9.引き継ぎ――最後の職務
翌週から、二人はそれぞれのデスクで同じ作業を始めた。辞表を書くことではない。仕事を残さないことだった。
アレックスは自分が関わってきた案件をすべて洗い出す。未解決、継続中、すでに引き渡したもの。机の上に並ぶのは功績ではなく、判断の記録だった。
ノートに書き出す。誰が引き継げるか。判断の分岐点はどこか。感情や先入観が入りやすい箇所はどこか。そして最も重要な項目――何を残してはいけないか。
未整理の推測。口頭だけで共有された懸念。文書にすると誤解を招く曖昧な印象。それらは次の誰かの判断を歪める危険があった。自分がいなくなったあと、誰かが自分の代わりに責任を背負わされないようにする。それが彼の引き継ぎだった。
アラクネアも同じだった。情報管理・監査資料を一つずつ確認し、引き継ぎ文書に感情は書かない。だが注意点だけは極端なほど明確にする。問題なしと判断した理由。判断保留にした理由。今後参照されるべきではない理由。最後の項目には必ず赤い線を引く。
残すことよりも、残さないことのほうが後の人間を守ることがある。二人にとって、この作業は退職準備ではなかった。最後までFBIの一員であるための仕事だった。
この引き継ぎの丁寧さこそ、二人への評価の核心だった。
派手な成果はなくても、組織の内部が崩れない。
だから「安心して任せられる」。
だから「中心に置きたくなる」。
だが、二人はその中心に行かない。
中心に行けば、グレーを飲み込む速度が上がると知っていたから。




