正法眼蔵 授記
仏祖、単伝の大道は、授記なり。
仏祖の参学なきものは、夢也未見なり。
その授記の時節は、いまだ菩提心をおこさざるものにも授記す。
無仏性に授記す。有仏性に授記す。
有身に授記し、無身に授記す。
諸仏に授記す。
諸仏は、諸仏の授記を保任するなり。
得授記ののちに作仏すと参学すべからず。
作仏ののちに得授記すと参学すべからず。
授記時に作仏あり。
授記時に修行あり。
このゆえに、
諸仏に授記あり。
仏向上に授記あり。
自己に授記す。
身心に授記す。
授記に飽学措大なるとき、仏道に飽学措大なり。
身前に授記あり。
身後に授記あり。
自己にしらるる授記あり。
自己にしられざる授記あり。
他をして、しらしむる授記あり。
他をして、しらしめざる授記あり。
まさに、しるべし。
授記は、自己を現成せり。
授記、これ、現成の自己なり。
このゆえに、仏仏、祖祖、嫡嫡、相承せるは、これ、ただ授記のみなり。
さらに、一法としても授記にあらざるなし。
いかに、いわんや、山河大地、須弥巨海あらんや?
さらに一箇、半箇の張三李四なきなり。
かくのごとく参究する授記は、
道得、一句なり。
聞得、一句なり。
不会、一句なり。
会取、一句なり。
行取(、一句)なり。
説取(、一句)なり。
退歩を教令せしめ、進歩を教令せしむ。
いま、得坐、披衣、これ、古来の得、授記にあらざれば、現成せざるなり。
合掌、頂戴なるがゆえに、現成は、授記なり。
仏、言、
それ、授記に多般あれども、しばらく、要略するに、八種あり。
いわゆる、
一、者、自己、知。他、不知。
二、者、衆人、尽、知。自己、不知。
三、者、自己、衆人、倶、知。
四、者、自己、衆人、倶、不知。
五、者、近、覚。遠、不覚。
六、者、遠、覚。近、不覚。
七、者、倶、覚。
八、者、倶、不覚。
(
余経、又、云、
近、知、者。
遠、知、者。
遠、近、倶、知、者。
近、遠、倶、不知、者。
)
かくのごとくの授記あり。
しかあれば、いま、この臭皮袋の精魂に識度せられざるには授記あるべからず、と活計することなかれ。
未悟の人面に、たやすく授記すべからず、ということなかれ。
よのつねに、おもうには、修行功満して作仏、決定するとき授記すべし、と学しきたるといえども、仏道は、しかにはあらず。
或、従、知識して一句をきき、或、従、経巻して一句をきくことあるは、すなわち、得、授記なり。
これ、諸仏の本行なるがゆえに、百草の善根なるがゆえに。
もし授記を道取するには、得記人、みな、究竟人なるべし。
しるべし。
一塵、なお、無上なり。
一塵、なお、向上なり。
授記、なんぞ一塵ならざらん?
授記、なんぞ一法ならざらん?
授記、なんぞ万法ならざらん?
授記、なんぞ修、証ならざらん?
授記、なんぞ仏祖ならざらん?
授記、なんぞ功夫、弁道ならざらん?
授記、なんぞ大悟、大迷ならざらん?
授記は、これ、吾宗、到、汝、大興、于、世なり。
授記は、これ、汝、亦、如是。吾、亦、如是。なり。
授記、これ、標榜なり。
授記、これ、何必なり。
授記、これ、破顔微笑なり。
授記、これ、生死、去来なり。
授記、これ、尽十方界なり。
授記、これ、遍界、不曾、蔵なり。
玄沙院、宗一大師、侍、雪峰、行、次、雪峰、指、面前地、云、
這一片田地、好、造、箇、無縫塔。
玄沙、曰、
高、多少?
雪峰、乃、上下、顧視。
玄沙、曰、
人、天、福報、即、不無。
和尚、
霊山、授記、未夢見在。
雪峰、云、
爾、作麼生?
玄沙、曰、
七尺、八尺。
いま、玄沙のいう和尚、霊山、授記、未夢見在は、雪峰に霊山の授記なしというにあらず、雪峰に霊山の授記ありというにあらず、和尚、霊山、授記、未夢見在というなり。
霊山の授記は、高著眼なり。
吾、有、正法眼蔵、涅槃妙心、付属、摩訶迦葉なり。
しるべし。
青原の、石頭に授記せしときの同参は、摩訶迦葉も青原の授記をうく、青原も釈迦の授記をさずくるがゆえに、仏仏、祖祖の面面に正法眼蔵、付属、有在なること、あきらかなり。
ここをもって、曹谿、すでに青原に授記す、青原、すでに六祖の授記をうくるとき、授記に保任せる青原なり。
このとき、六祖、諸祖の参学、正直に、青原の授記によりて行取しきたれるなり。
これを明明、百草頭、明明、仏祖意という。
しかあれば、すなわち、仏祖、いずれが百草にあらざらん?
百草、なんぞ吾、汝にあらざらん?
至愚にして、おもうことなかれ、みずからに具足する法は、みずから、かならず、しるべし、と。みるべし、と。
恁麼にあらざるなり。
自己の知する法、かならずしも自己の有にあらず。
自己の有、かならずしも自己の、みるところならず。自己の、しるところならず。
しかあれば、いまの知見思量分( or 知見思量分了 or 知見思量分別)に、あたわざれば、自己にあるべからず、と疑著することなかれ。
いわんや、霊山の授記というは、釈迦牟尼仏の授記なり。
この授記は、釈迦牟尼仏の釈迦牟尼仏に授記しきたれるなり。
授記の未合なるには、授記せざる道理なるべし。
その宗旨は、すでに授記あるに授記するに罣礙なし。
授記なきに授記するに剰法せざる道理なり。
虧闕なく、剰法にあらざる、これ、諸仏祖の、諸仏祖に授記しきたれる道理なり。
このゆえに、古仏、いわく、
古今、挙、払、示、東西。
大意、幽微、肯、易、参?
此理、若、無、師、教授、欲、将、何見、語、玄談?
いま、玄沙の宗旨を参究するに、無縫塔の高、多少? を量するに、高、多少? の道得あるべし。
さらに、五百由旬にあらず、八万由旬にあらず。
これによりて、上下を顧視するをきらうにあらず。
ただ、これ、人、天の福報は即、不無なりとも、無縫塔、高を顧視するは、釈迦牟尼仏の授記には、あらざるのみなり。
釈迦牟尼仏の授記をうるは、七尺、八尺の道得あるなり。
真箇の釈迦牟尼仏の授記を点扌㑒することは、七尺、八尺の道得をもって扌㑒点( or 点扌㑒)すべきなり。(「扌㑒」は一文字の漢字と見なしてください。)
しかあれば、すなわち、七尺、八尺の道得を是、不是せんことは、しばらく、おく。
授記は、さだめて雪峰の授記あるべし、玄沙の授記あるべきなり。
いわんや、授記を挙して無縫塔、高の多少を道得すべきなり。
授記にあらざらんを挙して仏法を道得するは、道得には、あらざるべきなり。
自己の、真箇に自己なるを会取し聞取し道取すれば、さだめて授記の、現成する公案あるなり。
授記の当陽に、授記と同参する功夫きたるなり。
授記を究竟せんために、如許多の仏祖は現成、正覚しきたれり。
授記の功夫するちから、諸仏を推出するなり。
このゆえに、唯、以、一大事、因縁、故、出現というなり。
その宗旨は、向上には、非自己、かならず非自己の授記をうるなり。
このゆえに、諸仏は、諸仏の授記をうるなり。
おおよそ、授記は、一手を挙して授記し、両手を挙して授記し、千手眼を挙して授記し、授記せらる。
あるいは、優曇華を挙して授記す。
あるいは、金襴衣を拈じて授記する。
ともに、これ、強為にあらず、授記の云為なり。
内より、うる、授記あるべし。
外より、うる、授記あるべし。
内外を参究せん道理は、授記に参学すべし。
授記の学道は、万里、一条、鉄なり。
授記の兀坐は、一念、万年なり。
古仏、いわく、
相継、得、成仏。
転次、而、授記。
いわくの成仏は、かならず相継するなり。
相継する少許を成仏するなり。
これを授記の転次するなり。
転次は、転得転なり。
転次は、次得次なり。
たとえば、造次なり。
造次は、施為なり。
その施為は、局量の造身にあらず、局量の造境にあらず、度量の造作にあらず、造心にあらざるなり。
まさに、
造境、不造境、ともに、転次の道理に一任して究弁すべし。
造作、不造作、ともに、転次の道理に一任して究弁すべし。
いま、諸仏、諸祖の現成するは、施為に転次せらるるなり。
五仏六祖の西来する施為に転次せらるるなり。
いわんや、運水、般柴は、転次しきたるなり。
即心是仏の現生する転次なり。
即心是仏の滅度する、一滅度、二滅度をめずらしくするにあらず。
如許多の滅度を滅度すべし。
如許多の成道を成道すべし。
如許多の相好を相好すべし。
これ、すなわち、
相継、得、成仏なり。
相継、得、滅度、等なり。
相継、得、授記なり。
相継、得、転次なり。
転次は、本来にあらず、ただ七通八達なり。
いま、仏面祖面の面面に相見し、面面に相逢するは、相継なり。
仏授記祖授記の転次する、回避のところ、間隙あらず。
古仏、いわく、
我、今、従、仏、聞、授記荘厳事、及、転次受決、身心遍歓喜。
いうところは、授記荘厳事、かならず、我、今、従、仏、聞なり。
我、今、従、仏、聞の及、転次受決するというは、身心遍歓喜なり。
及、転次は、我、今なるべし。
過、現、当の自他にかかわるべからず。
従、仏、聞なるべし。
従、他、聞にあらず。
迷、悟にあらず。
衆生にあらず。
草木、国土にあらず。
従、仏、聞なる授記荘厳事なり、及、転次受決なり。
転次の道理、しばらくも一隅にとどまりぬることなし。
身心遍歓喜しもってゆくなり。
歓喜なる及、転次受決、かならず、身と同参して遍参し、心と同参して遍参す。
さらに、また、身は、かならず、心に遍ず、心は、かならず、身に遍ずるゆえに、身心遍という。
すなわち、これ、遍界、遍方、遍身、遍心なり。
これ、すなわち、特地一条の歓喜なり。
その歓喜、あらわに寐寤を歓喜せしめ、迷、悟を歓喜せしむるに、おのおのと親切なりといえども、おのおのと不染汚なり。
かるがゆえに、転次、而、受決なる授記荘厳事なり。
釈迦牟尼仏、因、薬王菩薩、告、八万大士、
薬王、
汝、見、是大衆中、無量諸天、龍王、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人、与、非人、及、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、求声聞者、求辟支仏者、求仏道者、
如是等類、咸、於、仏前、聞、妙法華経、一偈、一句、乃至、一念随喜者、我、皆、与、授記。
当、得、阿耨多羅三藐三菩提。
しかあれば、すなわち、いまの無量なる衆会、あるいは、天王、龍王、四部、八部、所求、所解、ことなりといえども、だれが妙法にあらざらん一句、一偈をきかしめん?
いかならん、なんじが乃至、一念も他法を随喜せしめん?
如是等類というは、これ、法華類なり。
咸、於、仏前というは、咸、於、仏中なり。
人、与、非人の万像に錯認するありとも、百草に下種せるありとも、如是等類なるべし。
如是等類は、我、皆、与、授記なり。
我、皆、与、授記の頭正尾正なる、すなわち、当、得、阿耨多羅三藐三菩提なり。
釈迦牟尼仏、告、薬王、
又、如来、滅度之後、若、有、人、聞、妙法華経、乃至、一偈、一句、一念随喜者、我、亦、与、授阿耨多羅三藐三菩提記。
いま、いう、如来、滅度之後は、いずれの時節、到来なるべきぞ?
四十九年なるか?
八十年中なるか?
しばらく、八十年中なるべし。
若、有、人、聞、妙法華経、乃至、一偈、一句、一念随喜というは、
有智の所聞なるか?
無智の所聞なるか?
あやまりて、きくか?
あやまらずして、きくか?
為、他、道せば、若、有、人、所聞なるべし。
さらに、有智、無智、等の諸類なりとすることなかれ。
いうべし。
聞、法華は、たとえ甚深無量なる、いく諸仏智慧なりとも、きくには、かならず、一句なり、きくには、かならず、一偈なり、きくには、かならず、一念随喜なり。
このとき、我、亦、与、授阿耨多羅三藐三菩提記なるべし。
亦、与、授記あり。
皆、与、授記あり。
蹉過の張三に一任せしむることなかれ。
審細の功夫に同参すべし。
句、偈、随喜を若、有、人、聞なるべし。
皮肉骨髄を頭上、安、頭するに、いとまあらず。
見、授阿耨多羅三藐三菩提記は、我願、既、満なり、如許(多)皮袋なるべし、衆、望、亦、足なり、如許(多)、若、有、人、聞ならん。
拈、松枝の授記あり。
拈、優曇華の授記あり。
拈、瞬目の授記あり。
拈、破顔の授記あり。
靸鞋を転、授せし蹤跡あり。
そこばくの是法、非、思量分別之所能解なるべし。
我身、是、也の授記あり。
汝身、是、也の授記あり。
この道理、よく、過去、現在、未来を授記するなり。
授記中の過去、現在、未来なるがゆえに。
自授記に現成し、他授記に現成するなり。
維摩詰、謂、弥勒、言、
弥勒、
世尊、授、仁者、記。
一生、当、得、阿耨多羅三藐三菩提。
為、用、何生、得、受記、乎?
過去、耶?
未来、耶?
現在、耶?
若、過去生、過去生、已滅。
若、未来生、未来生、未至。
若、現在生、現在生、無住。
如、仏所説、比丘、汝、今、即、時、亦、生、亦、老、亦、滅。
若、以、無生、得、受記、者、無生、即是、正位。
於、正位中、亦、無、受記、亦、無、得、阿耨多羅三藐三菩提。
云何、弥勒、授一生記、乎?
為、従、如、生、得、受記、耶?
為、従、如、滅、得、受記、耶?
若、以、如、生、得、受記、者、如、無有、生。
若、以、如、滅、得、受記、者、如、無有、滅。
一切衆生、皆、如、也。
一切法、亦、如、也。
衆聖、賢、亦、如、也。
至、於、弥勒、亦、如、也。
若、弥勒、得、受記、者、一切衆生、亦、応、受記。
所以、者、何?
夫、如、者、不二、不異。
若、弥勒、得阿耨多羅三藐三菩提、者、一切衆生、皆、亦、応、得。
所以、者、何?
一切衆生、即、菩提相。
維摩詰の道取するところ、如来、これを不是といわず。
しかあるに、弥勒の得、受記、すでに決定せり。
かるがゆえに、一切衆生の得、受記、おなじく、決定すべし。
衆生の受決あらずば、弥勒の受記あるべからず。
すでに一切衆生、即、菩提相なり。
菩提の、菩提の授記をうるなり。
授記は、今日の命なり。
しかあれば、一切衆生は弥勒と同、発心するゆえに、同、受記なり、同、成道なるべし。
ただし、維摩、道の於、正位中、亦、無、受記は、正位、即、授記をしらざるがごとし、正位、即、菩提といわざるがごとし。
また、過去生、已、滅。未来生、未至。現在生、無住とらいう。
過去、かならずしも已、滅にあらず。
未来、かならずしも未至にあらず。
現在、かならずしも無住にあらず。
無住、未至、已、滅、等を過、未、現と学すというとも、未至の、すなわち、過、現、未なる道理、かならず、道取すべし。
しかあれば、生、滅、ともに、得、記する道理あるべし。
生、滅、ともに、得、菩提の道理あるなり。
一切衆生の、授記をうるとき、弥勒も授記をうるなり。
しばらく、なんじ、維摩にとう、
弥勒は、衆生と、同なりや? 異なりや?
試、道、看。
すでに若、弥勒、得、記せば、一切衆生も得、記せんという。
弥勒は、衆生にあらずといわば、衆生は、衆生にあらず、弥勒も弥勒にあらざるべし。
いかん?
正当恁麼時、また、維摩にあらざるべし。
維摩にあらずば、この道得、用不著ならん。
しかあれば、いうべし。
授記の、一切衆生をあらしむるとき、一切衆生、および、弥勒は、あるなり。
授記、よく、一切をあらしむべし。
正法眼蔵 授記
仁治三年壬寅、夏、四月二十五日、記、于、観音導利興聖宝林寺。
寛元二年甲辰、正月二十日、書写、于、越州、吉峰寺、侍者寮。




