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2  『01』


 涙が宝石に見えたのは初めてだった。涙は何もないところから生まれ、やがて輝き出し、ゆるやかに頬を伝って、机の上に落ちた。落ちたら弾けて、ばらばらになった。私はその美しさに、しばし言葉を失った。宝石は一つではなかった。それは無限に生まれるのではないかと思った。それと同時に、この宝石を独り占めしたいという思いに駆られた。この輝きを自分のものに出来るなら、自分の一番大切なものを差し出してもいいと、心の底から思った。そんな思いが自然に湧いてくるほど、私は彼女に見惚れていた。


 それまではただの同僚だった。挨拶くらいはするが、その程度の関係だった。私は彼女のことを何も知らなかった。だがそのときを境に、私は彼女のすべてを知りたくなった。その瞬間、彼女は私にとって特別な存在になった。


      ●


 平日の昼間だというのに店は騒がしかった。どこの席でもそれぞれが人生に疲れたような顔をして、思い思いに酒を煽っていた。私も彼らに倣い、グラスを傾けた。炭酸が喉を焼いた。真昼から飲むレモンサワーは密やかな快感を私に与えた。だがその快感は一瞬のものだった。次の瞬間には不安と絶望が顔を覗かせた。私はその訪問に怯えないよう、それを上回る速さで酒を飲んだ。


 もちろんこんなことをしている場合でないのはわかっている。私はすぐにでも全財産を引き出し、少しでも遠くへ逃げなければいけない。まだ誰にも露見していないうちが勝負なのだ。初動にミスがあればそれが致命傷になりうる。もっとも、それは死ぬのが遅くなるか早くなるかの違いでしかない。いずれ死ぬことは確定している。だから、まずは冷静になるために、居酒屋へ飛び込んでみたのだが、その店内の暖かさにあてられて、何となく腰を落ち着けてしまった。


 いじっていた携帯がテーブルへ落ちた。骨と骨がぶつかるような音がした。携帯を拾うが、しかしまた落としてしまう。指が震えてまともに携帯を持てない。先ほどから何回も同じような言葉で検索をするのだが、そのたびに逃れられない現実に首を切り落とされそうになる。


 調べれば調べるほど私に逃げ場はないようだ。警察が無能なのはフィクションのなかだけであって、現実の彼らは相当に優秀らしい。どこに逃げようとも彼らの手は私を捕らえるだろう。今や街のいたるところにカメラがあり、あらゆる行動が記録に残る。店の上隅にもカメラが設置されている。いずれあのカメラの映像も捜査資料として使われるのだろう。私は何を思ったか、カメラに手を振った。


 会社に電話をかけたくなるのを、吐瀉物を我慢するようにこらえる。何ということをしたのだろう、という気持ちはある。だが、これはいつか起きることだったのだ、とも思う。彼女を愛しいと思ったあの瞬間から、今日のことは運命づけられていたのではないか。遅いか早いか──これもまた、それだけの違いだったのだろう。電話はしなかった。


 中嶋さんはもう発見されただろうか。血は彼女の頭から流れていた。彼女は頭から落ちたのだ。きっと助からないだろう。犯人は明白だ。中嶋さんが落ちたと同時に、社員が一人いなくなっているのだから。どう考えてもそいつが犯人だ。


 もしかしたらあの赤い血のなかに彼女の脳味噌も混じっていたかもしれない。私はつまみに頼んだイカの塩辛を口に放り込んだ。酒のおかげかあんなにうるさかった『トルコ行進曲』はすっかり演奏を止めていた。今自分の頭のなかはとても静かだった。


「どうしたの、兄ちゃん。泣いてんの?」


 急に肩に手を置かれ、びくっとなった。横を見ると顔を真っ赤にしたおじさんが笑みを浮かべていた。おじさんの前のガスコンロで貝が焙られていた。私は泣いていたのだろうか。目をこすってみるも湿った感じはしなかった。


「いえ、大丈夫です」

 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。でもそう言うしかなかった。


「そう? ならいいんだけど。兄ちゃんみたいな若い子が真っ昼間から酒飲んで悲しそうにしてるから、何かあったんかと思ってね。ほら、乾杯」


 グラスを向けられたので乾杯した。軽い音がした。


「何? 仕事中?」

 私は首を振り、仕事はもう終わったと返した。それにおじさんは、偉いねえ、とうなずき、俺が若い頃は仕事中でも飲んでたよ、と聞いてもいないのに語り始めた。声は酒で焼けていたが、聞いていて不快ではなかった。おじさんが飲酒しても交通事故を起こさないコツを語るのを、私はぼうっと聞いていた。


「おじさんは、人を殺したことってありますか?」

 ふと、私の口が開いていた。


「それはないなあ」とおじさんは唸った。「兄ちゃんはあるの?」

「ええ、あります」

「それはやばいね。どうだった?」

「わかりません。ついさっきのことなので」

「そっか……」とおじさんが酒を煽った。「まあ、人生色々あるよな」おじさんのテンションが明らかに下がったのがわかった。その後は特に会話はなかった。私は伝票を持ち、席を立った。


 店を出ると、私は雲を踏むように固い地面をふらふらと進んでいった。まっすぐ歩くことが出来なかった。


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