表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

プロローグ

六月の雨は、まるで空が泣いているかのように街を濡らしていた。

 放課後の校門前、傘を持たずに立ち尽くす少女の姿を、僕は初めて見た。


 長い黒髪が水に濡れて背に張り付き、制服のスカートの裾からは雫が滴っている。

 彼女の眼差しは、ただ真っ直ぐに空を睨みつけていた。憂いでも、怒りでもない。どこか、自分を見失った人間の目だ。


 その姿が、なぜか僕の心を強烈に揺さぶった。

 胸の奥が、ざわざわと音を立て始める。

 名前も知らないその少女に、僕は声をかけずにはいられなかった。


「……傘、入る?」


 少女は僕を見た。驚きも警戒もない。むしろ、空気の抜けた人形のような無表情だった。

 ただ一言。


「要らない」


 それだけ言い残し、彼女は雨の中を歩き出した。

 びしょ濡れのまま、まるでどこかへ消えてしまうかのように。


 その瞬間、僕は確信した。

 ――この子は、普通じゃない。

 そして、放っておいたら取り返しのつかないことが起きる。


 理由はわからない。だが、そう感じた。


 だから僕は、気づけば走り出していた。

 彼女を追いかけるために。



 名前を知ったのは翌日のことだった。

 彼女は「水沢瑠璃」という。クラスは隣。成績は優秀だが、友人らしい友人はいない。

 それどころか、彼女を話題にする声にはいつも不可解な噂が混じっていた。


「瑠璃って、知ってる? あの子、前の学校で……」


「人、殺したって話、聞いた?」


 昼休み、そんな囁きが耳に入った。

 あり得ない、と笑い飛ばすことはできなかった。昨日のあの瞳が、妙に現実味を帯びて噂を補強してしまう。


 僕はそれでも、彼女に近づこうと思った。

 なぜなら、心のどこかで気づいていたのだ。――彼女を理解できるのは、自分しかいないと。



「……つけてきてるよね」


 放課後、瑠璃は唐突に振り返った。

 人気のない旧校舎の廊下。僕が毎日のように後をつけていたことに、とうとう気づかれたのだ。


 心臓が跳ね上がる。

 だが瑠璃は怒鳴りもしなければ逃げもしなかった。代わりに、静かに問いかけてきた。


「どうして?」


「どうしてって……君が、気になるから」


 正直に答えると、瑠璃はふっと笑った。

 その笑顔は、なぜか痛々しく見えた。


「私に関わらない方がいい。後悔するから」


「それでも関わりたい。僕は、君のことを知りたいんだ」


 その言葉が口から零れ落ちた瞬間、彼女の瞳が揺れた。

 まるで氷の下に隠された水が一瞬だけ顔を出したかのように。


 だが瑠璃は、すぐに背を向けた。

 その細い背中を追うように、僕は歩き出した。



 やがて僕は知ることになる。

 ――彼女の「秘密」を。


 瑠璃の家は、町外れの古い洋館のような屋敷だった。

 そこで僕が目にしたのは、壁一面に貼られた無数の新聞記事。


 「高校生自殺」「転落死の謎」「少女の影」――。

 すべての見出しに共通していたのは、ある一つの名前。


 水沢瑠璃。


 彼女の過去には、不可解な死がまとわりついていた。

 そしてその中心には、いつも彼女自身がいる。


 僕は背筋が凍った。

 だが同時に、彼女が抱える孤独の深さを理解した気がした。


「やっぱり、君は――」


 振り返った瑠璃が、僕を遮った。

 その目には涙が浮かんでいた。


「近づかないで。私に関わったら、君も死ぬ」



 それでも僕は諦めなかった。

 理由は単純だった。彼女に惹かれていたからだ。恐怖よりも、その想いの方が強かった。


 僕は瑠璃の傍に居続けた。

 雨の日も、晴れの日も。彼女の影を追い続け、少しずつ心を開かせた。


 やがて、瑠璃の口から真実が語られた。


「私……人を殺したの」


 その言葉は、空気を凍らせた。

 だが、僕は逃げなかった。


「……それでも、君を好きになってしまった」


 そう告げた瞬間、瑠璃は崩れ落ちるように泣いた。

 それは、彼女が初めて見せた弱さだった。



 僕たちは秘密を共有し、少しずつ距離を縮めた。

 互いの孤独を埋め合うように。

 だが同時に、彼女の過去は僕の周囲にも影を落とし始める。


 僕の机に差出人不明の手紙が置かれていた。


 ――「彼女に近づくな。次はお前が死ぬ番だ」


 背筋を走る冷たいもの。

 それでも僕は決意を固めた。


 瑠璃を守る。

 どんな過去があっても、彼女を愛する。


 その決意が、やがて取り返しのつかない結末を呼ぶことも知らずに――。



 夏祭りの夜。

 浴衣姿の瑠璃は、どこか不安そうに僕の手を握っていた。


「もし、また誰かが死んだら……」


「そのときは僕が一緒に罪を背負うよ」


 言葉に偽りはなかった。

 だが次の瞬間、花火の音をかき消すように悲鳴が上がった。


 振り向けば、人混みの中で誰かが血を流して倒れていた。

 人々がざわめく。指差す先に、浮かび上がる一つの名前。


「水沢……瑠璃だ!」


 その声が広がった瞬間、彼女の手が僕の指から離れた。

 瑠璃は、まるで罪を背負うかのように闇の中へ駆け出した。


 僕は叫ぶ。


「待て! 瑠璃――!」


 だが夜の闇は、彼女を容赦なく飲み込んだ。


 僕の心に残ったのはただ一つ。

 あのとき確かに繋いでいた温もりの記憶だけだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ