徳川に嫁いだ女〜和宮親子内親王〜
私の名前は和宮親子内親王。そして愛称を和宮という。
私と同じ皇族である有栖川宮熾仁親王という許婚を持っており、絶賛幸せいっぱいの人生を謳歌している真っ最中だ。
外から聞こえて来る鳥の囀りや、どこからか吹いて来る風が、私を祝福してくれているみたいだ。あぁ、なんて素敵な日だ。
「和宮様、おはようございます」
侍女の1人に挨拶をされ、微笑みを返す。朝食の時間だ。
軽く朝食を済ませ、今日もまた許婚である熾仁様の元を訪れるべく、頭に笠を乗せ外に出る。
お父様には秘密だけれども、お優しいから大丈夫でしょうね。
「熾仁様、和宮でございます」
「おぉ、和宮か! ......というか、ワタシの事は歓宮と呼べと何度も申しているであろう!」
「うふふ。私が呼びたくて呼んでるんですよ。なんだか、本当に頼れる旦那様、って感じがして好きなんです」
「ぬ、そうであったか......ならば仕方ない」
玄関で軽くいつも通りの挨拶を終え、熾仁様の家へと入ったのだった。
* * *
日が傾き始める頃になり、私は熾仁様の家を後にした。「また明日来ますね」と言い残し、手を振って別れを告げた。
家に帰り、父が私を見つけ駆け寄ってきたが、「熾仁様のところへ行っておりました」と言うと笑顔になり、「そうか。良き夫婦となりそうだな」と無断外出を許してくれた。
良き父を持ったなと頬を緩ませながら床に着き、そのまま眠りに落ちる。明日何が起こるとも知らずに、その意識は深い深い闇に呑まれて言った。
* * *
「和宮様、起きてくださいませ」
侍女の声で目を覚ました。どこか急いでいるような──切羽詰まったような声で言われたから、ほぼ飛び起きるようにして起き上がった。
「どうかしたのですか?」
眠い目を摩る暇もなく、間髪空けずに侍女に質問をする。そして返ってきた答えは衝撃的であった。
「孝明天皇様が、『和宮を呼べ』と仰せになっております」
着替えすらせず、寝巻きのまま兄の元へと走った。嫌な予感がする。根拠はないが、私の心が警笛を鳴らし、ざわめいている。
私が部屋に飛び入るようにして入ると、兄は驚いたように目を見開いた。その目の下に出来た隈が、より一層引き立ったようにも見えた。
「おぉ......ワタシの可愛い和宮よ。そんなに慌てなくても良かろうに......」
「兄上!」
兄に落ち着くよう促され、言われるがままに兄の前に座った。
「......和宮。今日話す話は、和宮にとっては重く、辛い話になるだろう」
そんな会話の切り出しから、今回の話題が良いものではなく、なおかつ悪い話題なのだと察した。
「和宮」
「はい、兄様」
「徳川家に嫁いでくれ。この通りだ!!」
............え? 嘘、なのよね?
そんな声にならない言葉を発しつつ、私は兄の畳に寸分の間もなくくっついた頭を見て、それと同時に絶望が押し寄せて来た。
前々から、侍女たちが話していた。大体、徳川家が、「朝廷から嫁をもらいたい」と申しているという内容だ。どうやら兄はずっと断っていたみたいだが、最近になって折れてしまったという訳だろう。
正直言えば、ふざけるなという話である。許嫁を持ち、幸せな家庭が約束された私から、まるで夢を奪うかのような事を承諾してしまったみたいなのだから。
「兄様、その顔を上げてください」
ただ、やはり私には1つの決意がある。
「かずの、みや?」
「私は、徳川家に嫁ぎます」
朝廷を──この国を守るという決意が。
* * *
徳川家の言い分だって、理解できない訳じゃない。最近になって動き出した外国に対抗するために、公武合体運動をやってるのだって知ってる。現に、清だって英国にやられたという話だって聞いている。
そんな中、私のわがままでこの国が滅びるのも嫌だ。かと言って、熾仁様との婚約を断つのだって嫌だ。だが、この期に及んでまで後者を嫌だと言っている暇はない。
さようなら、私の幸せ。こんにちは、私の新しい生活。
......最後に、熾仁様にちゃんと別れを告げたかったな............
「和宮様、到着致しました」
江戸城。徳川家──幕府の本拠地。城下町も栄えており、もちろんその中央に位置する城は武士の猛々しさを体現しているかのようにそびえ立っている。
「それでは、城内へと入って行きましょうか」
案内人に案内をされながら、城の中へと入っていく。どんどん階段を上り、上へ上へと登っていく。
普通は向こうが来るべきなのに......とは口が裂けても言えない。周りの武士たちが常に私に目を配っている。そんな事をすれば、たちまち私の首は体とくっつく事はないだろう。
最上階の奥まった空間に、今日から私の夫になる男が座っていた。
「おぉ、其方が和宮か!」
そう笑う姿は、将軍の気品と豪快さを掛け持っていた。彼が、徳川家14代将軍家茂。私が降嫁して嫁いだ相手である。
「待っておったぞ! さて、こちらに寄って座ると良い」
本当に、この人と暮らさなきゃいけないのか......本当に、この武士だらけの場所で暮らさなきゃいけないのか............
新しい生活に抱く高揚感など、微塵も持ち合わせていなかった。胸に抱く感情は、熾仁様を失った喪失感と、朝廷という実家の恋しさだけだ。
家茂に肩を寄せられながら、そんな思いに耽り新たな人生は始まったのだった。
* * *
そこから私の幕府生活が始まった訳なのだが、やはり案の定というべきか、私は幕府での生活に慣れずにいた。
むさっ苦しい武士の熱気。別に好きでもない男からの抱擁。何から何までが、私の精神を壊していく要因になった。
唯一の救いだったのは、父や兄からの手紙や、私に捨てられた熾仁様からの手紙だった。手紙には、朝廷での生活やほんの日常の小さな出来事から何までが書かれており、見ているだけで頬が緩んだ。それが少しの心の支えになっていたのだが、それだってやがて限界を迎える。
あくる日の朝。私はもう起きるのすら辛く、起きたと思って容姿を整えるべく鏡を見ると、いつ流したのかすら覚えていない涙の跡が付いていた。
──限界だ。
心のどこかで感じていた様々な感情が、一度に押し寄せて来た。何も入っていない胃から、酸っぱい胃酸が吐き出される。何度も嗚咽をして、咽び泣いた。
つらい。怖い。いやだ。帰りたい。
帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい──
「和宮!!」
そう言って背中を優しくさすってくれたのは家茂に他ならなかったのだが、もう私には彼の声すら届かなかった。私は、そのままその場に倒れ伏したのだった。
* * *
眠れない。
食事が喉を通らない。
──吐きそう。
横に置かれた木桶に、また胃酸を吐き出す。体が限界だと微かに震えている。
「父上ぇ......」
ほぼ音になっていない掠れ声で、この場にいもしない人に助けを求める。例えそれで誰も助けてくれなかったとしても──
「和宮、起きたかい?」
......家茂、様?
「ど、どうされたのですか......?」
「──どうしたのだその声は!? やはり、体調が悪いのか!?」
家茂様はあの日から、毎日毎日私の元へと通い詰めてくれた。朝、昼、晩。仕事があるというのにも関わらず、時間を作って私のところへと来てくれた。
手紙を読む気力すらない私に、いつも届いた手紙を一語一句欠かす事なく丁寧に読んでくれた。食事をする気力すらない私に、いつも届いた食事を口まで運んでくれた。私がそれを吐き出しても、嫌な顔一つせず、「それでは、ここに食事は置いておくが故、調子が良くなったら食べてくれ」と言い残して静かに退室された。
* * *
──申し訳ない。
私が弱いから──不甲斐ないから、家茂様に迷惑をかけてしまっている。将軍というこの国を支えられる仕事をなされているのにも関わらず、そんな彼の貴重な時間を私のために使ってくださっている。
それなのに、私はこうやってただただ病床に伏すだけ。申し訳なさで死んでしまいそうだ。
──いや、もういっその事死んでしまおうか?
そんな迷案まで浮かぶ始末。──いや、これが最適解なのか?
「毒薬を飲むか、はたまた縄で首を括るか......どちらが楽に死ねるでしょうか......?」
そんな事を考えていると、遠くから足音が近づいてくる。すぐさまそれに気づき、重い体を動かして布団に戻る。足音の主は、家茂様だった。
「和宮、昼は来れなくてすまない。また、晩には余の話をしよう」
朝、昼、晩は3パターンに分かれている。朝は、手紙の音読の時間。昼はそもそも家茂様が来られるかどうかが分からないので未定。晩は家茂様の話をする、といったローテーションだ。
私は今晩も、家茂様の話に耳を傾けた。
「余は、本心から好いた女しか側に置かなかった」
そんな出だしで、話は始まった。
「余は、侍女ですら部下としてしか見ておらず、ただ愛した女子のみを女として見ておった。──和宮」
「はい?」
思わず、声が出てしまった。突然こちらの名前を呼ばれたからである。屏風越しでも、家茂様がこちらを向いたのが手に取るように分かる。
「余は、本心から其方を愛しておる。其方を一目見た時から、胸の鼓動が早くなり、なんかこう......気持ちが高揚するのだ」
突拍子に愛の告白をされ、思わず乙女的に頬が少し紅潮するのが分かった。こんな感情、久しぶりに感じたな。
そんな事を思ってボーっとしていると、突然微笑んでいた家茂様の顔が真剣なキリッとした顔立ちに変化する。そして、その口を開き、
「最近、其方が辛いのもよく分かる。この環境に慣れず、辛い思いをしているのは見て分かる」
そう、言ってのけたのだ。
私の涙腺は崩壊した。自分に秘めた内なる思いを、私が言わなくても気づいてくれていたという事に感動したのだ。そんな家茂様の優しさに、涙が止まらない。
「家茂様ぁぁぁ......!」
屏風を破り、そこにいた家茂様の胸で泣いた。泣きじゃくって泣きじゃくって、その挙句には父に話す事すら躊躇っていた悩みすらも打ち明けた。
──家茂様なら、私の思いを聞き届けてくれる。
そんな確信があったからだ。そうして、また夜が明けるのだった。
* * *
そこから、私は少しずつ部屋の外に出るようになった。前までの床生活で迷惑をかけた──と自分で思っている──人に挨拶をして回ったり、改めて家茂様の元を訪れたり。そして、元気になれた事を様々な方面に手紙で報告したり。
自由になった。そんな気がした。ようやくこの環境に馴染めているのが感じられた事に、少し胸が高鳴る。
そして──
「家茂様、愛しています」
今までずっと言えなかった愛の告白だって、してみせた。
* * *
幸せとは、儚いものである。どんなに今が幸せでも、やがてそれが崩れるのは人間という生き物だからなのだろうか。
「家茂様ぁ............っ!!」
再び家茂様の胸で泣きじゃくったのだが、今回は前と状況が違っていた。家茂様は、この前のように生命の温かみがない、冷たい体だった。そう。家茂様は病死されたのだ。
家茂様が死んだのは、私が外に出るようになってからそこまで時間が経っていない頃。ようやく新しい生活を得たと思ったのに、それと引き換えに失ったのは、また自分の旦那だ。
また病となり病床に伏す。前までの私ならばそうなるはずだったのだが、今度は前回とは違った。
──家茂様がいなくても、私はもう弱くなんかない。
どこからともなく湧いてくる虚勢に背中を押され、喪失感と孤独感を胸の奥深くにしまう。
「私は、弱くなんかない」
そう呟き、涙を裾で拭うなりすぐさま立ち上がる。
「私は、弱くなんかない──っ!!」
やがて、そう繰り返す言葉は決意となって口から溢れたのだった。
* * *
しばらくして、兄から「朝廷に戻って来ないか?」という手紙が届いた。しかし、私はその手紙を最後まで読むなり、手紙を持って来てくれた従者に言った。
「私はもう、徳川家に嫁いでおります。ゆえに、私は徳川家の女。もう朝廷には戻らず、ここに残ります!」
その言葉に、前までの臆病さや慎重さは微塵も残っていなかった。徳川家──武士の家に嫁いだ女としての決意が、言葉と態度から明らかであったのだった。