われたときに、安心できる人」


こうして、採用プロセスは自然に決まっていった。

1. 書類選考

 — 経歴よりも、判断の一貫性を見る

2. 英語筆記試験(免除制度あり)

 — いずれ世界に出る前提。共通言語は最初から英語

3. 人事面接

 — 人柄より「逸脱しないか」を確認

4. 専門職・技術職の筆記試験

 — 技術力そのものより、思考の安全性

5. 部門責任者面接

 — 現実ブレーキとして機能するか

6. 創業者夫妻との面接+企画課題プレゼン


最後に夫妻が見るのは、能力ではない。


「この人は、断られて壊れないか」

「自分の正しさを、引っ込められるか」

「判断を上に返せるか」


英語で行われるのは、効率のためではない。

どの国に行っても、同じ判断基準を共有するためだった。


この選考が、のちに

「世界一倍率が高く、世界一難しい採用制度」

としてギネスに記録されることを、

この時の二人は、まだ知らない。


ただ、妥協できないと知っていただけだ。


その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。

廊下の奥で、子どもがまた小さく寝返りを打った。

──

挿絵(By みてみん)

──

このとき二人は、まだ知らない。


この会社は、これから二十五年の間に、

いつの間にか世界中から

「来てほしい」

という要望を受け続けることになる。


その結果、25年後の黄金期から後継期までには、

世界各地に百二十五の支社と百五十人も支社長を持ち、

百五十人の支社長体制へと展開し、

社員数は約十万から十五万人にまで達する。


それは、二十五年間、

完璧に機能し続ける巨大企業となる。

あまりにも、成功しすぎた存在として。


また創業から五年目まで、

実務に徹する黒いスーツに身を包んでいた夫妻は、

六年目を境に、華やかなファッションスーツへと装いを変えていく。


彼らは無意識のうちに、

サイバーサイジング社の「顔」として、

PR活動を本格化させていくことになる。


SNSや動画プラットフォームが普及すると、

洗練された装いの夫妻は、

家族のように親しみやすい笑顔で、

毎年恒例のクリスマスや年末年始の挨拶動画を

世界へ向けて配信するようになる。


アダソン兄弟とのプライベートな日常の発信は、

無意識のうちにいつの間にか世界中の人々にとって

「理想の家族像」として消費され、

憧れの対象となっていく。


重要顧客にはSPを伴った丁寧な面会を行い、

黄金期には、

天皇皇后や世界各国の首脳陣との謁見を重ねていく。


本来、リスクを避けるべき

ITインフラ企業の代表取締役としては、

あまりにも「目立ちすぎる」これらの行動は、

無意識のうちに夫妻を、

単なる経営者から、

世界中に愛され、信頼される

**「正義の象徴」**へと変貌させていく。


このようにして世界中で夫妻の存在が知れ渡るようになってから

夫妻の外見には、ある奇妙な印象が付随し始める。


二人は意識していなかったが、FBI時代に身についた生活習慣と感情管理の癖により、

FBI時代からずっと創業以降も外見上ほとんど老いを見せなかった。


睡眠を削らず、生活リズムを崩さず、感情を爆発させない。

怒りも恐怖も表に出さず、常に一定の温度で判断し続ける。

その結果、夫妻は無意識のうちに、

二十代から三十代の頃とほとんど変わらない印象を保ち続けていた。


実際には、彼らが命を落とす頃には五十代半ばから後半に差しかかっていたが、

写真や映像に残る姿からは、

その時間の経過を読み取ることができなかった。


ファッションスーツに身を包み、

常に同じ装い、同じ表情、同じ姿勢で世界の前に立つ二人は、

「いつ撮影されたのかわからない」

「季節感がない」

「時間が止まっている」

「この人たちの歳がわからない」

「いつ見ても、同じ顔、同じ服装だ」

「歳をとっている感じが全くしないから、気持ち悪い」

と語られるようになる。


さらに黄金期に入る前後からは、

夫妻を模したバービー人形が、

限定モデルや記念モデルとして販売されるようになる。


それらは成功の象徴であり、憧れの対象として消費されたが、

同時に、奇妙な言葉を生み始めた。


――引退してほしくない。

――変わらないでほしい。

――歳を取らないでほしい。

――まだやれる。


称賛の形をとりながら、

人格と身体の時間を固定しようとする言葉が、

次第に公然と語られるようになっていく。


夫妻は、それらを知らない。

自分たちの外見と存在が、

世界の側で「老いない象徴」として消費され、

人権の境界を侵食し始めていることを、

この時点では、まだ自覚していなかった。


――夫妻が微笑んでいる限り、世界は安泰である。


そう信じることで、

本来構築されるべき

客観的なリスクヘッジや制度的検証は、

「今は不要なもの」だと錯覚されていく。


サイバーサイジング社は、

単なる便利なインフラではなく、

「アダソン夫妻という完璧な善意」

そのものとして認識され始める。


通常、支社を増やすには

マニュアル化――すなわち制度化が必要である。


だが夫妻は、それをしない。


代わりに百五十人の支社長たちに対し、

FBIでの経験に裏打ちされた独自のトレーニングを施し、

夫妻が持つ特有の思考回路と倫理的直感を、

徹底的にインストールするという、

属人的な拡大方法を選ぶ。


支社長たちは、経営を学ぶのではない。

「夫妻ならどうするか」を完全に模倣する訓練を受ける。


こうして夫妻は、

マニュアルを作る時間を短縮し、

自分たちのコピー――すなわち分身を

各地に配置するだけで、

百二十五の拠点を

「いつの間にか」動かすことを可能にしていく。


この

「圧倒的な成功実績」と「偶像化された信頼」

の積み重ねが、

世界から思考を奪っていく。


世界は、

サイバーサイジング社という「システム」そのものよりも、

この華やかで完璧な「夫妻」という人格と象徴を、

無自覚のうちに盲信するようになる。


その結果、

本来なら必ず問われるべき

「もし夫妻が死んだらどうなるのか?」

という問いは、

いつのまにか現実的な議論の場から、静かに消えていく。


――これほど上手くいっているのだから、

今は制度を作らなくていい。


その成功ゆえの慢心と先送りが、

世界規模の人格依存と象徴依存として共有され、

完成してしまう。


これこそが、

サイバーサイジング社を覆う、

甘く、静かな機能不全の始まりだった。


実態を直視すれば、

それはもはや「会社」と呼べる組織ではない。

世界が思考を放棄した結果として肥大化した、

救済の生命維持装置になっていった。


だが同時に、

その華やかな表舞台の裏側で、

致命的な空席が、静かに広がっていく。


夫妻は、

永遠に判断者であり続けるつもりではなかった。


息子であるアダソン兄弟への経営移行と同時に、

人格から制度へと移行する計画は、

確かに存在していた。


しかし、

実の後継者である兄弟への移行には、

莫大な時間が必要だった。


支社長たちに求められたのが

「人格の模倣」であったのに対し、

兄弟に求められたのは、

その人格を脱ぎ捨て、

普遍的な制度へと翻訳する役割だったからである。


彼らがこの翻訳作業と重責に苦心し、

制度が実体を持たない過渡期に留まり続けること――

それこそが、

サイバーサイジング社が抱える

唯一にして最大の脆弱性となる。


さらに、

この夜に“訓練場”として置いた空白の箱が、

のちにAIIBSOという名を与えられ、

兄弟の後継準備の場として現実の形を持っていくこと。


そのAIIBSOが、

濡れ衣を着せられた国際破産手続きとともに歪められ、

兄弟自身を闇へと引きずり込み、

本来とは異なる目的を帯びた組織へと変質していくこと。


そして何より、

そのすべての起点として、

二十五年後に自分たちが暗殺され、

この構造が断絶してしまうことを――


このとき二人は、まだ知らない。



そして、この夜に引かれた一本の線こそが――

制度の有無は選択ではなく、

二十五年後へ向けた**“タイムリミットそのもの”**の始動だったことを。


誰もが続く未来を疑わなかった夜、

夫妻は、息子のアダソン兄弟に後継準備と制度設置準備の途上で、

顧客企業の社長エリック・サーティーンによって

暗殺されることになる。


それは単なる暗殺ではない。

象徴を狙った企業テロ――

企業ハイジャック事件だったと、後に判明する。


彼が引き抜いたのは、

インフラではなく、

企業の「意味」だった。


この瞬間、

制度未完成の空白と象徴破壊が重なり、

世界は不可逆点を越える。


止まったのは、株価だけではない。


株価は暴落した。

市場は悲鳴を上げ、数字は意味を失った。

だがそれは、まだ「見える崩壊」にすぎなかった。


本当に止まったのは――

人々が自分で考え、選び、判断し、

その結果に責任を持って動くという、

世界を動かしていたはずの力そのものだった。


自分で押せるはずのボタンが押せない。

電源の付け方も消し方も分からない。

判断できない。

コールセンターに繋がらない

どこに問い合わせていいかわからない。

責任を引き受けられない。


人々は、初めて知る。

便利だったのは技術ではなく、

「夫妻が見てくれている」という思い込みだったのだと。


世界が凍りつく。

リーマンショックよりも深く、広く、

“考える力”そのものが止まっていく

サイバーサイジングショックが25年後には起きることも

この誰もまだ知らない。


自分たちが、いつの間にか無意識に

世界の前に立ち過ぎたことが、

“安心”の顔になってしまったことを。


そして――

未来を守ったつもりで、

未来を閉ざしてしまったという逆説を。


──

挿絵(By みてみん)

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