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5、帝国到着?

 ◆帝国到着



 ── 帝国へ見送りしてくれたのは乳母だけ。王妃や異母姉たちの流行遅れの見窄らしいドレスを押し付けられ、アーサニクと、外交官の伯爵に連れられたセレンは帝国へ向かった ──






 翌日。


 一行はマイトネリュム帝国の国境に着いたようだ。


 巨大な門には帝国の紋章 ── 翼を広げた鷲が刻まれている。


 ボーラン伯爵が門番に書類をするりと提示すると、門はゆっくりと開いていく。


「ここからが帝国です」


 伯爵の言葉に、セレンは胸を締め付けられるような緊張を感じた。ここが、彼女の運命が決まる場所になるかもしれないと。


 馬車が門をくぐり抜ける時、セレンはふと外を見上げていた。


 門の上で、衛兵と並んで何かが動いている。


 それは ── 黒い影のようだった。


 影は一瞬、セレンの方を見たような気がした。そして、消えた。


「……気のせいだったのかな?」


 セレンは首をふるふると振り、前方を見つめた。帝国の平原が広がっている。その先に、首都と皇帝が待っているのだろうか。


 彼女はそっと左手首に右手を当てた。母の形見の腕輪が温かく感じる。


(生き延びてみせるわ。必ず)


 彼女は誓った。毒殺の運命から逃れ、自由に生きることを。


 馬車は帝国の道を進み、夕日に照らされて長い影を落としていく。セレンの新たな人生が、今から始まるのだと。


 果たして彼女は、原作の運命を変えられるのだろうか?


 冷酷な帝国の皇帝との出会いは、どんなものになるのか?


 そして十年前に出会った少年とマーキュリーは、今どこにいるのだろうか?


 答えは、まだ誰にもわからない。ただ1つ確かなのは、この黒髪赤目の王女が、もう過去のように無力なドアマットではないということ。


 彼女には前世の知識があり、毒への耐性があり、そして何より ── 生き延びるという強い意志がある。


 帝国の影が長く伸びる中、セレンの目は、希望と決意の光を宿していた。






 *****






 夜、宿泊した宿屋の1室で、セレンは1人で考えていた。アーサニクは隣の部屋で警戒に当たってくれている。


(この世界は、前世で読んだ小説『冷遇皇妃の孤独な死』に似ている。その冒頭に出てくる女性は政略結婚で帝国に嫁ぎ、半年後に毒殺される。でも、私は違うわ)


 彼女は小さな布包みを開き、中から乾燥した草の束を取り出す。毒草「シルバーベイン」だ。少量なら耐性がつくが、多量なら確実に死に至る。


 ※シルバーベイン:異世界の架空の植物です。


(小さい頃から、少しずつ毒を身体に慣らしてきた。馬小屋で育ち、乳母と乳姉がいる時以外には、誰も看病してくれないから、自分で薬草と毒草の知識も身につけてきた。前世の薬剤師の記憶が蘇った時、この世界が小説と同じなら、生き延びる方法は1つしかないと思ったけど)


 彼女はシルバーベインの一片を舌の上に乗せ、ゆっくり溶けるのを待った。鋭い苦味が広がり、少しめまいを感じる。でも、もうこれで死ぬことはない。耐性は十分についた。


(問題は毒殺だけじゃない。帝国でどう生き延びるか。皇帝は私を信用していないみたいだし。側室も愛妾もいる。私はただの飾り物なんだよね)


 セレンは窓の外の月を見上げた。


(でも、もし……もし3年間。何の問題も起こさず、おとなしくしていれば? 円満に離婚できるかもしれない。その時は自由の身になれる。王国に戻る必要はないよね。どこか遠くで、静かに暮らすんだ)


 彼女の目に決意の光が灯っていた。


(よし。目標は『3年間の白い結婚』。その後、円満離婚で自由になる。そのためには、どんな侮辱にも耐え、どんな冷遇にも耐えないとね。生き延びるためにも)






 *****






 マイトネリュム帝国の皇宮は、ダームスタチュム王国のそれとは比較にならないほど壮大な建物に見える。大理石の柱が天を衝き、ステンドグラスから差し込む光が床に虹を描いている。


 しかしセレンにとって、それは豪華な牢獄にすぎなかった。


 宰相のリード・パラシュム・タリュム公爵は、桃金色の髪を整えながら、新たに嫁いできた皇妃の到着を待っていた。眼鏡の奥の桃色の瞳には、軽い嫌悪の色が浮かんでいる。彼の手には、皇帝シルバー・テクネチュム・マイトネリュムからの和平・同盟に必要な書類である羊皮紙があった。


『どうせ、癒着の絡んだ政略結婚だ。わざわざ私自らが出向く必要はあるまい』


 皇帝の言葉が耳に残っていた。


 24歳の若き皇帝は、5年前に兄と父を相次いで失い、不本意ながら帝位につくしかなかった。


 周囲の期待と貴族たちの野心に挟まれ、彼は傀儡として操られることも侮られることも許さないと政治に全てを注ぎ込むしかなかった。ましてや婚姻など、単なる外交上の手続きに過ぎないのだからと後回しにせざるを得ないのは当然のことだろう。


 やがて、質素な馬車が宮殿の門をくぐった。


 リードが目にしたのは、流行遅れのドレスをまとった小さな人影だ。生地は粗末で、所々にほつれが見える。そして何よりも目を引いたのは、頭から首元までを覆う真っ黒なベールだ。きっちりとまとめて結い上げられた髪はもちろん、顔も、一切見えない。


「ダームスタチュム王国より、王女殿下が到着しました」


 護衛を名乗る一人の騎士が報告した。焦茶色の髪を短く切った騎士は、皇妃のすぐ脇に立った。橙色の瞳には鋭い警戒の色が宿っている。


 リードは軽くため息をつき、皇妃に近づいた。


 リードは皇妃の左手を取ると、黄金の腕輪を確認した。ダームスタチュム王家の紋章が刻まれている。これで身元は確認できた。






 *****






 数週間の旅の後、馬車はついにマイトネリュム帝国の首都に到着した。街並みは王国よりも整然としており、建物は高く、人々の服装も豊かなようだ。


「帝国宮殿に到着します」


 ボーラン伯爵が告げた。


 セレンは黒いベールを整え、ドレスの裾を直した。このベールは、彼女が帝国に着いてからも外すことを許されていない。皇帝の命令ではなく、王国からの「指示」だから。


(醜い顔を隠せ。帝国に恥をかかせるな)


 継母の言葉が耳に蘇る。


 宮殿の門が開き、馬車は中庭へと入っていく。広い敷地には衛兵が整列し、中央には高官らしき人々が並んでいるようだ。


 しかし、その中に皇帝の姿は見えない。


 馬車がきゅっと止まり、ドアが御者によりがちゃりと開けられた。


 セレンはアーサニクに手を借りながら、馬車のステップをぎしりと踏んで降り立った。その瞬間、周囲から囁き声が聞こえてきた。


「あれが噂の悪女王女か……」


「ベールで顔を隠している。本当に醜いんだろうな」


「盗み癖があるって本当か?」


 セレンは無視した。彼女は前を見つめ、ゆっくりと歩き出す。


 前方から、明るい桃金髪に鋭い桃色目を持つ紳士が近づいてきた。


 おおっ! 原作通りの帝国の宰相様ではないか……いやいや、いかんいかん。待て待て。ここは初めて会う人同士なのだから、知ったふりしたらおかしいだろう、セレン。自重自重……


 と、セレンは心の内の動揺を読まれないように冷静に静かにすう~っと深呼吸をした。


「セレン・フレロビュム・ダームスタチュム王女殿下でございますね。ようこそマイトネリュム帝国へ。私は宰相のリード・パラシュム・タリュムと申します」


 彼の声は冷たく、礼儀正しいが温かみを感じない。正にこちらを不躾に観察しているようだ。


「皇帝陛下は重要な執務のため、直接のお出迎えが叶いません。代わりに私がご案内いたします」


 セレンは鷹揚に軽く会釈を返した。


「お忙しい中、ありがとう存じます、宰相閣下」


 彼女の声は驚くほど落ち着いて応えることができた。17年の冷遇が、彼女にどんな状況でも平静を保つ力を与えていたおかげかな。


「さあ、中へどうぞ。まずはお部屋をご案内します。皇帝陛下との謁見は……明日の午後に予定されております」


 リード宰相はそう言い、振り返らずに歩き出した。セレンはアーサニクと視線を交わし、その後をしずしずと付いて行った。


 宮殿の廊下は長く、天井は高く、壁には帝国の歴史を描いたタペストリーなどがかけられている。しかしセレンには、それが彼女を閉じ込める巨大な檻のように感じられる。


(ここが、私の新しい牢獄になるのかな?)


 彼女は心の中で呟いた。


(でも、今回は違う。3年だけ耐えればいいだけだ。そして自由になってみせるんだから)


 リード宰相が1つの扉の前でひたりと止まった。


「こちらは来客用の客間ではございますが、王女殿下用の臨時のお部屋でございます。王女殿下専用のお部屋の改装が間に合わず、完全にお出迎え出来る準備が調えられておりませんので。そのため、不躾かともございますが、今日のところは、この臨時の部屋でお休みくださいませ。


 ですが臨時とは言え、王女様用に整えられたお部屋でございますので。控えめに言っても……広くはございませんが、謁見が終わるまでは、王女お1人には十分でございましょう」


 扉をそろりと開けると、そこには質素な家具が並ぶ、確かに「控えめ」な部屋が広がっていた。窓は小さく、暖炉はあるが、薪は少ししか積まれていない。


「明日の謁見まで、ごゆっくりお休みくださいね。ただし、宮殿内を勝手に歩き回ることはお控えください。迷子になる恐れがございますので」


 迷子になる恐れ、ではなく、皇帝や側室に近づく恐れ、という真意が透けて見える。


「わかりました。ありがとう存じます」


 セレンは再び会釈した。


 宰相は静かに会釈すると、一言添えて去っていった。


「では。私は外交官との和平同盟の書類を取り交わさないといけませぬので、これで失礼させていただきますね」


 ドアが閉まり、部屋に2人だけが残された時、アーサニクがため息をついた。


「これが帝国流の歓迎なのか。王国よりはましだとは思うが……」


「まあ、あの馬小屋に比べたら十分すぎるわよ、アーサ。少なくとも、ここには毒入りの食事は出てこないでしょうから」


 それに、原作通りなら、ここは皇妃となるはずのセレンのための本当の部屋ではない。


 おそらく謁見の後に、見窄らしい掘っ立て小屋に案内されるはずだから。だから、この客室は、本当にただの臨時の待機部屋なのだろう。


 セレンはベールを外すと、初めて部屋を見渡した。彼女の黒い髪は長く、赤い瞳は宝石のように輝いていた。もし帝国の人々がこの姿を見たら、彼女を「不吉」と呼ぶのだろうか? それとも、かつてのフレロビュム小国人の美しさを認めるだろうか?


「セレン様、明日の謁見、どうなさいますか?」


 アーサニクが心配そうに尋ねた。


「何もせず、ただ従順に振る舞うだけよ。外交官のハッシュム伯爵が言っていたように、皇帝が姿を見せなかろうが、気が変わって姿を見せて何かを言おうと、何をしようとも、私はおとなしくしているわ。それが3年後に円満離婚する唯一の方法なのだから」


 セレンは窓辺に立ち、外の庭を見下ろした。そこで、美しいドレスを着た女性が侍女たちに囲まれて歩いているのが見えた。おそらく、噂の側妃だろう。


(あなたが皇帝の愛を一身に受けているなら、それでいいわ。私は何も求めないのだから。ただ、生き延びたいだけなのよ)


 彼女はそう決意した。


 しかし、心の奥底で、小さな疑問が湧き上がった。


(皇帝は本当に、王国から流された悪評を信じているのかしら? もし信じているのなら、なぜ私を正妃なんかにしたのよ? ただの政略なら、側室でもいいはずなのに)


 そして、もう1つの疑問。


(この世界は、本当に前世で読んだ小説と同じなのかしら? もし違うのなら……もし私の選択次第で運命が変わるのなら?)


 セレンは拳をぎゅっと握りしめた。


(とにかく、まずは明日の謁見を乗り切らないと。そして、3年間の生存競争を始めるだけよ)


 夜のとばりが降り、帝国宮殿は静けさに包まれた。セレンの部屋には小さなランプの灯りだけがともり、彼女は来るべき明日に備えて目を閉じた。


 果たして、彼女は原作の運命から逃れ、3年後に円満離婚を勝ち取ることができるのか?


 それとも、この帝国の深い闇に飲み込まれてしまうのか?


 戦いは、まだ始まったばかりなのだから。






 *****


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