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8.上司の部屋――言い切らない相談
辞表は、すぐには出されなかった。迷いではない。意図的な時間だった。衝動ではないことを自分たち自身に証明するため。信頼してきた上司を混乱させないため。組織に余計な傷を残さないため。
アレックスは最も信頼していた直属の上司の部屋を訪れた。扉を閉め、椅子に座る。
「すぐではありません。ですが……いずれ辞めます」
上司は一瞬だけ言葉を失った。
二人がどれほど優秀で、どれほど失敗しないかを、上司は知っていた。だからこそ驚いた。組織は“失敗しない人間”を手放すことが、いちばん怖い。
「理由は?」
アレックスは少し考えてから答えた。
「……判断の基準を、変えたい」
それ以上、細かい説明はしなかった。
説明すれば、ここでの“正しさ”に吸い込まれる。
二人が置きたいのは距離で、争いではない。
上司もそれを理解したように、深く息を吐いた。
「急ぐな。だが、逃げるな」
止める言葉ではない。見送る準備をする言葉だった。




