ランバルト・オルフェウスの悩みー2
「……学院を休む、ですか」
今朝、学院に行く準備をせず悠長に自室で本を読んでいると家令のロランが部屋にやってきた。
いつもなら玄関に姿を見せるはずの主人がなかなか現れないので様子を見にきたらしい。
なので、「学院を休む」と告げれば彼は目を丸くした。
「えーっと、お身体がどこか悪いの、ですか?」
「いや。至って健康だ」
「それならいいのですが」
とは言いつつも、だったらどうしてと尋ねたいらしい。
眉を顰める彼に、ランバルトは眉尻を下げた。
「実は異世界に行く」
ロランの思考は完全に停止していた。異世界、ISEKAI、イセカイ……とブツクサ言っている。
彼との付き合いもそこそこ長いが、呆然としている姿を見るのは初めてで新鮮だった。
「えっと、その……理解が追いつかないのですが」
「あぁ。わたしもまだ夢だと思っている」
ランバルトは昨夜起きた不思議な出来事をロランに報告した。本当は帰宅してすぐに報告すればよかったのだが、自分もまだ夢見心地で信じられなかったので、なかなか言い出せなかったのだ。
それに、図書室に篭って資料を漁る方が先だった。
この国にもかつて精霊がいたらしいがもう五百年以上前の話だ。現在は精霊を信仰しているわけでもなく、精霊を信仰する宗教もない。
だが、あの神気はとてつもなく強く、只者ではないとランバルトの勘が告げていた。
一見するとぐうたらで偉そうで珍妙なスタイルの猫だが、精霊は姿を見せる人間を選ぶ。
それにケット・シーは家を守る精霊で、その家や土地、そこに住む人を大切にするようだ。
古い文献をひっくり返して調べるとそう書いていた。
「……失礼ですが、どうやって?」
ロランは形のいい眉を器用に片方だけ持ち上げた。
主人の言葉を信じたいが信じられない、そんな顔だ。
「いえ、信じていないわけではございません。ランバルト様が嘘をつくお方ではないと存じております」
「あぁ」
「ただ、いきなり『今日は学院を休んで異世界に行く』と言われましても。ちょっとそこまで行ってきます、という話じゃないでしょう?」
「まぁ、そうだな」
それでもランバルトの表情はワクワクでいっぱいだ。いつものなら、憂鬱の朝の支度時間だが今は楽しみで仕方ない。
(異世界にはあの冷たい水をすぐに出せるような魔道具がたくさんあるのだろうか。水があれほど美味いなら、食事はどうだろうか。建物は? 平民たちの暮らしは? 王侯貴族はどんな生活をしているのか)
知りたいことがたくさんありすぎる。
「……私もついていきます」
「それは無理だ」
「どうしてですか? これも仕事ですよ?」
「私の分しかお金は払っていない」
「お金を払ったんですか?」
「当然だ。異世界を案内してくれると言ったんだ。そういう商会を立ち上げて商売をしていると」
ロランの顔色がみるみるうちに悪くなる。
主人が詐欺に遭ったのでは……と頭を抱えているらしい。
「代わりに指輪をもらった。この指輪があれば、その店に辿り着ける。待ち合わせ時間は朝の十時だ」
その指輪を貰い、店の住所を書いたメモももらった。所在地を見れば、貴族街の片隅に店があるらしいことがわかる。午前十時まで、まだ一時間以上ある。
いつもなら、もう学院に着いている頃だが、ランバルトは行くつもりはない。
「学院に休みの連絡だけしてほしい。あと半刻すれば家を出ようと思う」
「私も着いていきます」
「あぁ。だが、異世界には私ひとりで行く」
「ランバルト様」
「心配するな。店の主人も一緒だから、厳密には二人だ」
とはいえ、主人は女性なので、そのことを知るロランはひっくり返りそうになるのだが。
馬車で目的地に向かうと、昨夜見た不思議な家が、貴族街の片隅に立っていた。
ロランも御者も不思議そうにしていたが、ランバルトはこの家の前で確かに尻餅をついた。
そして馬車を降り軽快に歩みを進めるランバルトに注意をしながら、ロランが後から続く。
自動扉が来客に反応し横開きに開くと、ロランは目を丸くして驚いた。
「……横ですか」
「不思議だろう?」
建物の中に入ると相変わらず涼しい。今日は少し暑いので、これぐらい部屋が冷えていると気持ちよかった。
「オルフェウス様、おはようございます! お待ちしておりました」
店のインターフォンが鳴り、中から黒髪の店主桜が姿を見せる。
彼女はこちらの世界ではあまり見たことのない、ざっくりとした洋服に長いスカートを組み合わせていた。足元はなぜか裸足だ。
「あぁ。店主殿、今日はよろしく頼む」
そこへ、白くもふもふとした珍妙な生き物がのしのしとやってくる。
彼はくわっとあくびをすると、一人がけの椅子の上に飛び乗り丸くなった。
「精霊殿、よろしくお願い申し上げる」
『我は留守番よ。こんなくそ暑い中、外に出たくないわい』
面倒くさそうな壮年の男性の声が頭に響く。ロランにも聞こえたのだろう、彼は目を白黒とさせていた。
「初めまして、精霊殿、店主殿。家令のロランです。本日は異世界に行くと主人から先ほど聞き状況が飲み込めず、ついてきました。危険はないのでしょうか。どのような仕組みになっていますか」
「ええ、はい。あ、もしよかったらおかけください。きちんとご説明いたしますので」
「いえ、わたしはこちらに立っております」
「話しづらいのでおかけください」
桜がにっこりと笑う。公爵家の家令に怯まない店主とは……とロランは片方の眉を器用にあげた。
そして昨夜ランバルトが聞いた内容をロランにも説明する。ランバルトは冷たい水を飲みながら高揚していく心を必死に落ち着かせた。
初めての異世界。一人旅。自然と目が輝きワクワクする心が止まらない。
「私がついていますけどね」
「それは……そうだ。店主殿はいてくれないと困る」
さすがに異世界でひとり放置されるのは困る。ランバルトの表情が子犬がしょげたように落ち込んだ。
「でも、慣れればオルフェウス様お一人でも行けますよ」
「なに、本当か?!」
「え、えぇ」
思わず食いつくと桜が体を仰け反らせる。ランバルトは咳払いをひとつして誤魔化した。
「い、いや。すまない。つい、興奮して」
「いえいえ。では、えーっと、まずはお着替えしましょう。そのお洋服では目立ってしまうので」
「……これではダメか?」
ランバルトは自身を見下ろした。
公爵家の家紋の入ったジャケットにパーティーで着る襟付きのブラウスと光沢のあるズボン。歩きやすいように足元は編み上げのブーツだ。もちろん身を守るために剣帯している。ブーツのつま先にも刃物を隠していた。
「そうですね。そもそもこちらの国で剣など持っていたら捕まります。銃刀法違反で」
「じゅう……いはん?」
「ええ。正当な理由なく刃物を持ってはいけませんという法律がこちらの世界ではあるんです。 あと、すごく暑いです。今日は日中三十五度ほどになるみたいですよ。そのような服装だと熱中症で倒れてしまいます」
ランバルトは桜の言葉に首を傾げた。
レアヌ王国も今は夏だ。暑い日もあるが、貴族の正装は昔からこういうものだと決まっている。
むしろ男はマシだ。女性はドレスが重く何重にもなっているし、冬はとても寒いのに素足にヒールだ。
だが、桜が着替えろというなら話は別だ。悪目立ちしたくないし異世界がどんな場所かわからない。
「こちらのお部屋にどうぞ。お手伝いは必要ですか?」
「わ、わたしが」
ロランが挙手する。
「いや、私一人で着替えぐらいできる。ロラン、夜の七時に迎えにきてくれ」
「六時には帰ってきますので、お着替え等を終える頃に来ていただければ」
横から桜が訂正する。ロランは口を開いて、ややして閉じた。色々と思案したが、最終的にはランバルトの意見を尊重してくれたようだ。
言いたいことも文句も山ほどあるだろうが、ずっと元気のなかった主人が楽しそうにしている様子を見て、身を引いてくれたらしい。
「では、夕刻にお迎えに参上します」
「あぁ。土産を期待してくれ。あと、父上には今日のことを内緒にしてほしい」
ただでさえ、婚約破棄のことで迷惑をかけている。そこへズル休みだ、異世界だといえばもっと心配させてしまうかもしれない。 これ以上は負担をかけたくなかった。
「では、お洋服だけ選ばせていただきますね」
ロランを見送ると、桜はソファーの奥にある扉に案内した。そこは小上がりのある部屋だ。
桜が靴を脱ぎ、小上がり上がる。ランバルトは小上がりに座りブーツを脱いだ。
「……なんだ、この部屋は」
壁一面がクローゼットになっており、桜が開けた扉の奥には洋服が連なっていた。
「こちらは衣装部屋です」
「……衣装部屋」
王都の屋敷の母の部屋にはたしかこんな感じで服が収容されている。
しかし、数がすごい。
「うーん、暑いし、これでいいよね。あとはこれと……」
桜がテキパキと何かを決めていく中、ランバルトはふと足元を見てしゃがみこむ。
草を編んだような床は初めだ。なんとも珍しいが趣がある。
「こちらにしましょう。あ、足のサイズはいくつかですか?」
「……わからない」
「ですよね〜。じゃあ、靴は後で適当に合わせましょうか」
そう言って準備された洋服はなんとも頼りないものだった。
「まず、すべて脱いでいただいて、上にこの肩の出るものをきていただいて」
ランベルトは言葉をすべて飲み込み、ジャケットやブラウスをぬぐ。ざっくりとした下着も脱いで裸になると、この世界のいう下着を身につけた。ピタピタして気持ちが悪い。
「その上からこのTシャツを着てください。下はこのズボンを。あ、もし下着の関係で腰回りが気持ち悪いようでしたら、こちらの下着を着用してください。わたしは外に出ます」
言われた通りシャツを着る。軽くて涼しかった。先ほどのピタピタはまだ気になるがこの分だとすぐに気にならなくなるだろう。
ランバルトはズボンを脱ぐと桜に出されたズボンを履いた。そして一度脱いで、異世界の下着を履いてもう一度ズボンを履く。異世界の下着は丈が短く少しだけ恥ずかしい。ランバルトがいつも着用している下着は膝ぐらい丈があるが、異世界の下着は太ももの真ん中より短い丈だ。
(……これが異世界か……)
すでに服の文化が違う。服は軽く通気性がいい。青く染めたズボンは細身だがピタピタしていない。適度に空間があり足を曲げ伸ばししても負担がなかった。部屋の奥にある全身鏡で見てみると、自分が違う人間になれたように錯覚する。白いシャツは肘より袖が短く、青いズボンは踵を隠すほど長い。
「お着替えどうですか?」
「あぁ。終わった」
「では、失礼します」
桜がドアをそっと開けて着替え終わったランバルトを見て目を輝かせる。
「背が高くスタイルがいいので、とてもお似合いですね! ズボンの丈やウエストはどうですか? 窮屈ではないですか?」
「あ、あぁ。少し余裕があるぐらいだ」
「ならよかったです。靴下を履いて、靴を選びましょう。あ、その前にこの飴を食べてください」
「……飴?」
「ええ。ここは時空の狭間なので今私たちは普通に話せるのですが、部屋を出ると言葉がわからなくなります」
「!!!」
「この飴は、意思疎通を図るための飴です。翻訳キャンディー」
「なるほど」
「効果が出るまで5分ほどかかるので、先に口に入れてください。その間に靴を選びましょう」
手のひらに乗せられた飴をじっと見る。
琥珀色の艶々としたそれは不純物など一切ない美しいものだ。
しかし、昔から外で食べるものは疑えを言われて育ったランバルトには少し抵抗がある。
(……だが、これを食べなければ言葉が通じない。なら)
ランバルトは深呼吸をひとつして清水の舞台から飛び降りる気持ちで小さな飴を口に入れる。
「ーーなんだこれは!」
「え?! ど、どうかされました?」
「……うまいな」
咥内に広がる優しい甘さ。もっと苦いものを想像していたのに、拍子抜けだ。
「驚きました。でも、美味しいならよかったです」
ころころと口の中で転がすたびに甘さがしっとりと広がっていく。
靴を選んでいる間に飴がすべて溶けてしまい、ランバルトは少しだけ残念に思った。
ランバルトくんの下着はチャスズをイメージしています。