3.薔薇の歌姫、そして薔薇の妖精(改稿)
次に決めるべきは、声だった。
歌は、声で人格を持つ。
一度決まれば、
家族の記憶として、
何十年も残り続ける。
候補の資料が机に並ぶ。
いずれも一流。
いずれも“正しい”歌い手。
だが、アラクネアはページをめくる速度が遅かった。
「上手い」だけでは足りない。
上手い声は、人を引っ張る。
彼女が求めているのは、
引っ張らない声。
押さないのに、届く声。
彼女の指が止まった。
「……この人」
ラブ・ヴィッキー・ティニー。
アレックスが音源を再生する。
声が流れた瞬間、空気が変わった。
高いのに、鋭くない。
甘いのに、媚びない。
強いのに、支配しない。
アラクネアが言う。
「祈りに近い」
アレックスは短く頷く。
「“薔薇の歌姫”にする」
だが、まだ終わりではない。
この歌には、もう一つの柱が必要だった。
ストラディヴァリウスを扱う奏者。
演奏監督が、慎重に名前を挙げる。
「……セレナーデ・ローズ・フェアリー」
資料には、短い注記が添えられていた。
自分のストラディヴァリウスを所有。
外部演奏への参加は極めて限定的。
依頼は、ほとんど断る。
実際、最初の打診は断られた。
理由は、明確だった。
——結婚式のための演奏はしない。
——音が“消費”される場には立たない。
二度目も、断られた。
三度目も、同じだった。
それでも、夫妻は諦めなかった。
金額の話は、最後までしなかった。
数億円の楽器にふさわしい報酬を、
提示しなかったわけではない。
だが、それを前面に出さなかった。
アラクネアは、ただ伝えた。
「この音は、
今日のためではありません。
この家が、戻る場所である限り、
何度も思い出される音になります」
アレックスは言った。
「あなたの楽器を、
“主役”にはしない。
でも、消さない。
あなたの音がなければ、
この歌は完成しない」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
そして、返事が来た。
——条件がある。
——楽器は、私自身が持ち込む。
——音の扱いに、口出しはさせない。
アレックスは即答した。
「当然だ」
アラクネアは深く頷いた。
「あなたの音を、
私たちは信じます」
こうして、
薔薇の歌姫と、
薔薇の妖精が揃った。
前に出る者と、
支える者。
目立つ声と、
寄り添う音。
アラクネアは胸の奥で思った。
——この人はやはり、
——目立つ人間より、
——守る人間を選ぶ。
そしてそれは、
この家の選び方そのものだった。




