18.マックの誕生(1995)雨上がりの虹と、名づけ
第二子の出産が近づくにつれ、家の空気は少しだけ変わっていた。
騒がしくなるわけではない。
むしろ、静かになる。
必要なことだけが残り、
余計な言葉が減っていく。
出産前夜。
雨が降っていた。
アダソン宮殿の庭は、夜の雨に濡れ、
芝生と樹木が深い色を帯びている。
ジェイムズは早くから眠らせたが、
夜中に一度だけ目を覚ました。
「ママ……?」
「大丈夫。
朝になったら、会えるよ」
その言葉は、約束ではなく、予定だった。
この家では、予定は守るものだ。
その日、アレックスはFBIを休んでいた。
迷いはなかった。
一度目と同じ判断だ。
——立ち会えるなら、立ち会う。
——見られるなら、見る。
朝方。
雨が上がる。
空気が変わる。
濡れた世界が、ゆっくりと呼吸を取り戻す。
アレックスはジェイムズを起こし、
静かに服を着せた。
「病院、行く?」
ジェイムズは眠そうに目をこすりながら、頷く。
車は、宮殿の敷地内をゆっくり進む。
専用病院の前に着く頃、
空が少しずつ明るくなり始めていた。
病院の中は静かだった。
必要な音だけが残されている。
二人は、窓のある場所へ立つ。
そのときだった。
病室の窓の外、
雨上がりの空に、光が差す。
最初に気づいたのは、ジェイムズだった。
「あ……」
小さな指を伸ばす。
「パパ、あれ」
アレックスが顔を上げる。
虹だった。
一本ではない。
淡い色が重なり合い、
空に大きな弧を描いている。
朝日が昇り、
虹が、はっきりと輪郭を持つ。
アレックスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、ジェイムズと同じ高さで、
同じ方向を見る。
「……レインボーだ」
ジェイムズは目を丸くする。
「おおきいね」
「うん。
雨のあとに、出る」
その瞬間だった。
分娩室の方から、
赤ちゃんの鳴き声がはっきりと響いた。
朝日が昇り、
虹が空に残る、その瞬間に。
泣き声は、強く、まっすぐだった。
迷いがない。
世界に向かって、まっすぐだった。
アレックスは息を吐く。
「生まれた」
それは報告ではなかった。
確認だった。
ジェイムズは、ゆっくりと頷く。
「……ぼくの?」
「そう。
君の弟だ」
しばらくして、
アラクネアから呼ばれる。
面会の時間だった。
病室は静かだった。
出産直後の朝の光が、
白すぎない壁に柔らかく反射している。
アラクネアはベッドに横たわり、
腕の中に、もう一つの命を抱いていた。
ジェイムズは一歩だけ立ち止まる。
近づきすぎない距離。
アレックスがしゃがんで言う。
「ジェイムズ。
——お兄ちゃんになったよ」
ジェイムズは一度、父を見る。
次に、母を見る。
そして、赤ん坊を見る。
ゆっくり近づき、
小さく言う。
「……はじめまして。
ぼく、おにいちゃん」
赤ん坊は答えない。
ただ、小さく指を動かす。
ジェイムズはそれを見て、
胸を張るように言った。
「まもる」
アラクネアの目が潤む。
「ありがとう。
もう、十分守ってる」
アレックスは、しばらく言葉を置かなかった。
窓の外。
雨上がりの空に、薄い虹が残っている。
朝日が当たり、
色はもう強く主張しない。
だが、消えきらず、確かにそこにある。
——消えかけているのに、残っている。
——派手ではないのに、見落とせない。
彼は、その状態を見ていた。
守るとは、こういうことだ。
前に出すことではない。
消さずに、支えることだ。
「……名前を、決めよう」
置くような声だった。
決意ではなく、判断の声。
アラクネアは頷く。
「……虹、見ました」
「見た。
ジェイムズと一緒に」
二人は、短く言葉を交わす。
「マック、って……短いですね」
「短い方が走れる」
「走らせたいんですか」
「うん。
ジェイムズが星なら、
この子は地面だ。
支える方」
彼女は迷わず頷いた。
広い大地と、豊かな自然。
雨のあとに現れる虹のように、
強く、しなやかに生きてほしい。
その願いを、父は名に置く。
マック・レインボーアース・アダソン
通称、マック・アダソン。
ジェイムズが、もう一度その名を口にする。
「マック」
その音が、
この家に静かに定着した。
雨上がりの朝。
虹は、ゆっくり消えていく。
だが、
その名前は残る。
——地に立ち、
——空を知る者として。
兄弟の時間は、
ここから始まった。
兄弟は、似ていない。
それは最初から、はっきりしていた。
ジェイムズは、よく空を見た。
星の名前を覚える前から、
夜になると窓の外を指さした。
「ひかってる」
理由を求めない。
ただ、遠いものに惹かれる。
マックは、足元を見る。
歩けるようになると、
石、土、芝生の境目を確かめるように踏んだ。
転んでも、泣かない。
泣く前に、立ち上がる場所を探す。
ジェイムズが走ると、前へ出る。
マックが走ると、後ろが整う。
ある日、庭で二人を見ながら、
アラクネアが言った。
「星と地面、ですね」
アレックスは否定しない。
「役割だな」
ジェイムズは、問いを投げる。
「どうして?」
「どこまで行くの?」
「その先は?」
マックは、確かめる。
「ここ、だいじょうぶ」
「こっち、あるける」
「まもる」
言葉の量は少ない。
だが、生活は崩れない。
夜。
ジェイムズが夢を語る。
星の話をする。
マックは、その横で眠る。
手を伸ばせば、必ず何かに触れる位置で。
二人の間に、役割の競合はない。
奪い合いもない。
星は、照らす。
地面は、支える。
どちらが欠けても、家は立たない。
アレックスは、その様子を見て思う。
——名づけは、正しかった。
——詩ではなく、設計だった。
そしてアラクネアは、静かに確信する。
この家は、
前に出る力と、
支える力で、
これからも保たれていく。
兄弟の時間は、
音を立てずに、
だが確かに、積み重なっていった
ジェイムズが、少しずつ遠くを見るようになったのは、いつからだったか。
年齢ではなく、距離の問題だった。
庭の端まで走るようになり、
次は門の向こうを見た。
やがて、地図を広げ、
空港の名前を覚え、
夜に窓を開けて、星を数えながら言う。
「……あっちにも、行けるのかな」
その問いは、許可を求める形をしていない。
可能性の確認だった。
アレックスは、答えを急がない。
代わりに、足元を見る。
マックは、その頃、兄の後ろにいた。
前を走らない。
だが、離れもしない。
ジェイムズが庭の石段を駆け上がると、
マックは一段下で止まり、
踏み外していないかを確認する。
「にいちゃん、そこ、すべる」
ジェイムズは振り返る。
「だいじょうぶだよ」
「でも、すべる」
言い争いにはならない。
ジェイムズは一度だけ足元を見る。
そして、違う場所を踏む。
それだけだ。




