5 『火炎』
電車とバスをいくつも乗り継ぎ、樹海までやってきた。この国が誇る名峰の、裾野に広がっている、深く、暗い森。樹の海というのは名ばかりではなかった。『命は親から頂いた大切なもの。もう一度静かに両親や兄弟、子供のことを考えてみましょう』という看板が立っていたが、それに何の感情も動かなかった。看板には電話番号も書かれていた。その番号にかければきっと心優しい人が、親身になって話を聞いてくれるのだろう。だが人に話したくらいで救われるような命は、最初から救われる運命にあったのだろうと思う。
小さく笑った。まさか自分の最期が、こんな有名な場所になるとは思わなかった。今までは単なる情報だった。だが今の目の前に広がる深い緑は、鮮やかなリアルだった。まだ空に太陽はあるのに、視界が淀んでいる。ここには光でも照らせない闇があるのだろう。湿った枝や葉を踏みながら、森を進んでいく。道などない。あるのは道とも言えない自然だけだ。
静かだった。自分の息の音しか聞こえない。ようやく一人になれたと思った。私の周りには人が多すぎた。だからおかしくなってしまったのだ。そうだ、きっとそうに違いない。
携帯を捨てた。携帯を捨てるなんて発想は今までなかった。携帯がなければ生きていけないとすら思っていた。だが捨ててみて、特に気持ちに揺らぎはなかった。むしろ自分を縛っていた鎖を引き千切ったような気分だった。こんなものがあるから、誰かのことを考えてしまうのだ。
私は、生きている。私を縛り付けるものは何もない。私が凧だとしたら、私の糸はもう誰も握っていない。あとは風の吹くまま、気ままに流されるだけだ。
心に青空が広がるのを感じる。現実が鬱蒼としている分、その青さはとても眩しかった。自分が今どこにいるかなんてどうでもいい。自分が今いる場所こそが、自分の居場所なのだ。それだけのことを気づくのに、だいぶ遠回りをしてしまった。
服を脱いでいく。仕事から帰ってきたときのように、その辺に服を放り投げていく。一枚脱ぐごとに体が軽くなるのを感じた。服が重かったわけではないが、何か重たいものから解放されるようだった。
そうして私は裸になった。森を進むたび、金玉が揺れる。いつしか私は勃起していた。凍てつく風が全身を突き刺す。しかし私はその冷たさを跳ねのけられるだけの熱さを体に宿している。枝や石を踏んだ。足から血が出た。足だけではない。全身に細かい傷が出来ていく。傷口に触れると焼けるように痛い。私は笑った。大いに笑った。その笑い声を聞くものは、誰もいなかった。やがて雪が降ってきた。ゆらゆらと。はらはらと。
ごめんなさい、中嶋さん。私は地獄へ行きます。
どうか天国で幸せになってください。
愛しています。
さようなら。
〈了〉