表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/93

10.世界の変化と、二人の視線(下)

プロポーズは、FBI本部で行われた。

派手な演出ではない。

だが、彼ららしい“準備”が、静かに積み上げられていた。


彼が最初に動いたのは、花ではなく「段取り」だった。

本部で目立つことは危険だ。噂は判断を歪める。

だから、祝福は最小限に、しかし誤解が生まれない形にする必要があった。


彼は信頼できる数人にだけ話した。

守秘の感覚を知っている同僚。

余計な脚色をしない人間。

そして、彼女の部署の空気を壊さない人。


「驚かせたいわけじゃない」

彼はそう言った。

「ただ……彼女が“ここで一人じゃない”と分かる形にしたい」


誰かが言った。

「花は?」


彼は迷わなかった。

「赤い薔薇。108本」


それは、彼女が机の隅に置いていた苗――

あの“急がせても咲かない時間”への、答えになると思ったからだ。

そして、彼女が大切にしてきたものを、彼は軽く扱いたくなかった。


当日、夕方。

彼女はいつものように資料を抱えて戻ってきた。

机に向かおうとして、足が止まる。


香りが先に来た。赤い薔薇の香り。

ここではありえない匂い。


視線を上げると、廊下の先に赤が見えた。

一つではない。束でもない。

“数”が、意味を持つ赤。


同僚たちが、静かに道を空けていた。

誰も騒がない。誰も囃し立てない。

けれど、目は温かい。


彼女は一歩進むたびに、胸が苦しくなる。

恐怖ではない。

こんな形で“見られる”ことに慣れていないだけだ。


そして、彼がいた。


アレックスは、花束の前に立っていた。

背筋はいつも通りまっすぐで、表情も大きくは変わらない。

だが、その目だけが、彼女の速度に合わせていた。


「……驚きましたか」


彼女は頷いた。言葉が出ない。


「ここは、いつも“今”だけでできている」

彼はゆっくり言った。

まるで報告書のように、しかし、これは報告ではない。


「だから、僕は……先に準備しておきたかった」


彼が“準備”と言ったことが、どれほど彼らしく、どれほど重いか、彼女は理解してしまう。

思いつきではない。衝動でもない。

判断の積み重ねとしての、人生の決断だ。


彼は108本の中から、一本だけを抜いた。

それは、彼女の苗に似ていた。

完成した花の中に、なお“これから”がある一本。


「君が育ててきた時間を、僕は守りたい」


彼女の喉が震える。

言いたいことが多すぎて、言葉にならない。


「一緒に判断してきた」

彼は続ける。

「これからは、人生もそうしたい。

君を利用しない。

君の沈黙を、欠陥だと言わない。

君の速度を、遅いと言わない」


その宣言は、愛の言葉というより誓約だった。

彼らの言葉はいつも、誇張ではなく、責任として置かれる。


彼は指輪を出した。

派手ではない。実務的ですらある。

だが、嘘のない重みがあった。


「結婚してください」


一瞬、時間が止まったように見えた。

本部の“今”が、初めて未来を含んだ気がした。


アラクネアは、花束ではなく、彼を見た。

彼は急かさない。

答えが出るまで、沈黙を待てる人だ。


彼女は小さく頷いた。

「……はい」


その瞬間、周囲の空気がほどけた。

拍手は大きくない。

FBIらしい、静かな祝福。


それでも確かに、彼女は“ここで一人ではない”と知った。


彼は最後に、108本の赤い薔薇を彼女の腕に預けた。

重かった。腕が痺れるほどに。

けれどその重さは、恐ろしくなかった。


それは、責任の重さと似ていた。

今まで彼が一人で引き受けてきた重さを、

これからは二人で持つ、という重さだった。


彼女は薔薇の間から、彼を見上げた。


「……薔薇って、嘘をつかないんですよね」


彼は、ほんのわずかに笑う。

「はい。だから、これも嘘じゃない」


そして彼女は思った。

あの苗を机に置いた日から、ずっと、ここへ続いていたのかもしれない。


挿絵(By みてみん)

薔薇の時間。

沈黙の時間。

立ち止まる勇気の時間。


それらが揃ったから、彼女は今、ここにいる。


結婚後の話は、第2章になる。

だから第1章は、ここで終わる。


“今”だけでできていた本部の時間が、

初めて、未来へ伸びた日として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ