3.屍の旋律
ノアの歩くその大地は山も谷もある。川に、池、海も存在していた。
だが生物だけが、まるで切り取ったようにいない。
ノアの世界眼でも微生物すら感じられなかった。
「まさしく死の世界、か……」
生きている存在がいないのはもちろん、動物の死体や枯れた木すらもなかった。
どんな存在が見ても、それは異様な光景だ。
この世界は三千年前から少しずつ侵食されており、三百年程前からグラエム以外の大地はこのような状態だ。
ただ、非生物には影響がないらしく、先程の風はもちろん、基本的に生物には関係のない自然現象は起こるようだ。
「とはいえ、世界そのものが死にかけているからな……」
世界を一つの生物とした場合、世界はもうすでに瀕死状態だ。
故に活発な世界に起こりうる現象はまず起きなかった。
「ここは……」
ノアは近くにあった山を登り終え、その下を見る。
ぽっかりと円状に空いた穴の奥に、黒い岩石のようなものが見えた。
「そうか……ここは元々活火山だったみたいだな。世界が死にかけて、活動も止まってるみたいだが……」
溶岩などの地中の物体は人間でいう血液のようなもの。それが活動を停止し、冷えきって岩石になってしまったということは、人間ならば脈が殆ど止まってしまっているような状態だ。
億を超える年月を生き、更に数十億年も寿命のある世界だということを考えると、もってあと数十年というのはあまりにも風前の灯火だった。
だが、これは人間と違って世界そのものだ。人間なら治療不可能な状態でも、世界なら原因さえ取り除けば今の状態からでも立て直せる。
その点に関しては何よりも神々の存在が大きかった。
神々では界滅爪を排除することは不可能でも、時間さえかければ滅びかけた世界を修復することも可能なのだ。
だからこそ、ノアの成すべき使命は界滅爪の排除……ノアはそれを改めて認識する。
「そんなこと、俺にできるのか……?」
神々から権能を与えられたとはいえ、現状のノアでは神一人を相手にしても勝てる可能性は低いだろう。
権能が八つあるというのは有利だが、その一つ一つの力があまり強くない上にノアは力の使い方をあまりよく解っていないのだから。
「チッ……あまりにも無力すぎる。だが、そんなこと言ってられないのが現状なんだろうな」
そう、最早ノア以外に世界を救える存在などいないのだから。
それからもノアは界滅爪に向かって歩き続ける。
日が昇り、沈み、また昇って、また沈む。
何度もそれを繰り返し、ノアは徐々に界滅爪に近づいていった。
やがてノアと界滅爪の距離は残り数キロメートルを切った……のだが、そんな時にそれは起こる。
ノアの瞳に、本来は有り得ないはずのものが映ったのだ。
「なッ……」
否、正確に言うのなら動くものを見た、と言う方が正しいだろう。
現状、この死の世界で動いているのはノアだけだった。水面ですら風程度では微動だにしなかったのだから。
故にノアはこれまで時間が停止したようにも思える世界でずっと歩を進めてきた。
それなのに……ここまで来て、初めて動くものを見たのだ。
(生存者……?いや、いるはずがない。薄々感じ取っていたが、界滅爪に近づけば近づく程命を蝕む死の概念が強くなっていた。ここに連れてこられれば普通の人間なら即死かもしれない程だ)
だからこそ人間にしろそうでないにしろ、生存者がいるはずがない。ノアのように権能で無効化するか、この死の概念に適応できた存在しかこの場で生きることを許されないのだ。
警戒しつつ、ノアは動きがあった方向に近づく。
そこにいたのは……
大量の朽ち果てた人間だったなにかだった。
「ッ!?」
目視の概算だけでも100体はいるだろうか。纏っている覇気はごく僅かで、力も殆どないようだ。
だが……
『グルル!?グギャァァアア!!』
「チッ!」
ノアを見つけた瞬間、その全てが全力で駆け出し、ノアに向かって特攻する。
いくら力の差があってもあれと戦う気にはなれないのか、ノアは回り込むようにして界滅爪に向かいながら逃げる。
(なぜ俺を……いや違う!俺だからではなく、俺が死んでいない生者だからか!?くそ……このまま直行で界滅爪へ向かうしかないか)
ノアは小高い丘を登り始め、数分もしない内にその頂上へと辿り着く。
死者は生者に対して恨みを持つ、そんなものはどこの世界でもよくある話だ。だが……
……だが、この世界ではそれがより一層、質が悪かった。
「あれ、は……」
丘を登りきり、界滅爪のある場所を見下ろすノアだったが、目の前のその光景に絶句した。
そこにあったのは草木ひとつない平原……などという生易しいものではなかった。
先程と全く同じ死者が……その平原を埋めつくしていたのだ。
その数、およそ数千万───
それら全てが、ノアを見た。
(これは……何だ?一体、なんなんだよ……)
三千年前から今現在まで、界滅爪が原因で命を落とした人間はあまりにも多かった。
たとえその一部だけだったとしても死者として世界を彷徨うことになったとすれば……
その数は、数億では下らないだろう。
『ガァァァアアアア!!!』
ノアの目には平原そのものが自身に向かってスライドしてきているようにしか見えなかった。
だが、もちろんそれは地平線ではない。
全て、死者なのだ。
「……まずい」
この死者達は一体だけならばノアが苦戦するはずもない弱者だ。それが千体や一万体になろうともまだ余裕はあるだろう。
だが、目の前にいる死者は数千万どころか場合によっては数億はいる始末。
いくら力を持ったノアだったとしても、目の前の死者達に恐怖することは必然だった。
(なん、だよ、これ……あ、あれ……?)
そんな中、ノアは死者達から何かを感じ取る。
先程の100体程度では解らなかったが、これ程の数になるとそれを感じ取ってしまう。
死者から生者に向けての怨念だけでなく、死ぬ前の人間達から、ノア個人へと向けられた憎悪を。
その言葉を……聞いてしまったのだ。
何故自分達が死んで、その原因のお前が生きている───と。
「あ、あぁ……」
それをノアは否定することなどできない。
ノア自身にはその記憶がない。だからこそ、原因と言われてもノアには理解できない。
ただ、数千万、数億の憎悪を強引に魂に叩きつけられ、本当にそうだったのかと信じ込んでしまう……そんな一種の洗脳が起きていた。
お前のせいで、お前のせいで、お前のせいで───
「……うるせぇよ」
だがノアの魂はその程度で屈する程弱くはなかった。
魂の状態で二万年も存在し続けたのだ。この程度の洗脳ではノアを絶望させることは不可能。
もちろんそれは記憶がない故に『お前のせい』と言われても自覚がないというものもある。
だが決して常人に耐えられる憎悪ではない。ノアの強靭な魂だからこそ耐えられるのだ。
「お前達は死者なんだろ?それなら倒すのも容易い」
死者は死んでいるからこそ死者なのだ。そんな状態で生気を身に受ければその肉体は簡単に崩壊する。
そして、今のノアにはそれを実行できる力があった。
「再生の権能か……詳しい能力はまだ解らないが、奴らに、死者に特攻があることは間違いない」
ノアは右腕を構え、そこに再生の魔力を集中させる。
「楽になれよ……『蒼天浄化』」
蒼く輝く魔力を解き放ち、その光が地平線一帯を埋め尽くす。
それはこの場にいた全ての死者を浄化し、消滅させた。
やがて光がおさまり、その荒野に立っているのはノアだけとなる。全ての死者が浄化されたのだ。
「……俺のせい、か……」
やはりノアには過去の記憶がない。だがあの憎悪が的外れであるとも考えにくかった。
もし、数十億の命を散らせた元凶がノアだとしたら……
「……いや、考えるのはやめよう」
ノアとて人の心を持っているれっきとした人間である。今は記憶がなく、それの真偽が不明なのでまだ耐えることができているが、仮に本当にノアのせいだったとすれば、向けられた憎悪に耐えられるとは本人ですら思ってはいなかった。
それはすなわち───現実逃避だ。
「それよりも今は界滅爪だ」
丘を下りながらあと少しの距離を歩く。
数分して、界滅爪に触れることのできるところまで近づいたノアはその界滅爪に手を添える。
「材質は……不明か。まあ与えられた記憶でもそうなってたよな……」
この世界の基準で考えるなら界滅爪の材質が解らないのはある意味必然とも言えよう。
そもそも界滅爪はこの世界で誕生した物質ではない。世界間を超えて別の世界からやってきた存在なのだ。
当然だがこの世界のことしか知らない創造神が知っている物質ではない。その知識を与えられているノアが知らないのも道理であった。
だが……
「こんな物質は知らない……はずだ。でも何故か見たことがあるような……」
そう、ノアも元々は異世界の存在だった。
創造神が知らなくともノアが知っている可能性は十分にあるのだ。
ただ、如何せんノアには記憶がない。懐かしいとは感じても、これが何なのかは解らない。
だが……
「これ、まさか……」
ノアの視界に違和感が生じ、それを探るために界滅爪を注視する。
ノアの視界にはどこか右目と左目で見ているものが違うように映ったのだ。
「右目……は、違うか。なら左目だが……」
創造神アスティリアからノアに受け継がれた世界眼。その力は両目に宿っているが、真価を発揮するのは両目で世界眼を使用した時ではない。
ノアの蒼い左目が、創造神の目なのだ。
ノアは紅い右目を瞑り、左目だけで目の前の界滅爪を注視した。
「……いや、これだけじゃ解らない」
だがそれでも、ノアの目には巨大な界滅爪が見えるだけだった。
依然として違和感は感じる。だがそれが何なのかはまだ理解できなかったようだ。
「納得はしかねる結果だが……これ以上ここにいても仕方ないみたいだな」
今のノアにできることは少ない。少なくとも今界滅爪を消し去ろうとしても成功する可能性は皆無だろう。
となると、この世界で他に何かがある場所といえば最終都市グラエム程度しかないのだが……
「……まあそれでもいいか」
結局のところノアに残された選択肢はそれしかなかった。
ノアは界滅爪から離れ、グラエムのある方角へと向かう。
当然のようにその道中では屍の大群が襲ってきたが、ノアはそれを再生の権能で蹴散らした。
だがここで一つの問題が発生する。
「はぁ、はぁ……」
ノアは屍達の憎悪に対してある程度耐えていたのだが、いくらノアの精神でも限界が近かったのだ。
つまり、ノアの精神の疲弊……それが大きな問題となっていた。
「俺の……せい……」
本当のことは解らない。解る訳がない。
だが、それでもその声はノアの精神を蝕んでいく。
それが洗脳というものなのだ。
この死の世界を抜きにしても、常人なら精神崩壊を起こす程強力すぎる洗脳……否、これは最早呪いの一種だ。
数億の魂による呪い……それは八神の権能に耐えうるノアの魂すらも苛む程のものだった。
ノアの瞳から光が消えていく。その呪いに屈しそうになる。
思考が歪み、呪いに魂が従おうとする。
(俺のせいなら……死んだ方が……滅んだ方が……)
───否。
「違う……だろ。かつての俺のせいで何億人も死んだとしても……俺はこれからこの世界に生まれてくる何千億の命を背負う義務があるッ!」
そう、それこそが……
「それが……神が、俺に与えた使命だからだッ!」
ノアは追憶の権能を行使……それにより神域での記憶を完全に思い出す。
(そうだ……あの場にいた八人……あれは、紛れもなく神だった。この世界を想う、心優しき神々だった)
故に……ノアは誓う。
「俺が、この世界を救う。救ってみせる……それが、神々との約束だ」
ノアの目の前には大量の屍。しかしノアの瞳は先程までよりも更に強い輝きを放っていた。
屍達の怨念は本当にノアに向けられたものなのか───