ランバルト・オルフェウスの悩みー3
「……ここが、異世界……」
ランバルトは口をぽかんと開けて空を見上げていた。
空高く伸び上がる建物がいくつもある。あまりにもてっぺんが高すぎて首を痛めそうだ。
それにとても人が多い。皆手元にある長方形の魔道具を眺めたり、それを耳に押し当てていてまったくこちらに興味がなさそうだった。冬に使うマフのようなもので耳を覆っている人が中にはいるが、暑くないのだろうかと不思議に思う。
「あ、オルフェウスさん。信号が赤になりますので、早く渡りましょう」
「あ、ああ。……しんごう? 赤になったらどうしてダメなんだ?」
「見ていればわかります」
服を着替え靴を履きいざ異世界に行こうとしたところで、桜が扉を開けたのはランバルトが入ってきた扉と同じものだった。しかし、行き先を設定していたらしく踏みしめた地面はここ、シブヤという若者の街らしい。
目につく文字や看板は、全く知らない言語だ。だが、あの飴のおかげか、桜の言葉がわかったのでホッとした。一度だけ隣国に行ったことはあるが、大陸語という公用語をたくさん用いられていたので、これほど異国を感じたことはない。しかも、文字の種類が複数ある。明らかに同じ文字ではなかった。
標識をぼぅと見ていたランバルトは勢いよく走り出す鉄の塊を見てギョッとする。思わず後ずさりながら桜に尋ねた。
「な、なんだあれは?」
「馬のない馬車です」
「馬車?!」
「人が操縦して動かします」
桜曰くここ異世界は信号というものがある。それは人と鉄の馬車がぶつからないよう仕組まれていると説明した。その仕組みがないとたくさんの事故が起きる。あれほどのスピードで走る車と人間がぶつかればひとたまりもないだろう。
ランバルトは身慄いした。自分が肉片になることが想像できてしまい非常に恐ろしい。
ちなみに信号は赤が止まる、青は進む、青が点滅している、もしくは黄色は進んでもいいが無理をするなという意味らしい。
(ーーあんなのが王都を走っていたら、大変なことになる)
だが、領地の広い道ならどうだろうか。あれほどスピードが出るなら、移動も楽だ。もしかすると物流の概念が変わるかもしれない。
(どうやって動かしているのだろうか)
隣を歩く、異国の女性の横顔を盗み見る。彼女はさすがに慣れているので鉄の馬車を見てもケロリとしていた。
「……あれほど速くて大丈夫なのか?」
「まだマシですよ。このあたりは人も多いので。高速道路なら100キロぐらい出しますし」
コウソクドウロとやらが分からないが、とりあえず速く走ってもいい道があることはわかった。
黙り込んだランバルトを見て、桜が微笑む。
「機会があれば乗りましょう」
「あ、ああ」
そう返事したものの正直不安だ。大きな口を叩いて異世界に来たが、縁もゆかりも無いこの地で死にたくはない。
だが、乗ってみないとわからないことばかりだ。あの鉄の馬車があれば王都との行き来も容易くなるかもしれない。オルフェウス領で獲れた魚を新鮮な状態で輸送することも簡単になるはずだ。
「オルフェウスさん、今日は一応プランを作ってきたんですが、何がしたいとかありますか?」
もうこの時点で色んなことを尋ねたくて仕方ない。いったい幾つの言語を使用しているのか、信号はどうやって動かしているのか、鉄の車はどうやって動かしているのか(どうやって作っているのか)、建物がどうして空まで高いのか、みんな何に向かって笑っているのか、知りたいことが多すぎる。
「……いや、任せよう」
だからと言って、こんな場所で立ち尽くすわけにはいかない。まだ異世界にきて数分だ。せっかくの時間を自分の好奇心で潰すわけにはいかない。すべて見て、あとで尋ねよう。
記憶力がよく真面目なランベルトは気になったことひとつひとつを頭のメモに書き記すことにする。すると桜が笑顔で腹の具合を尋ねてきた。
「お腹は空いてますか?」
朝食は楽しみのあまりほとんど食べられなかった。今になってじわじわと空腹を感じるが、胸もいっぱいなので、我慢はできる。だが、異世界の食べ物には興味があった。
「空いてはいる」
「ですよね。もう十一時ですし。しっかり食べられます?」
「あ、あぁ」
桜は輝く笑顔で大きく頷く。そして少し歩いてオレンジ色のお店を指差した。
「では、日本人の心、牛丼を食べます」
「わ、わかった」
牛丼となるものがよくわからないが、桜の口ぶりからすると国民食だと理解した。
桜の後に続いてガラスの扉を潜る。ここもスライド扉で驚いた。桜は店内をぐるっと見回して二階に上がった。どうやらここは、一階は丸椅子がずらりと並ぶ個人席で、二階には複数人で座れるテーブル席がある店のようだ。
「まずはシンプルに牛丼を食べて欲しいかも」
「桜殿に任せる」
その牛丼となるものがよくわからないので、もう任せるしかない。投げやりだ。だが、けしてまずいわけではないだろう。すでにいい匂いが漂っている。
桜はテーブルに設置されていたパネルで手際よく注文をしてしまった。同じくテーブルには割れない素材のコップとピッチャーがある。桜がテキパキと水を注いでくれて、驚きっぱなしの喉を潤した。
「……この国ではどこでも無料で水が飲めるのか?」
「すべてがすべてというわけではないですが、お店に行くとほとんどは無償で水が飲めますね」
ランバルトは驚きながら、コップを軽く揺らす。透明感のある液体がランバルトの心を癒すようにふわっと揺れた。
「お待たせしました。牛丼並と味噌汁がふたつ。生卵がおひとつ。以上でよろしかったでしょうか」
「はい」
伝票失礼しまーす、と愛想のいい店員が去っていく。
「日本では箸というものを使って食事をします。ただ、オルフェウスさんは慣れていないのでスプーンを使ってください」
桜から渡されたスプーンを受け取る。目の前にドンと置かれた食事はほかほかの湯気が立っていた。自国では毒味やなんやがあるので、基本的に出来立てを食べることはない。不安になり桜を見ると、彼女は丼の上に卵を落とし、赤いものを乗せていた。
「その赤いものは?」
「これは紅生姜です。赤いのはアントシアニンという色素が酸に反応したためなので身体に悪いわけでありません」
複雑なことはわからないが、とりあえず身体に害がないと聞いて安堵する。
「卵は生で食べられるのか」
「はい、日本では食べられます。ただ、オルフェウスさんは生卵に抵抗があると思ったので、注文していません」
オルフェウス領で養鶏を営む農家はたくさんある。だが、どの家の卵も生で卵を食べることはできなかった。腹を下すだけならいいが、身体の弱い老人や子どもなら死にいたることもある。
「あぁ。とりあえず卵はなくていい」
ランバルトは桜の機転に頷きつつ、スプーンを持った。赤い生姜なるものも、桜が話ながらかけていた赤い粉も、すべて後回しだ。今は湯気がたちのぼる、茶色く薄い肉が盛られた丼を見つめる。
(ーー薄い肉でかさ増しをするのが、国民食なのか?)
一件なんの変哲のない見た目だ。ただ、匂いは食欲をそそるもの。ランバルトはスプーンを構えたままごくりと唾を飲み込む。桜は「いただきます」と言って少し卵を崩して大きな口で頬張った。
「ーーん、おいし〜。やっぱ牛丼は吉田屋だよね」
そんな溢れた声を聞き流しつつ、ランバルトは丼にスプーンを入れる。肉の下には肉の汁が染み付いた白い粒々したものが敷き詰められていた。
「それはお米と言って、この国の主食です」
「米が主食」
「もちもちして美味しいですよ」
桜は唇の端にご飯粒をつけながら笑う。彼女の笑顔に背中を押され、スプーンに乗せた白米と肉をえいやと口に含んだ。
「ーー!!!」
ランバルトは一口噛んで目を見開いた。
食べたことのない甘く深みのある味に驚く。甘いと言っても砂糖菓子の甘さではなく肉の油と玉ねぎが混ざった甘味、そして調味料がうまく混ざったものだろう。
ランバルトはゆっくりと噛み締めながら飲み込んだあと、二口目、三口目と口の中に放り込んだ。途中紅生姜なるものを少し乗せて食べると、酸味が加わり食感も変わって面白い。また、赤い粉はピリリとした辛さがいいアクセントになっている。
(……なるほど。これがギュウドン、国民食か)
となれば、生卵も気になってきた。この丼とどううまく絡み合うのかぜひ食べてみたい。
「……桜殿、おかわりはできるのだろうか」
「はい。できますけど、他のものじゃなくていいんですか?」
「あぁ……そしたら今より少し量を減らしてもらいたい。それで卵を」
桜はいい笑顔で頷くと、パネルでパパパっと注文してくれた。ランバルトが食べ終わる前におかわりが届く。もちろん生卵付きだ。
卵を割ったことのないランバルトは桜に教えてもらいながら割る。少し黄身がやぶれてしまったが、「殻が入らなかった、すごい」と褒められていい気分だった。
「ーーん!! これは!」
卵のきみのまろやかさが、牛丼の甘さとよく絡む。塩辛さの角がとれて丸くなったようだ。シャキシャキ食感の紅生姜と七味というスパイスが、飽きないように味を楽しませてくれる。最後にこの国のスープなる味噌汁を啜ると、お腹の奥からポカポカしてとても満たされた気分になった。
「ーーとてもうまかった」
ランバルトは晴れやかな顔で頷いた。これがこの国の国民食。これなら毎日でも食べたい。
「それはよかったです。では次に腹ごなしで遊びましょう!」
「……遊ぶ?」
「はい!」
桜が大変いい笑顔で頷く。まさか異世界にきて「遊ぼう!」と言われると思っていなかった。
しかし、よくよく考えてみれば旅行も遊びだ。異世界の遊びを知れるのはいい機会である。
「どうやって遊ぶんだ?」
「ボーリングです!」
ウキウキとするランバルトに桜がサムズアップする。
まったく知らない言葉だったが、それはとてもランバルトをワクワクさせた。