14.出産前夜(アダソン宮殿専用病院)
出産は、アダソン宮殿の広大な敷地内にある、アダソン家専用の病院で行われることになった。
宮殿の延長のような建物で、外観は主張しない。
白すぎない壁、低い天井、足音を吸う床。
窓の外には、手入れされた芝と樹木が広がっている。
出産前夜。
時刻は、深夜へと沈みきった頃だった。
アラクネアは、分娩室のベッドで呼吸を整えていた。
波のように訪れる痛みの合間、彼女は自分に言い聞かせる。
——急がなくていい。
——急がせても、咲かない時間がある。
それは、かつて机の隅で育てた薔薇と同じ言葉だった。
分娩室の外。
アレックスは、椅子に座って待っていた。
ジャケットは脱いでいる。
ネクタイも外している。
それでも背筋は崩れていない。
彼は落ち着いているように見えた。
だが、膝の上に置いた指先が、一度だけ小さく跳ねて止まった。
それで十分だった。
彼自身が、自分の緊張を自覚している証だった。
アラクネアが、痛みの合間に言う。
「……怖いですか」
アレックスは、少し間を置いて答えた。
「怖い。
でも、逃げない」
彼女は、息を整えながら微かに笑う。
「……私もです」
それ以上の言葉はいらなかった。
勇気は、声を張ることで生まれない。
沈黙の中に、静かに残るものだ。
深夜。
分娩室の照明は落とされ、必要な灯りだけが残されていた。
そのときだった。
痛みが一段落した瞬間、
アラクネアはふと、窓の方へ視線を向けた。
分娩室の高い位置にある、小さな窓。
夜空が切り取られている。
——光。
一瞬、錯覚かと思った。
だが次の瞬間、それは確信に変わる。
一本ではない。
二本でもない。
流れ星が、連なって落ちていく。
短い光が、雨のように。
シャワーのように、夜空を横切る。
「……」
声が出なかった。
呼吸だけが、浅くなる。
その光は、長くは続かなかった。
けれど確かに、彼女は見た。
その直後だった。
陣痛が、はっきりとした“始まり”を告げる。
身体が、迷いをやめる。
助産師の声が、落ち着いて響く。
医師の指示が、正確に重なる。
時間の感覚が、溶けていく。
そして——
真夜中。
産声が上がった。
鋭くはない。
けれど、はっきりとした声。
その瞬間、分娩室の外で待っていたアレックスは、
立ち上がったまま、息を吐くことを忘れた。
「……会えた」
報告書よりも小さな声。
だが、人生でいちばん重い一言だった。
アラクネアは、汗に濡れたまま、赤ん坊を胸に迎える。
小さな身体。
温度。
確かな重み。
未来の顔。
彼女は、まだ整いきらない呼吸の中で言った。
「ジェイムズ……」
少し間を置き、
そして、はっきりと。
「——ジェイムズ・ライトスター・アダソン」
通称、ジェイムズ・アダソン。
天から舞い降りた流れ星のように。
強く、静かに、
自分の光を持って生きてほしい。
その願いを、彼女は名前に置いた。
アレックスは、ゆっくりと頷く。
「ライトスター……いい。
君らしい」
彼女は、ほんの少し笑った。
「あなたも、同じ顔をしてます」
「どんな顔だい」
「守る顔」
彼は何も言わなかった。
ただ、視線を逸らさなかった。
その沈黙は、
結婚式の誓いと同じ質量を持っていた。
——更新された誓い。
流れ星の夜。
静かな病院。
そして、確かに始まった家族の時間。
——
夜が明ける少し前。
アダソン宮殿専用病院の窓から、淡い朝の光が差し込み始めていた。
出産直後の病室は、音が少ない。
機械の規則正しい作動音と、遠くの足音だけが、時間を刻んでいる。
アラクネアは、ベッドに腰を下ろしたまま、
ジェイムズを胸に抱いていた。
身体はまだ完全ではない。
だから立たない。
無理をしない姿勢を、彼女はもう選べるようになっていた。
眠りは浅い。
だがそれは不安ではなく、
「聞き逃したくない」という身体の反応だった。
赤ん坊の呼吸。
指先のわずかな動き。
ときどき、口元が動く。
——生きている。
——確かに、ここにいる。
その事実を、彼女は何度も確かめる。
アレックスは、病室の窓際に立っていた。
椅子に座るでもなく、腕を組むでもなく、
ただ、少し後ろから二人を見ている。
彼はいつも、
守る対象の全体が視界に入る位置を取る人だった。
「……朝ですね」
アラクネアが言うと、
彼は窓の外を見たまま答える。
「うん。
静かだ」
「世界は、何も変わってないのに」
「変わってる。
少なくとも、僕たちは」
彼女は小さく息を吐く。
笑うには、まだ身体が追いつかない。
けれど、その言葉は確かに胸に落ちた。
看護師が様子を見に来て、声を潜めて言う。
「落ち着いてますね。
……いい朝ですね」
“いい朝”。
それは祝福でも、儀礼でもない。
ただの事実だった。
アラクネアは、
座ったままジェイムズの髪に指を通しながら思う。
——この子にとって、
——世界は、今日が最初の日だ。
そして同時に、
——私たちは、昨日の続きを生きている。
その二つが、同じ時間に存在していることが、
少しだけ不思議で、
少しだけ心強かった。




