幸福
幸福とは固定された量ではなく、フラックスである。
私たちはつい、幸福を「どれほど溜まっているか」というストックの概念で測ろうとする。あたかも身体というバケツの中に幸福がどれほど蓄積しているかで、その人の幸福度が決まるかのように。しかし、幸福をそうした静的な量ではなく、単位時間あたりに身体を通過する“流れ”として捉えることもできるはずだ。ホースを流れる水のように、ある断面を「一日」という時間に置き換え、その日を通して幸福がどれほど私を通り抜けたか、あるいは不幸がどれほど損なっていったか。これが幸福のフラックスである。
このとき重要なのは、フラックスには正と負の両方向があるということだ。幸福が身体を貫くとき、フラックスは正に振れる。不幸が身体を削り取るとき、フラックスは負に振れる。幸福は蓄えられず、ただ貫く。あるいは不幸に侵食される。ただそれだけだ。そこに「保持」はない。
だから、一般に「あの人は不幸だ」と言われるとき、しばしばその人の「幸福の総貯蔵量」を他人と比較しているが、果たしてそれは正しいのだろうか。幸福がストックであると仮定するから、そのような比較が可能に見えるだけであって、もし幸福がフラックスなら比較の基準そのものが完全に揺らぐ。
幸福が蓄積されて100ある人が「私は不幸だ」と嘆くことも可能であるし、蓄積値が–100であってもある種の幸福に満たされることは不可能ではない。幸福は保持されるとすぐに劣化し、揮発し、形を失う。幸福が蓄積できないのは、幸福とは“時間の中でのみ実体をもつ現象”であり、時間を離れて保存できるような物質ではないからだ。
保持しようとした瞬間、それはすでに別のものへと変質してしまう。幸福は「所有」された途端に、幸福ではなくなる。だから私たちは、幸福と向き合うとき、いったん蓄積値をゼロとして扱わざるをえない。
さらに言えば、自分が日本に生まれたことを幸運として語れるのは、暗黙のうちに「他の国の人々は自分より不幸である」というストック的な幻想を前提にしている。しかし幸福をフラックスとして捉えるなら、そんな比較は成立しない。幸福とは流れであって貯蔵量ではない以上、その真偽は原理的に測りえないのだ。
現代人が物質的には豊かであるにもかかわらず、精神的な豊かさを実感しにくいのは、まさに幸福がフラックスだからだろう。ストックは増えているように見えても、流量そのものは増えていない、むしろ減っている。SNSによって自分より“優れた”他者は過剰に可視化され、自分より“劣った”他者は可視化されにくい。その結果、幸福フラックスが正に向かう余地は細り、負へと落ち込む可能性ばかりが肥大している。一見すると幸福の分散が増大したように見えるが、実際には正方向が痩せ細り、負方向だけが異様に引き延ばされた、偏った振れ幅の世界へと変わってしまったのである。
また現代は物質的に飽和しているため、社会全体の成長とともに幸福フラックスが正に振れ続ける、という状況がほとんどない。幸福は持続するほどに希薄化するため、豊かさが増すほど“流れない幸福”が増える。異常に増えた余暇は幸福を蓄積させないどころか、不幸の侵食を受けやすい時間を長くする可能性さえある。
幸福は時間と非常に相性が悪く、不幸は時間とよく結びつく。幸福はどれほど豊かでも留まらず、通り抜けていく。不幸はどれほど小さくとも沈殿し、跡を残す。私たちが幸福を積分し、不幸を微分できればどれほど良いだろう。しかし、それは不可能なのだ。もし可能であればそれはユートピアなのかもしれないが、あまりにも不気味な世界でもあるだろう。幸福の構造そのものが変質し、分散の少ない、現代的に均質化された幸福へと収束してしまうからだ。




