10.世界の変化と、二人の視線(下)
プロポーズは、FBI本部で行われた。
派手な演出ではない。
だが、彼ららしい“準備”が、静かに積み上げられていた。
彼が最初に動いたのは、花ではなく「段取り」だった。
本部で目立つことは危険だ。噂は判断を歪める。
だから、祝福は最小限に、しかし誤解が生まれない形にする必要があった。
彼は信頼できる数人にだけ話した。
守秘の感覚を知っている同僚。
余計な脚色をしない人間。
そして、彼女の部署の空気を壊さない人。
「驚かせたいわけじゃない」
彼はそう言った。
「ただ……彼女が“ここで一人じゃない”と分かる形にしたい」
誰かが言った。
「花は?」
彼は迷わなかった。
「赤い薔薇。108本」
それは、彼女が机の隅に置いていた苗――
あの“急がせても咲かない時間”への、答えになると思ったからだ。
そして、彼女が大切にしてきたものを、彼は軽く扱いたくなかった。
当日、夕方。
彼女はいつものように資料を抱えて戻ってきた。
机に向かおうとして、足が止まる。
香りが先に来た。赤い薔薇の香り。
ここではありえない匂い。
視線を上げると、廊下の先に赤が見えた。
一つではない。束でもない。
“数”が、意味を持つ赤。
同僚たちが、静かに道を空けていた。
誰も騒がない。誰も囃し立てない。
けれど、目は温かい。
彼女は一歩進むたびに、胸が苦しくなる。
恐怖ではない。
こんな形で“見られる”ことに慣れていないだけだ。
そして、彼がいた。
アレックスは、花束の前に立っていた。
背筋はいつも通りまっすぐで、表情も大きくは変わらない。
だが、その目だけが、彼女の速度に合わせていた。
「……驚きましたか」
彼女は頷いた。言葉が出ない。
「ここは、いつも“今”だけでできている」
彼はゆっくり言った。
まるで報告書のように、しかし、これは報告ではない。
「だから、僕は……先に準備しておきたかった」
彼が“準備”と言ったことが、どれほど彼らしく、どれほど重いか、彼女は理解してしまう。
思いつきではない。衝動でもない。
判断の積み重ねとしての、人生の決断だ。
彼は108本の中から、一本だけを抜いた。
それは、彼女の苗に似ていた。
完成した花の中に、なお“これから”がある一本。
「君が育ててきた時間を、僕は守りたい」
彼女の喉が震える。
言いたいことが多すぎて、言葉にならない。
「一緒に判断してきた」
彼は続ける。
「これからは、人生もそうしたい。
君を利用しない。
君の沈黙を、欠陥だと言わない。
君の速度を、遅いと言わない」
その宣言は、愛の言葉というより誓約だった。
彼らの言葉はいつも、誇張ではなく、責任として置かれる。
彼は指輪を出した。
派手ではない。実務的ですらある。
だが、嘘のない重みがあった。
「結婚してください」
一瞬、時間が止まったように見えた。
本部の“今”が、初めて未来を含んだ気がした。
アラクネアは、花束ではなく、彼を見た。
彼は急かさない。
答えが出るまで、沈黙を待てる人だ。
彼女は小さく頷いた。
「……はい」
その瞬間、周囲の空気がほどけた。
拍手は大きくない。
FBIらしい、静かな祝福。
それでも確かに、彼女は“ここで一人ではない”と知った。
彼は最後に、108本の赤い薔薇を彼女の腕に預けた。
重かった。腕が痺れるほどに。
けれどその重さは、恐ろしくなかった。
それは、責任の重さと似ていた。
今まで彼が一人で引き受けてきた重さを、
これからは二人で持つ、という重さだった。
彼女は薔薇の間から、彼を見上げた。
「……薔薇って、嘘をつかないんですよね」
彼は、ほんのわずかに笑う。
「はい。だから、これも嘘じゃない」
そして彼女は思った。
あの苗を机に置いた日から、ずっと、ここへ続いていたのかもしれない。
薔薇の時間。
沈黙の時間。
立ち止まる勇気の時間。
それらが揃ったから、彼女は今、ここにいる。
結婚後の話は、第2章になる。
だから第1章は、ここで終わる。
“今”だけでできていた本部の時間が、
初めて、未来へ伸びた日として。




