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「薄暗い女は要らない」と婚約破棄された私ですが、豆電球で国を照らしたら『光の聖女』になっていました

作者: さんず

「君のような薄暗い女は必要ない。僕にはもっと華やかな光が相応しい」


王太子エドワードの声が、夜会の広間に響き渡った。


シャンデリアの魔石灯が煌々と輝く中、数百の視線が私に突き刺さる。囁き声。嘲笑。そして——憐れみ。


私は静かに目を伏せた。


(ああ、やっと)


「……仰せのままに、殿下」


(解放される)


震える声を演じながら、私——リリア・フォン・クレセントは内心で小さくガッツポーズをしていた。


五年。長かった。本当に、本当に長かった。


「リリア様、お気の毒に……」

「まあ、地味でしたものね」

「王太子殿下には華やかな方がお似合いですわ」


周囲の令嬢たちの囁きが耳に入る。哀れむふりをした優越感。見慣れた光景だ。


(ええ、ええ、仰る通りですとも。どうぞ存分に憐れんでくださいまし)


私は「悲嘆に暮れる令嬢」の仮面を被ったまま、広間を横切った。背筋は伸ばしたまま。足取りは乱さない。最後まで、王太子の元婚約者として恥ずかしくない振る舞いを。


——いや、違う。


これは私の、私のための退場だ。


「リリア」


エドワードの隣で、黒髪の令嬢が艶やかに微笑んでいた。セレナ・マリス・ヴェルディア。翡翠の瞳が、勝ち誇った光を放っている。


「可哀想なリリア。でも安心して。私が殿下をお支えするわ」


(あなたに何ができるの?)


喉元まで出かかった言葉を、私は温かい紅茶と一緒に飲み込むように押し殺した。


「……ありがとうございます、セレナ様。殿下をよろしくお願いいたします」


深々と一礼する。完璧な角度。完璧な間合い。


セレナの目が一瞬、不満げに細まった。きっと、泣き崩れる私を期待していたのだろう。


残念。私はもう、あなたたちのために涙を流す気はないの。


広間を出て、長い廊下を歩く。


カツン、カツンと、私の靴音だけが響く。月明かりが窓から差し込み、冷たい石畳を青白く照らしていた。


「お嬢様!」


廊下の先で、マリエットが待っていた。そばかすの浮いた丸顔は、怒りで真っ赤になっている。


「あの王太子、なんて言い草ですか! 薄暗いですって!? お嬢様がどれだけ——」


「マリエット」


私は人差し指を唇に当てた。


「声が大きいわ」


「で、でも! お嬢様が夜会のたびにどれだけ根回しして、失言を何度フォローしたと——」


「いいの」


私は——初めて、心からの笑顔を浮かべた。


「帰れるのよ、マリエット。お屋敷に。研究室に」


「……お嬢様」


「明日、すぐに発てるように準備して。父様にも鳥を飛ばして」


月明かりの中、私は空を見上げた。


遠く、領地の方角。貧しい村々では、今夜も人々が暗闇の中で眠りについているはずだ。魔石灯は高価すぎて、庶民には手が届かない。


(待っていて)


胸元に手を当てる。そこには、母の形見の小さなペンダント。中には、母が遺した研究の最後のページが折りたたまれている。


『小さな光を、すべての人に』


母の夢。そして今は、私の夢。


「私はもう、誰かの付属品じゃない」


呟いた言葉は、夜風に溶けて消えた。





その頃、夜会の広間では——


「殿下、明日の謁見の件ですが」


側近の言葉に、エドワードは面倒そうに手を振った。


「ああ、いつものように頼む。資料は……」


言いかけて、止まる。


いつも、謁見の前夜には完璧に整理された資料が執務机に置かれていた。要人の経歴、好み、禁句事項。すべてが簡潔にまとめられた書類。


「資料は、どこだ?」


「は……リリア様がご用意されていたかと」


沈黙。


エドワードの眉が、微かに寄せられた。


「……まあいい。大したことではない」


彼はまだ知らない。


自分がどれほどの光を、手放してしまったのかを。





リリアが去って三日。


王宮は、静かに崩壊し始めていた。


「殿下、ラトキア王国の大使との会談ですが——」


「ああ、分かっている。確か好物は……何だったか」


エドワードは眉間を揉んだ。いつもなら、会談の前に自然と頭に入っていた情報。誰かが耳打ちしてくれていたような気がする。誰だったか。


「リリア様がご存知でした」


「……」


「ラトキア大使は干し葡萄が苦手で、紅茶よりコーヒーを好み、故郷の話題を振ると機嫌が良くなると、リリア様から伺っておりました」


苛立ちが募る。


あの地味な女の名前を、何度聞けばいい?


「大使への手土産は用意できているんだろうな」


「それが……いつもはリリア様が——」


「リリア、リリア、リリア!」


エドワードは拳を机に叩きつけた。インク壺が倒れ、黒い染みが書類に広がっていく。


「あの女がいなくても、僕は——」


「殿下」


扉が開き、セレナが優雅に入ってきた。薔薇色のドレスを纏い、黒髪を艶やかに輝かせている。


「まあ、お取り込み中でしたの?」


「セレナ。いや、大したことじゃない」


エドワードは咄嗟に笑顔を作った。この美しい婚約者の前では、弱みを見せたくなかった。


「少し書類が溜まっていてね」


「あら、それならわたくしがお手伝いしましょうか?」


(そうだ。セレナがいる)


エドワードの顔に、安堵が浮かんだ。華やかで美しい、自分に相応しい婚約者。リリアなど、最初から必要なかったのだ。


「助かるよ。この山を片付けてくれ」


書類の山を示す。外交文書、予算案、陳情書——すべてが乱雑に積み重なっていた。


セレナは一瞬、固まった。


「……これを、ですの?」


「ああ。僕は会談の準備がある」


翡翠の瞳が、困惑に揺れる。完璧な笑顔の下で、彼女は必死に言い訳を探していた。


「わたくし、あの……目が悪くて、細かい字は……」


「なら読み上げよう」


「いえ、その、今日は頭痛が——」


セレナは胸に手を当て、よろめいてみせた。得意の演技。いつもなら、エドワードは駆け寄って心配するところだ。


「……分かった。いい。下がれ」


しかし今日のエドワードには、その余裕がなかった。


セレナの顔から、血の気が引いた。


「で、殿下?」


「会談の準備をしなければならない。明日までに書類も整理して——」


言いながら、エドワードは気づいた。


書類の整理の仕方を、自分は知らない。


いつも、朝には綺麗に片付いていた。優先順位順に並べられ、重要箇所には付箋が貼られ、要約が添えられていた。まるで魔法のように。


(誰が)


答えは、もう分かっていた。





ラトキア大使との会談は、惨憺たる結果に終わった。


「干し葡萄のタルトですと? ラトキア王国では干し葡萄は不吉の象徴! 我が国を侮辱なさるおつもりか!」


大使の怒声が広間に響き渡り、エドワードの顔は青ざめた。


誰かが、手土産に干し葡萄のタルトを用意していた。以前は絶対に起こり得なかったミス。


「お待ちください、大使。これは手違いで——」


「言い訳は結構。我が国は、今後の通商条約について再考させていただく」


重い扉が閉まる音。


エドワードは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。





クレセント領、侯爵邸の地下研究室。


「……っ、ダメ。また失敗」


私は煤けた顔を上げ、目の前の試作品を睨みつけた。


小さな硝子球の中で、淡い光が明滅している。一瞬だけ輝いて、すぐに消える。何度やっても同じ結果だった。


「お嬢様、お顔が真っ黒ですよ」


マリエットが濡れた布を差し出してくれる。私は受け取って、適当に顔を拭いた。


「魔力を蓄える器は作れるのに、放出が安定しない。何かが足りないの」


研究机の上には、母の遺したノートが広げてある。もう何百回読み返したか分からない。黄ばんだページ、褪せたインク。でも、書かれた理論は色褪せていなかった。


『魔力の器には、導き手が必要。光は、行き先を知らなければ彷徨う』


「導き手……」


呟きながら、ペンダントを握りしめる。


母——エリアナ・フォン・クレセント。彼女もまた、『豆電球』と呼ばれた女性だった。


「リリア」


研究室の扉が開き、父が顔を出した。蜂蜜色の髪には白いものが混じり、穏やかな目元には疲労の影がある。


「また徹夜かい?」


「父様。すみません、もう少しで——」


「いいんだ」


父は静かに部屋に入ってきた。研究机の隣の椅子に腰を下ろし、母のノートをそっと撫でる。


「母さんもよくこうしていた。私が寝ろと言っても聞かなくてね」


「……お母様のこと、もっと聞かせてください」


私は手を止めた。父が母の話をすることは、滅多にない。思い出すのが辛いのだと思っていた。


「お母様も、この研究を?」


「ああ」


父は遠い目をした。


「エリアナは子爵家の三女だった。美しかったが、姉たちほど華やかではなくてね。社交界では『地味な令嬢』と言われていた」


私は黙って耳を傾けた。


「でも私には、彼女が誰よりも眩しく見えた。夜会で疲れた私に、そっと水を差し出してくれた手。迷子の子供を見つけて、泣かせないように優しく話しかける姿。派手さはなくても、確実に周囲を照らす——」


「豆電球」


私は呟いた。父が頷く。


「彼女自身がそう言っていたよ。『私は太陽にはなれない。でも、豆電球でいい。小さな光でも、誰かの足元を照らせるなら』」


胸が、締め付けられるように痛んだ。


「お母様は、どうしてこの研究を?」


「貧しい村を訪れた時だ」


父は窓の外を見た。月明かりが、研究室を青白く照らしている。


「子供たちが暗闇の中で怯えているのを見て、彼女は泣いたんだ。『魔石灯がもっと安ければ。小さな魔力で光る照明があれば。この子たちも、夜を怖がらなくていいのに』」


「……」


「研究は順調だった。でも、お前を産んだ後、体を壊してね」


父の声が、微かに震えた。


「最期まで、このノートを離さなかった。『リリアに渡して』と。『私の光を、あの子に託す』と」


涙が、頬を伝った。


私は知らなかった。母の想いの深さを。この研究が、どれほどの愛から生まれたものかを。


「父様」


私は立ち上がり、母のノートを胸に抱いた。


「私、必ず完成させます。お母様の夢を」


「ああ」


父は微笑んだ。涙を拭おうともせずに。


「お前は母さんに似て、強い子だ」





翌朝。


私は新しい視点でノートを読み返していた。


『光は、行き先を知らなければ彷徨う』


「行き先……導き手……」


呟きながら、ふと窓の外を見た。


朝日が昇ってくる。光は真っ直ぐに、地上へと——


「……そうか」


私は息を呑んだ。


「反射体。光を導く反射面が必要なんだ」


手が震えた。母のノートの最後のページを開く。そこには、不完全な図面が描かれていた。硝子球の中に、小さな皿のようなもの——


「お母様は、気づいていた……!」


私は研究机に飛びつき、新しい設計図を引き始めた。


徹夜明けの疲労など、どこかに消えていた。



そして、その三日後——


「……点いた」


小さな硝子球が、穏やかな光を放った。


明滅しない。揺れない。私の手のひらの上で、確かに、優しく輝いている。


「点いた……!」


私は笑った。泣きながら、笑った。


「お嬢様! 成功したんですか!?」


マリエットが駆け寄ってきた。私は光る硝子球を掲げて見せた。


「これが、豆電球。小さな魔力で、一晩中光り続ける照明器具」


涙が止まらなかった。


「お母様、見てますか。やっと——やっと、完成しましたよ」


窓の外では、朝日が昇っていた。


新しい光が、この国に生まれた瞬間だった。





「お嬢様、お客様です」


マリエットの声に、私は研究室から顔を上げた。


「お客様? アポイントメントは入っていないはず——」


「隣国ノルドシュテルン公国の、アレン様とおっしゃる方が」


私の手が止まった。


ノルドシュテルン公国。北の隣国。資源に乏しく、常に新しい技術を求めている国。


(なぜ、ここに?)


私は煤けたエプロンを外し、髪を整えた。応接室に向かいながら、頭の中で可能性を探る。


応接室の扉を開けた瞬間、私は息を呑んだ。


銀灰色の髪。氷のように透き通った青い瞳。長身で引き締まった体躯。そして——何かを値踏みするような、冷たい視線。


(これが、ノルドシュテルンの『氷の公爵子息』)


「お初にお目にかかります、アレン様。私はリリア・フォン・クレセント——」


「知っている」


彼は私の挨拶を遮った。無礼だが、不思議と嫌な感じはしなかった。単に、無駄を省いているだけという印象。


「王太子に捨てられた元婚約者。没落しかけた侯爵家の令嬢。そして——」


青い瞳が、鋭く光った。


「小さな魔力で長時間光る照明器具を開発した、研究者」


心臓が跳ねた。


「……どこでその情報を?」


「調べた」


彼は淡々と言った。


「興味があった。君の技術に」


(技術に、ね)


私は内心で苦笑した。予想通りだ。この男が興味を持っているのは豆電球であって、私ではない。


「それで、何の御用でしょうか」


「技術提携を申し込みたい」


単刀直入。回りくどい社交辞令は一切なし。


「我が国には資源がない。魔石も少ない。だが、君の技術があれば——」


「お断りします」


私も単刀直入に返した。


彼の眉が、微かに動いた。驚いているのだろう。拒絶されることに慣れていないのかもしれない。


「理由を聞いても?」


「私の技術は、まずこの国の民のために使いたいのです。他国への技術流出は、今は考えていません」


「ふむ」


彼は顎に手を当てた。考え込むような仕草。


「では、条件を変えよう。技術提携ではなく、研究支援」


「……支援?」


「資金と設備を提供する。見返りは、研究の成果が出た後に改めて交渉する」


私は目を見張った。


「それでは、あなたに何の利益が——」


「利益は後でいい」


彼は私を真っ直ぐに見た。冷たいはずの青い瞳の奥で、何かが揺れた気がした。


「俺は、効率を重視する人間だ」


「……はい」


「だが同時に、投資も理解している。君の技術は、将来必ず価値を持つ。今のうちに関係を築いておくことは、長期的に見れば合理的だ」


(合理的、ね)


私は小さく息をついた。


「……お申し出は、ありがたく受けます」


彼の目が、微かに緩んだ。笑ったわけではない。ただ、険が取れたような——


「では、明日から研究室を見せてもらう」


「明日!? そんな急に——」


「効率を重視する人間だと言っただろう」


彼は立ち上がった。私より頭一つ分高い。


「アレン・ヴァン・ノルドシュテルン。改めて、よろしく頼む」


差し出された手。大きくて、冷たそうで——でも、不思議と温かみを感じた。


「……リリア・フォン・クレセントです」


私は、その手を取った。





彼が去った後、マリエットが興奮気味に駆け寄ってきた。


「お嬢様! あの方、ものすごい美形でしたね!」


「……そうね」


「しかも、お嬢様の研究を支援してくださるなんて! これは運命的な出会いでは——」


「マリエット」


私は窓の外を見た。彼の馬車が遠ざかっていく。


「あの人は、私の技術に興味があるだけよ。私自身には、興味がない」


「そう……でしょうか」


マリエットは首を傾げた。


「なんだか、お嬢様のことをすごく見ていた気がしましたけど」


「気のせいよ」


私は苦笑した。


(また、同じ轍は踏まない)


王太子に期待して、裏切られた。もう二度と、誰かに期待しない。


豆電球を、完成させる。この国の民を、照らす。それだけでいい。





「これが、豆電球……」


領地の端にある小さな村。貧しい農村の集会所で、子供たちが目を輝かせていた。


私は跪き、彼らの目線に合わせた。


「ここを押すと、点くの。やってみて」


恐る恐る、小さな指が硝子球に触れる。


ふわり、と。


温かな光が、暗い部屋を照らした。


「うわあっ!」


子供たちから歓声が上がった。押し合いへし合い、光を覗き込む。


「すごいすごい! 魔法みたい!」


「夜でも明るい!」


「ねえねえ、これでお勉強できる?」


「できるわ。毎晩、好きなだけ」


私は微笑んだ。胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「リリア様、ありがとうございます……!」


村長が深々と頭を下げた。日に焼けた顔に、涙が光っている。


「この村では、夜は恐ろしいものでした。魔石灯など、夢のまた夢。子供たちは日が沈めば何もできず、冬の長い夜をじっと耐えるしかなかった」


「もう大丈夫です」


私は村長の手を取った。


「この豆電球は、小さな魔力で一晩中光ります。魔力がなくても、昼間に太陽の光を当てておけば——」


「太陽でも蓄えられるんですか!?」


「ええ。改良を重ねて、やっと実現しました」


村長は絶句した。


魔石灯は、魔力を持つ者しか点けられない。魔力を持たない庶民には、文字通り「手が届かない」光だった。


でも、豆電球は違う。


太陽の光を蓄え、夜に放出する。誰でも使える。どんな人でも。


「これは……革命ですじゃ……!」





「予想以上の反響だな」


帰りの馬車の中。隣に座るアレンが呟いた。


彼はこの一ヶ月、毎日のように研究室に通っていた。視察と称して。


(視察ねぇ)


私は内心で苦笑した。視察にしては、やたらと差し入れが多い。今日も馬車の中には、上等な茶葉の詰め合わせが積まれている。


「ええ。でも、まだ始まったばかりです」


「量産体制は?」


「トーマスが職人を集めてくれています。来月には、領内全村に配布できるかと」


アレンは頷いた。


「効率的だ」


(また効率)


私は窓の外を見た。夕暮れの空が、茜色に染まっている。


「アレン様は、効率という言葉がお好きですね」


「無駄が嫌いなだけだ」


「では、今日の視察は無駄でしたか?」


皮肉を込めて言った。実際、今日の彼は視察らしいことは何もしていない。子供たちに囲まれる私を、少し離れたところから見ていただけだ。


「……いや」


彼の声が、わずかに低くなった。


「無駄ではなかった」


「そうですか」


「ああ」


沈黙が流れた。


馬車の中は薄暗く、彼の表情はよく見えない。でも、なんとなく——視線を感じた。


「リリア」


「はい」


「君は、自分を豆電球だと言ったな」


唐突な言葉に、私は振り返った。


「ええ。以前、そうお話ししましたね」


「派手さはないが、確実に周囲を照らす。そう言っていた」


「……覚えていらっしゃるんですね」


「忘れるわけがない」


彼の声は、いつもより少し熱を帯びていた。


「君は間違っている」


「え?」


「今日、村で見た。子供たちが君を見る目。村人たちの涙。あれは——」


馬車が揺れた。一瞬、私たちの距離が縮まる。


青い瞳が、すぐ近くにあった。


「君は豆電球なんかじゃない」


「アレン様——」


「俺には……」


彼は言葉を切った。まるで、自分でも信じられないというように。


「俺には、太陽より眩しい」


心臓が、大きく跳ねた。


「……何を、おっしゃって」


「分からない」


彼は顔を背けた。窓の外を見る横顔が、夕日に照らされている。


「分からないんだ、自分でも。なぜか君がいないと、夜が長く感じる。君の研究を見ていると、時間を忘れる。君が他の男と話していると——」


言葉が途切れた。


私は、彼の横顔を見つめていた。氷の公爵子息。感情を見せない男。それが今、こんなにも——


「効率を重視する人間のはずだった」


彼は苦笑した。初めて見る表情だった。


「君に関してだけ、俺は効率的でいられない」



馬車は、夕暮れの中を走り続けた。


私は何も言えなかった。


心臓の音がうるさくて、言葉を紡げなかった。





クレセント邸に戻ると、マリエットが血相を変えて駆け寄ってきた。


「お嬢様! 大変です!」


「どうしたの」


「王宮から、使者が——」


私の背後で、アレンの気配が鋭くなった。


応接室に通されると、見覚えのある侍従が立っていた。王太子の側近だ。


「リリア・フォン・クレセント嬢。王太子殿下より、召喚状でございます」


差し出された封筒には、王家の紋章が刻印されていた。


「殿下は、婚約破棄の件について再考なさりたいと——」


「お断りします」


私は封筒を受け取らなかった。


「リリア様、これは王太子殿下からの——」


「聞こえませんでしたか? お断りします」


侍従の顔が、驚愕に歪んだ。


背後で、アレンが低く笑った気がした。





王宮、執務室。


「断っただと……?」


エドワードは、信じられないものを見るように使者を見つめた。


「は、はい。リリア様は『お断りします』と——」


「馬鹿な! 僕が呼んでいるんだぞ!」


インク壺が床に叩きつけられた。黒い染みが、高価な絨毯に広がっていく。


「あの女は、僕を何だと思っている!」


「殿下、お気を——」


「黙れ!」


側近たちが、息を呑んで後退した。王太子の癇癪は、日増しに酷くなっている。


リリアがいなくなってから、二ヶ月。


外交は停滞し、書類は山積み、夜会では失言を繰り返し、いくつもの有力貴族の不興を買った。すべて、リリアがいれば防げたはずの失敗だった。


「殿下」


おずおずと、新たな報告が入った。


「リリア様の……その、発明品についてですが」


「発明? あの女が何を——」


「『豆電球』と呼ばれる、新しい照明器具だそうです。小さな魔力で一晩中光り、庶民でも使える安価なもので……」


側近は、恐る恐る報告書を差し出した。


「現在、クレセント領から周辺領地に急速に普及しており、民からは『光の聖女』と呼ばれているとか」


「光の……聖女……」


エドワードの顔から、血の気が引いた。


あの地味な女が。薄暗いと言われた女が。聖女?


「嘘だ」


「殿下——」


「嘘に決まっている! あんな女に、そんなことができるわけがない!」


叫びながら、しかしエドワードは気づいていた。


今まで、リリアが何をしていたか——自分は何も知らなかった。





数日後、私の元にまた使者が訪れた。


今度は、王自らの署名入りの書状だった。


「……王陛下から?」


「ああ。豆電球について、直接話を聞きたいと」


アレンが説明する。


王太子ではなく、国王から。これは、無視できない。


「……分かりました。応対します」


私は立ち上がった。


「アレン様、ご一緒いただけますか?」


「当然だ」


彼は迷いなく頷いた。


「君を一人で行かせるわけがない」





応接室に入ると、王家の紋章入りの正装を纏った使者が待っていた。しかし、その隣に——


「久しぶりだな、リリア」


エドワードが、立っていた。


私は足を止めた。


二ヶ月ぶりに見る元婚約者は、やつれていた。金髪碧眼の華やかさは変わらないが、目の下に隈があり、頬の肉が落ちている。


「……殿下。いらっしゃるとは聞いておりませんでしたが」


「父上の使者に紛れ込んだ。どうしても、君と話がしたくてね」


彼は一歩近づいた。アレンが、すかさず私の前に出る。


「これ以上近づくな」


「なんだ、貴様は。ノルドシュテルンの——」


「リリアの研究支援者だ。そして、彼女の……」


アレンは言葉を切った。私を振り返る。青い瞳が、何かを問いかけていた。


「……知人です」


私は言った。今は、それ以上は言えなかった。


アレンの目が、一瞬だけ傷ついたように見えた。でも、すぐにいつもの無表情に戻る。


「とにかく、話を聞こう」


エドワードは、私を見つめた。かつてとは違う目で。


「リリア。僕は……間違っていた」


「……」


「君を『薄暗い』と言ったことも。婚約を破棄したことも。全部、間違いだった」


彼は膝をついた。王太子が、跪いている。


「戻ってきてくれ、リリア。君がいないと、僕は——」


「殿下」


私は、穏やかに微笑んだ。


「私を必要としてくださり、光栄です」


「なら——!」


「でも、お断りします」


彼の顔が、凍りついた。


「殿下。私はもう、あなただけを照らす豆電球ではありません」


窓の外を見た。村々に灯る、小さな光たち。私が作った光たち。


「この国全体を、自分の光で照らすと決めたのです」


「リリア、待て——」


「お引き取りください、殿下」


私は背を向けた。


「あなたの隣は、暗すぎて。私の光では、照らしきれません」



振り返らなかった。


もう二度と、振り返らないと決めていた。





その夜、工房が燃えた。


「お嬢様! 大変です!」


マリエットの悲鳴で目が覚めた。窓の外が、赤く染まっている。


「工房が……工房が燃えています!」


私は裸足のまま駆け出した。


研究資料。試作品。母のノート——すべてが、あそこにある。


「リリア!」


アレンの声が聞こえた。彼は客室から飛び出してきて、私の腕を掴んだ。


「行くな。危険だ」


「でも、お母様のノートが——」


「俺が取りに行く。君はここにいろ」


「アレン様!」


彼は私の言葉を振り切って、炎の中に飛び込んでいった。





燃え盛る工房の前で、一人の女が笑っていた。


セレナ・マリス・ヴェルディア。


「ふふ、燃えているわ。あの女の研究も、名声も、全部——」


翡翠の瞳が、狂気に染まっていた。


彼女はこの二ヶ月、追い詰められていた。エドワードからは責められ、社交界では「無能」と囁かれ、リリアの名声は日増しに高まる。


「私の方が、美しいのに」


呟きながら、炎を見つめる。


「私の方が、殿下に相応しいのに。なのに——なのになぜ、あの地味な女ばかり!」


「セレナ様」


背後から、声がした。


振り返ると——村人たちが立っていた。


一人、二人ではない。数十人。いや、百人以上。


そして、彼らの手には——


「豆電球……」


セレナは息を呑んだ。


小さな光が、闇の中に点々と灯っている。リリアの豆電球。暗闇を照らす、優しい光。


「お前……お前たちが、なぜここに」


「リリア様の工房が燃えていると聞いたから」


一人の男が進み出た。トーマスだった。日に焼けた顔が、怒りに歪んでいる。


「リリア様は、俺たちに光をくれた。夜でも働ける。子供たちが本を読める。あの方のおかげだ」


「だから……だから何だというの!」


「あの方を傷つける奴は、俺たちが許さねえ」


村人たちが、一歩前に出た。豆電球の光が、セレナを照らす。


逃げ場はなかった。





炎の中から、アレンが戻ってきた。


煤で汚れ、腕には火傷を負いながら——しかし、その手には母のノートが抱えられていた。


「アレン様!」


私は駆け寄った。彼は崩れるように膝をついた。


「……これだろう。君の、大切なもの」


「お怪我を——」


「大したことはない」


彼は笑った。煤だらけの顔で、不器用に。


「君が泣くところは、見たくなかった」


胸が、張り裂けそうに痛かった。


「どうして……どうして、ここまで」


「言っただろう」


彼は私を見上げた。氷のような青い瞳が、今は炎を映して揺れている。


「君に関してだけ、俺は効率的でいられない」





セレナは、その場で取り押さえられた。


村人たちの証言により、放火の犯行は明らかだった。彼女は錯乱状態で叫び続けていた。


「私は悪くない! あの女が——あの女がすべて悪いのよ!」


翌日、この事件は王都中に知れ渡った。


王太子の婚約者が、『光の聖女』の工房に放火。民衆に取り押さえられ、その場で犯行を自白。


セレナ・マリス・ヴェルディアは、その日のうちに社交界から追放された。実家のヴェルディア伯爵家も連座で爵位を剥奪され、領地を没収された。


そして——


「王太子エドワードは、弟君への王位継承権譲渡を発表されました」


マリエットが、震える声で報告した。


「婚約者の監督不行き届き、そして過去の失政への責任を取る形で——」


私は黙って頷いた。


因果応報。エドワードは、自分の選択の代償を払ったのだ。


「お嬢様は、どう思われますか」


「……可哀想だとは、思わないわ」


私は窓の外を見た。焼け落ちた工房の跡地では、村人たちが瓦礫を片付けている。


「でも、恨んでもいない。もう、関係のない人だから」





三日後、アレンが私の部屋を訪れた。


火傷の手当てを終え、包帯を巻いた姿。それでも、いつもと変わらない無表情で——いや、少しだけ、緊張しているように見えた。


「話がある」


「……はい」


「俺は、君に嘘をついていた」


私は首を傾げた。


「最初、君に近づいたのは技術目当てだった。それは本当だ」


「ええ、知っています」


「だが……」


彼は言葉を切った。何度か口を開きかけ、閉じる。


「今は、違う」


「……」


「君の技術が欲しいんじゃない。君自身が——」


彼は私の手を取った。包帯の巻かれた手。母のノートを守るために、火傷を負った手。


「リリア。俺と結婚してくれ」


心臓が、止まった気がした。


「君がいないと、俺は夜が怖い。君のいない朝を迎えたくない。君の笑顔を、俺だけに向けてほしい」


青い瞳が、真っ直ぐに私を見ている。


「効率なんかどうでもいい。合理性もどうでもいい。ただ、君がほしい」


私は——


「ありがとうございます、アレン様」


微笑んだ。


「私を選んでくれて、嬉しい」


「なら——」


「でも、今は答えられません」


彼の顔が、一瞬固まった。


「五年間、私は誰かの『付属品』だった。王太子の婚約者という肩書きで、自分を定義していた」


私は彼の手を、そっと握り返した。


「今度は、自分で選びたいの。誰かに選ばれるんじゃなくて、私が選ぶ」


「……」


「一年、待ってくれますか」


彼は、長い沈黙の後——笑った。


「待つ」


「え?」


「一年でも、十年でも。君が選んでくれるまで、待つ」


彼は私の手を唇に当てた。


「俺は効率を重視する人間だ。だが、君に関してだけは——何年でも、非効率に待てる」



窓の外では、村人たちが新しい工房の建設を始めていた。


小さな光が、夜を照らしている。


私の光が、この国を照らしている。





一年後、春。


新しい工房の窓から、満開の桜が見える。


「お嬢様、準備はできましたか?」


マリエットの声に、私は鏡から視線を外した。


蜂蜜色の髪は、今日は三つ編みではない。緩やかに巻いて、半分だけ上げている。母の形見のペンダントが、胸元で光っていた。


「ええ、行きましょう」


「お嬢様、綺麗です……!」


マリエットは涙ぐんでいた。


「お母様も、きっとお喜びになっています」


「……ありがとう、マリエット」





領地の広場には、人々が集まっていた。


村人たち。職人たち。子供たち。そして——


「リリア」


銀灰色の髪が、春風に揺れていた。


アレンは、この一年間待っていてくれた。約束通り、一度も催促することなく。


でも、毎日のように差し入れを届けてくれた。研究が行き詰まれば黙って隣に座り、疲れた夜には温かい紅茶を淹れてくれた。


言葉は少ないまま。でも、行動で示し続けてくれた。


「約束の一年が、経ちました」


私は彼の前に立った。


「アレン様。お返事をします」


広場が、静まり返った。


「私は、自分で選ぶと言いました」


「ああ」


「誰かに選ばれるのではなく、自分の意志で」


「覚えている」


私は、深く息を吸った。


「私は——あなたを選びます」


彼の目が、見開かれた。


「アレン・ヴァン・ノルドシュテルン。私の人生のパートナーとして、あなたを選びます」


「……リリア」


「効率的じゃなくていい。合理的じゃなくていい。ただ、あなたの隣にいたい」


彼は、一歩前に出た。私の頬に手を添える。


「一年、長かった」


「すみません」


「いや」


彼は笑った。初めて見る、心からの笑顔。


「待った甲斐があった」





村人たちから歓声が上がった。子供たちが駆け寄ってきて、私たちを囲む。


「リリア様、おめでとうございます!」


「アレン様もおめでとう!」


「結婚式はいつですか!?」


賑やかな声の中で、私は父の姿を探した。


少し離れたところで、彼は静かに立っていた。その隣には——


「父様、それは……」


父が手にしているのは、母の肖像画だった。


「エリアナにも、見せてやりたくてね」


父の目には、涙が光っていた。


「お前は、母さんの夢を叶えた。そして今、自分の幸せも掴もうとしている」


「……父様」


「母さんは、きっと喜んでいるよ」


私は、肖像画の母を見つめた。穏やかな微笑み。私によく似た、灰みがかった琥珀色の瞳。


「お母様」


呟いた。


「私、幸せになります」


風が吹いた。桜の花びらが、舞い散る。


まるで、母が祝福してくれているようだった。





夜、工房のバルコニーに出ると、アレンが待っていた。


「眠れないのか」


「少し、興奮して」


私は彼の隣に立った。眼下には、領地の村々が広がっている。


無数の小さな光が、闇の中に点々と輝いていた。


豆電球の光。私が作った光。この国を照らす、小さくて温かな光。


「綺麗だな」


アレンが呟いた。


「ああ。本当に」


「君のおかげだ」


「いいえ」


私は首を振った。


「お母様のおかげ。父様のおかげ。マリエットや、トーマスや、村の人たちのおかげ。そして——」


彼を見上げた。


「あなたのおかげ、です」


「俺は、何も——」


「いいえ。あなたが支えてくれたから、私は前を向けた」


彼の手を取った。火傷の痕が残る手。私のために傷ついた手。


「ありがとう、アレン」


「……リリア」


彼は私を抱き寄せた。初めて、名前を呼び捨てにした。


「俺こそ、ありがとう」


「え?」


「君が、俺を選んでくれた。それだけで、俺は——」


言葉が途切れた。


代わりに、唇が重なった。



月明かりの下で、二人の影が一つになる。


無数の豆電球の光が、二人を祝福するように瞬いていた。





私は——もう、誰かの付属品じゃない。


自分の光で、自分の道を、自分で選んで生きていく。



小さな豆電球は、今日も世界のどこかを照らしている。


暗闇の中で怯える子供たちを。夜通し働く職人たちを。本を読みたい少女たちを。


派手じゃなくていい。眩しくなくていい。


ただ、誰かの足元を照らせるなら——それでいい。



お母様、見ていますか。


私は今、とても幸せです。

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― 新着の感想 ―
素敵なお話でした。ただ、「豆電球」の言葉だけ違和感を感じます。電気を使わないなら「豆灯り」くらいがいいと思います。....電気は無いのですよね....もしあるのでしたらごめんなさい。
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