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5.最初の誓い
廊下に出たところで、アレックスは立ち止まった。
彼女が追いつくのを待っているようで、待っていない。
ただ、その歩幅を、彼女に合わせていた。
「……お疲れさまでした」
彼女が言うと、彼は短く頷いた。
「あなたがいなかったら、これは“問題なし”で終わっていた」
彼女は首を振った。
反射的に、いつもの癖で。
「あなたが、話を聞いてくれたからです」
彼はそこで初めて、ほんのわずかに笑った。
褒められたからではない。
その言葉が、取引でも謙遜でもないと分かったからだ。
終結報告の提出を終えた帰り際。
廊下の蛍光灯が、夜の白さを作っていた。
二人は並んで歩いていたが、距離は近くない。
仕事の空気を壊さない距離。
噂を呼ばない距離。
けれど、置いていかない距離。
アレックスは足を止めた。
彼女の歩幅に、自然に合わせるように。
そして、いつもと同じ抑えた声で言った。
「仕事じゃない場所で、
薔薇の話をしませんか」
彼女はすぐに答えなかった。
“誘い”というものに慣れていなかった。
距離が縮まることに、身体が先に怯える。
だが、彼の目は急かしていなかった。
断っても、関係が壊れないと分かる目だった。
アラクネアは息を吸って、静かに答えた。
「……はい」
その一言で、1989年の春は、
“今”だけでできていた本部の時間の中に、
初めて未来の余白を作った。




