4 『堕天』
私は彼女の不幸を願った。彼女が弱き存在になってくれなければ、私の出番はないからだ。私は彼女に、誰より儚くあってほしかった。だが彼女はその日以降、上司に厳しいことを言われても決して泣かなくなったし、明るくなり、周囲と打ち解けるようになった。そんな素敵な女性を周囲の異性が見逃すわけがなく、彼女は、様々な人に言い寄られるようになった。
彼女は幸せそうだった。私から離れていけばいくほど、彼女は幸せになっていくように見えた。
当然だった。私は彼女の不幸を願う者なのだから。
彼女の幸せを願うなら、私のほうが消えるべきだったのだ。
だが、私は彼女を消すほうを選んだ。
彼女を突き落としたときの感触が、まだ手に残っている。
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猫は自分の死期を悟ると飼い主の前から消えるという。猫を飼っていた人から、かつてそう聞いた。ある日、何の前触れもなく消えてしまうのだと。死体は見つからない。それがどういう思いによる行動なのかはわからない。だが猫は、自分の運命を確かに感じたのだろう。
朝もやが漂う薄暗いなかへ足を踏み出す。吐く息が白い。体が震える。心まで凍ってしまいそうになる。しかし心は熱く燃えていたので、足を前に進ませることが出来る。
何も言わず家を出た。まるで家出みたいだった。家出なんて子どもがするものだと思っていたが、大人でもするときはするのだ。
常々思う。私は本当に大人なのだろうかと。子どもの私が、今の私を見たらどう思うだろうかと。
頑張って学校へ行って、厳しい受験勉強を乗り切って、そこそこの大学を出て、何とか会社に就職したはいいものの、華々しい活躍とは無縁の人生を送り、その挙句、人を殺すことになる──そんな人生を送ることになるんだよ、とあの頃の私に告げたら、私はどうするだろうか。その場で首を吊って自殺するかもしれない。
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立ち食いそば屋なんて久しぶりだった。熱いつゆが舌と喉を焼きながら胃へ落ちていく。ふうと息を吐く。店内には出汁の匂いが満ちていた。目尻が下がった。何もかもを投げ出してここを人生の終着点にしたい気分になった。店員が客から食券を受け取り、そのオーダー通りのそばが提供される。出てくるそばは様々だ。油揚げがのったもの、ワカメがのったもの、カレーがかかったもの、海老天がのったもの──その繰り返される営みを見るのを止められない。
椅子はない。誰もが黙って、腰を少し曲げながら、うなずくようにしてそばをすする。店の外には電車を待っている人が大勢いる。あの人たちは、これから会社や学校へ行くのだろう。そしていつも通りの生活を送るのだろう。そんな人たちがいるのだと思えるだけで、私の心は温かくなった。そばと同時に鼻水もすすった。だが鼻水はすすってもすすっても鼻から垂れてきた。そのうち涙もこぼれてきた。視線は感じない。誰も私のことなど見ていない。涙を拭うと、丼を戻した。店を出るとまた冷たい風に吹かれた。痛みはあったが、しかし心地よさもあった。私は携帯を取り出すと、目的地までのルートを検索した。体のなかでマグマが煮えているようだった。