1.準備は、音から始まった(改稿)
前書き
――そして、物語は第2章へ進む。
第2章
薔薇は歌になり、家族の名前になる
――仕事が人生になり、人生が家族になっていく過程。
守るものが、少しずつ増えていった時間。
あの日、薔薇の重さを腕に受け取りながら、彼女はまだ知らなかった。
それが、人生を共にする準備であると同時に、やがて世界を背負う準備でもあったことを。
このときの二人は、まだ「家族」を選んだだけだった。
だが、家族になるという選択は、やがて価値観を形にし、判断を共有し、世界と向き合う土台をつくっていく。
それは、派手な誓いではない。
声高な理想でもない。
ただ、何を大切にするかを、静かに揃えていく時間だった。
――その準備は、指輪よりも先に始まっていた。
だから、次の章で語られるのは、結婚式ではない。
二人が、「同じ判断をする人間になる」ための時間。
第2章は、その静かな準備の物語である。
結婚の準備は、指輪より先に始まっていた。それは、式場を押さえる作業ではない。二人の人生で繰り返してきた“判断の癖”を、家族の形に落とす作業だった。
アダソン宮殿の書斎。夜の廊下は音を吸い、扉の外の世界は遠い。窓の向こうには薔薇園があり、赤とオレンジの列が、街灯の光をやわらかく返している。
アラクネア・ベネットは、机の上の白紙のカードを見ていた。招待客のリストでも、祝辞の順番でもない。“何を残すか”のための余白だけがそこにあった。
アレックス・アダソンが言った。
「式は通過点だ」
彼はいつも、そういう言い方をする。結論を先に置き、相手の余白を潰さない。
アラクネアは小さく頷く。
「残るのは、その後ですね」
「そう。家族になってからの方が長い」
沈黙が落ちた。
けれどそれは疑いに変わる沈黙ではない。二人の間では、沈黙は“保留”として置かれる。
アラクネアが言った。
「……残るものを作りたい」アレックスはすぐに首を振らない。否定は相手の感覚を塗り替える行為だから。
かわりに確認する。
「物じゃない?」
「ええ。だから、歌です」
アレックスは一瞬だけ目を細めた。驚いたのではない。
“同じ地点に立った”と理解した顔だった。
「式のためのBGMじゃない」
「家族のための歌」
アラクネアの声は小さい。だが、言葉が小さいのではない。無駄がないだけだ。
彼女は続けた。
「子どもが生まれて、言葉がまだ分からなくても。眠る前に。泣いている時に。 守られているって感じられる歌」
アレックスは頷いた。
「“価値観”の歌だな」
「はい。私たちの価値観」
その価値観は、二人にとって抽象ではない。FBI本部の会議室で、廊下で、机の上のログで、何度も“選び直して”きたものだ。
——愛。情熱。信頼。絆。
それは、後に彼らがサイバーサイジング社を創るとき、企業理念の文章に先立って、精神の骨格として置かれることになる。理念の言葉よりも先に、歌がそれを覚えている。それが二人のやり方だった。




