プロローグ
六月の雨は、まるで空が泣いているかのように街を濡らしていた。
放課後の校門前、傘を持たずに立ち尽くす少女の姿を、僕は初めて見た。
長い黒髪が水に濡れて背に張り付き、制服のスカートの裾からは雫が滴っている。
彼女の眼差しは、ただ真っ直ぐに空を睨みつけていた。憂いでも、怒りでもない。どこか、自分を見失った人間の目だ。
その姿が、なぜか僕の心を強烈に揺さぶった。
胸の奥が、ざわざわと音を立て始める。
名前も知らないその少女に、僕は声をかけずにはいられなかった。
「……傘、入る?」
少女は僕を見た。驚きも警戒もない。むしろ、空気の抜けた人形のような無表情だった。
ただ一言。
「要らない」
それだけ言い残し、彼女は雨の中を歩き出した。
びしょ濡れのまま、まるでどこかへ消えてしまうかのように。
その瞬間、僕は確信した。
――この子は、普通じゃない。
そして、放っておいたら取り返しのつかないことが起きる。
理由はわからない。だが、そう感じた。
だから僕は、気づけば走り出していた。
彼女を追いかけるために。
二
名前を知ったのは翌日のことだった。
彼女は「水沢瑠璃」という。クラスは隣。成績は優秀だが、友人らしい友人はいない。
それどころか、彼女を話題にする声にはいつも不可解な噂が混じっていた。
「瑠璃って、知ってる? あの子、前の学校で……」
「人、殺したって話、聞いた?」
昼休み、そんな囁きが耳に入った。
あり得ない、と笑い飛ばすことはできなかった。昨日のあの瞳が、妙に現実味を帯びて噂を補強してしまう。
僕はそれでも、彼女に近づこうと思った。
なぜなら、心のどこかで気づいていたのだ。――彼女を理解できるのは、自分しかいないと。
三
「……つけてきてるよね」
放課後、瑠璃は唐突に振り返った。
人気のない旧校舎の廊下。僕が毎日のように後をつけていたことに、とうとう気づかれたのだ。
心臓が跳ね上がる。
だが瑠璃は怒鳴りもしなければ逃げもしなかった。代わりに、静かに問いかけてきた。
「どうして?」
「どうしてって……君が、気になるから」
正直に答えると、瑠璃はふっと笑った。
その笑顔は、なぜか痛々しく見えた。
「私に関わらない方がいい。後悔するから」
「それでも関わりたい。僕は、君のことを知りたいんだ」
その言葉が口から零れ落ちた瞬間、彼女の瞳が揺れた。
まるで氷の下に隠された水が一瞬だけ顔を出したかのように。
だが瑠璃は、すぐに背を向けた。
その細い背中を追うように、僕は歩き出した。
四
やがて僕は知ることになる。
――彼女の「秘密」を。
瑠璃の家は、町外れの古い洋館のような屋敷だった。
そこで僕が目にしたのは、壁一面に貼られた無数の新聞記事。
「高校生自殺」「転落死の謎」「少女の影」――。
すべての見出しに共通していたのは、ある一つの名前。
水沢瑠璃。
彼女の過去には、不可解な死がまとわりついていた。
そしてその中心には、いつも彼女自身がいる。
僕は背筋が凍った。
だが同時に、彼女が抱える孤独の深さを理解した気がした。
「やっぱり、君は――」
振り返った瑠璃が、僕を遮った。
その目には涙が浮かんでいた。
「近づかないで。私に関わったら、君も死ぬ」
五
それでも僕は諦めなかった。
理由は単純だった。彼女に惹かれていたからだ。恐怖よりも、その想いの方が強かった。
僕は瑠璃の傍に居続けた。
雨の日も、晴れの日も。彼女の影を追い続け、少しずつ心を開かせた。
やがて、瑠璃の口から真実が語られた。
「私……人を殺したの」
その言葉は、空気を凍らせた。
だが、僕は逃げなかった。
「……それでも、君を好きになってしまった」
そう告げた瞬間、瑠璃は崩れ落ちるように泣いた。
それは、彼女が初めて見せた弱さだった。
六
僕たちは秘密を共有し、少しずつ距離を縮めた。
互いの孤独を埋め合うように。
だが同時に、彼女の過去は僕の周囲にも影を落とし始める。
僕の机に差出人不明の手紙が置かれていた。
――「彼女に近づくな。次はお前が死ぬ番だ」
背筋を走る冷たいもの。
それでも僕は決意を固めた。
瑠璃を守る。
どんな過去があっても、彼女を愛する。
その決意が、やがて取り返しのつかない結末を呼ぶことも知らずに――。
七
夏祭りの夜。
浴衣姿の瑠璃は、どこか不安そうに僕の手を握っていた。
「もし、また誰かが死んだら……」
「そのときは僕が一緒に罪を背負うよ」
言葉に偽りはなかった。
だが次の瞬間、花火の音をかき消すように悲鳴が上がった。
振り向けば、人混みの中で誰かが血を流して倒れていた。
人々がざわめく。指差す先に、浮かび上がる一つの名前。
「水沢……瑠璃だ!」
その声が広がった瞬間、彼女の手が僕の指から離れた。
瑠璃は、まるで罪を背負うかのように闇の中へ駆け出した。
僕は叫ぶ。
「待て! 瑠璃――!」
だが夜の闇は、彼女を容赦なく飲み込んだ。
僕の心に残ったのはただ一つ。
あのとき確かに繋いでいた温もりの記憶だけだった。