13.結婚後(1992–1993)静かな生活と、静かな変化
結婚してすぐに、生活は急に変わらない。
二人はFBIの人間だ。
日々は“案件”で区切られ、“帰宅”で終わるとは限らない。
ただ一つ変わったのは、
帰れる場所が“自分の部屋”ではなく、**“二人の場所”**になったこと。
夜遅く、アレックスが戻る。
アラクネアが先に戻っている。
会話は長くない。
「おかえりなさい」
「ただいま」
それだけで、眠れる日が増える。
互いの一日をすべて説明しなくても、
“戻ってきた”という事実だけで呼吸が整う。
そしてある日。
アラクネアは洗面台の前で、少しだけ動かなくなった。
検査薬を見つめる。
線は薄い。
だが、確かにある。
彼女はすぐにアレックスに言わない。
まず、呼吸を整える。
彼女はいつも、判断の前に呼吸を整える人だった。
その夜。
アレックスが帰宅し、コートを掛ける音がする。
いつもと同じ音。
だからこそ、今日の違いが際立つ。
彼女は台所の灯りの下で言った。
「……話があります」
アレックスは立ち止まり、頷く。
彼は“重い話”を察しても、急かさない。
「うん」
彼女は検査薬を、テーブルの上に置いた。
手渡さない。
置く、という動作で告げる。
アレックスは一瞬だけ目を閉じた。
喜びではなく、責任の計算が先に走る顔。
そして次に、彼は静かに膝をつき、彼女の視線の高さに来た。
「体は?」
「今は……大丈夫です」
「気持ちは?」
彼女はすぐに答えられない。
喜びと恐れは、同じ場所にいる。
「……守れるか、不安です」
アレックスは否定しない。
安心させる言葉を先に置かない。
代わりに、彼女の手を取る。
「守る。
僕が守る。
——僕たちが守る」
言葉は短い。
短いほど嘘が混ざらない。
——
以降の通院は、すべてアダソン宮殿の敷地内にある専用病院で行われた。
外部の目に晒されない。
だが閉じた空間でもない。
医師も看護師も、アダソン家の“守り方”を理解している。
廊下は静かで、足音が響かない。
診察室は必要以上に白くない。
安心を演出するのではなく、不安を増やさない設計だった。
数週間後。
その病院の診察室で、医師が穏やかに告げる。
「男の子ですよ」
アラクネアは、一瞬だけ息を止めた。
男の子。
未来の“形”が、一つ、輪郭を持つ。
アレックスは表情を変えない。
だが、彼女には分かる。
彼はすでに、未来の配置を考えている。
診察を終え、病院から宮殿へ戻る短い移動の車内。
窓の外には、よく手入れされた庭が流れる。
彼女が小さく言う。
「……男の子、ですね」
アレックスはハンドルを握ったまま頷く。
「うん。
君は、どう思う?」
「……名前を、軽くしたくないです」
彼は少し間を置いて答える。
「同じだ。
軽くしない。
でも、重すぎて背負えなくもしない」
彼女は、小さく笑う。
この人はいつも、“中間の正確さ”を探す。
妊娠が進むにつれ、アラクネアは徐々に職場を離れていく。
産休は取る。
だが彼女は、“消えるように”休まない。
引き継ぎは、正確に。
ログは整理され、注記が残され、
「ここまでやった」「ここから先は判断が必要」と明確に区切られる。
彼女らしい去り方だった。
同僚の反応は、騒がない祝福だった。
「おめでとう」
「無理はするな」
「戻る場所はある」
派手な花束はない。
けれど、その方がありがたい。
彼女は“特別扱い”ではなく、“席が残されている”ことを望んでいた。
宮殿に戻ると、生活はさらに静かになる。
夜は早く終わる。
食事は軽くなる。
アレックスは無言で予定を調整し、
彼女が歩く時間帯の廊下から、人の気配を減らす。
アラクネアは思う。
——守られている、というより、
壊れないように配置されている。
それは彼女にとって、
最も信頼できる優しさだった。
この静けさの先に、
出産前夜があり、
そして——あなたが書いた
**「雨上がりの地下駐車場(ワシントンD.C.)」**へと、
物語は自然に接続していく。




