6.静かな交際(1990–1993)
第五節のあと、交際は静かだった。
1990年から、1993年へ。三年。
派手なレストランも、騒がしいバーも、二人は選ばなかった。
理由は単純だった。彼らは仕事で常に“音”の中にいた。電話、無線、キーボードの連打、廊下を急ぐ靴音。沈黙が疑いに変わる空気。
だから仕事の外では、できるだけ静かな場所が必要だった。
初めてのデートは植物園だった。
バラ園の一角に、まだ朝露の残る時間。人が少ない。花が咲く速度だけが支配する場所。
ベンチに並んで座っても、会話は多くない。沈黙を埋めるための言葉を、二人とも持っていなかったし、必要とも思っていなかった。
彼女は、花を見ながら言った。自分でも驚くほど、自然に。
「……田舎だと、薔薇は家の裏に咲くんです。誰かに見せるためじゃなくて……ただ、そこにいる」
彼はその“ただ”を、すぐ理解した。
「本部は、なんでも“見せる形”にしたがる。成果とか、結論とか、正しさとか。でも、ただそこにあるものが一番強いときもある」
彼女は、花から目を離さずに言った。
「……私は、本部に来てから、自分が遅いと思っていました」
彼はすぐに否定しなかった。否定は、相手の感覚を塗り替える行為だから。
しばらく間を置いて、静かに言う。
「一人でいることと、孤独は違います」
彼女が少しだけ顔を上げる。
「あなたは、一人で立っているだけだ」
その言葉は慰めではなかった。矯正でもなかった。
彼女の現実を、そのまま受け取った言葉だった。
彼女はその瞬間、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
孤独を“直すべき欠陥”として扱われない。
それがどれほど救いになるか、彼女は知らなかった。
交際は、そういうふうに進んだ。
何かを急がせない。何かを飾らない。
会えない日が続いても、説明を求めない。
必要なことだけを言い、必要でないことは沈黙に任せる。
二人の距離は、周囲に気づかれにくかった。
近づきすぎない。だが離れすぎない。
仕事の判断を曇らせない距離のまま、仕事の外でだけ、同じ方向を向く。
それは、恋人らしい甘さではなく、
「信頼を壊さないための恋」だった。




