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3  『Introduction』


 ヒーローになりたかった。颯爽と、困っている人に手を差し伸べる、かっこいいヒーローに。


 しかしそれは誰かが泣いていることが前提だった。誰かが泣いていないと、ヒーローにはなれない。


 そして見つけた。泣いている人を。


 私は彼女のヒーローになろうとした。


 周りは誰も助けなかった。まるで彼女をそこにいないかのように扱った。彼女を救えるのは私しかいなかった。ここで手を伸ばさなければヒーローではないと、心が叫んでいた。私は泣いている彼女の手を掴むと、会議室から連れ出した。


 私は彼女が泣き止むまで、ずっと傍にいた。

 他に誰もいない非常階段で、私たちは永遠のような時間のなかにいた。


 やがて彼女は少しずつ、何があったかを話してくれた。私はその言葉一つ一つに対して丁寧にうなずいた。彼女に笑顔の明かりが灯った。泣き顔も美しかったが、笑顔はもっと美しかった。泣きはらし赤く染まった目尻が、笑うことで細くなるのが素敵だった。


 これからは、彼女の傍にいようと思った。それは自分にしか出来ないことだと信じた。


 しかし私はヒーローではいられなかった。ヒーローは、決して助けた人から見返りを求めたりしないのだから。


      ●


「急に帰ってきても、何も用意してないわよ」台所から慌ただしい音がする。母親が冷蔵庫を開けたり閉めたりする。「帰ってくるなら連絡くらいしなさいよ」しかしその声に怒りはないように思えた。二年ぶりに会った母親はあまり変わっていなかった。対して父親のほうは髪の毛が薄くなっており、地肌が見えていた。


 テレビを見ている父親の横顔を眺める。今何歳だったろう。すぐには出てこなかったが、もうすぐ定年退職を迎えるはずだった。父親はグラスにビールを注ぐと、静かに煽った。そして「飲むか?」と私にビールを向けた。グラスを差し出すとビールが注がれた。白と黄の比率がとてもよかった。


 二人、食卓を挟んで、ビールを飲む。父親はあまり喋らない人だった。だが感情がないわけではない。ただ感情を表すのが下手なだけだ。


 しばらくすると料理が目の前に並ぶ。何もないと言っておきながら、おかずが五品もあった。私は急かされるように料理を胃のなかへ入れていく。父親が「仕事はどうだ?」と言った。私は「何とかやってる」と答えた。母親が「彼女は出来た?」と言った。私は聞こえなかったふりをした。


 同世代の人間はそろそろ結婚をする歳だ。ちらほらと学生時代の友人が結婚したという話も耳にする。そのたびに自分は、どこかで何か決定的な間違いを犯しているのではないか、という気になる。知り合う、仲良くなる、付き合う、結婚する──そんな人としての真っ当なサイクルから、自分は外れた存在なのではないか、と思わされる。


 恋人、まして結婚などは、自分にとってあまりに遠いものだ。


 自分が誰かを愛し、愛されている姿が想像出来ない

 私は好きになった人を、殺してしまうような人間なのだから。


 たった一日で世界は激変した。それはレールから外れたなどと生易しいものではない。人の道からも外れてしまった私は、これからどうすればいいのだろう。どこに行けばいいのだろう。いや、そもそも私に進むべき道などあるのだろうか。


 中嶋さんの笑顔が浮かぶ。もしも、何もかも奇跡的に上手くいっていれば、今日ここに中嶋さんもいたのかもしれない。両親に、今付き合っている人だと胸を張って紹介出来たかもしれない。それはあまりに、あまりに、自分勝手な、品性下劣な妄想だった。


 きみの泣き顔が好きだった。きみの笑う顔が好きだった。きみの何もかもが、好きだった。今となっては、それは嘘のようだけれども、確かに、その気持ちは本当だったと思う。そう思いたかった。


 パトカーがやってきて家の前を通りすぎていった。サイレンの音でその動きがわかった。


「珍しいわね、何かあったのかしら」と母親が言った。私は止めていた息を静かに吐いた。


 実家に帰る途中パトカーを何度も見かけた。そのたびに、もう終わりだと思った。だがパトカーは私を素通りした。私はもう指名手配されているだろうか。それとも、まだこの辺りには情報が来ていないだけだろうか。


 私はあと、どれくらい生きていていいのだろうか。


 鍵が回り、扉が開く音がした。警察が私の居場所を突き止め侵入してきたのではなかった。リビングに入ってきたのは妹だった。鞄と部活のバッグを背負った妹は私を認めるなり「うわ、本当に帰ってきてる」と驚いた様子だった。「え、何で?」


「別に、理由なんかないよ」

「一人? 彼女でも連れてくるのかと思った」


 全身に針を刺されたような痛みが走った。だが表には出さなかった。出なかったはずだ。妹は荷物を置いてくると、二階へ向かった。


「あのさ」と私は言った。「もし俺が人を殺したら、どうする?」


 自分が親だとして、二年ぶりに帰ってきた、大人になって何年も経った息子から、脈絡もなくそんなことを言われたら、箸を動かす手も、呼吸も止まるだろう。こいつは何を言っているのだ、と思って当然だ。


 私は重い沈黙を覚悟した。しかし両親はすぐ「何馬鹿なこと言ってるの」「冗談でもそんなことを言うな。お前はそんなことをする人間じゃない」と否定した。これが親というものかと震えた。


 この人たちから生まれ、この人たちに育てられ、そしてこの人たちに送り出された。


 私は、自慢の息子なのだ。私はこの人たちの期待を裏切ったのだ。

 ごめんなさい、父さん、母さん。私は人を殺すような人間だったのです。


 妹が下りてくると、場が明るくなった。

「この辺で変質者が出たらしいよ。裸で走り回ってるんだって」

「そうなの? 怖いわねえ」


 妹と母親はよく喋る。家のなかで会話をするのは、ほぼこの二人だ。それがこの家の在り方だ。その在り方は、きっとこれからも変わらないのだろう。私は妹の質問をのらりくらりとかわしながら、家族団欒を味わった。この温かさを切り取って未来へ持っていけたらいいのにと思った。


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