1 『バイオレンス』
なぜ今『トルコ行進曲』なのだろう。明るい旋律が頭のなかで跳ねていた。人生でこの曲をちゃんと聞いたことはない。どこかで流れていたのを何となく聞いていただけだ。だから今流れている曲は、ところどころ編集されたもののようだった。何なら自分の勝手なアレンジも加えられているだろう。素人が演奏しているようなぎこちない箇所がいくつもあった。だがこれは間違いなく『トルコ行進曲』だった。なぜ今『トルコ行進曲』なのだろう。私はトルコ生まれでもなければ、トルコに行ったことすらない。トルコアイスすら食べたことがないのに。
ドアノブが氷のように冷たい。このドアの向こうにはみんながいる。一緒に働く仲間がいる。全員と気が合うわけではないし、何年も同じフロアにいて一言も話したことがない人もいる。でも、仲間だと私は思っている。何の因果か同じ会社で働いているのだから、それはもう運命としか思えない。ドアを静かに開ける。少しでも軋まないよう細心の注意を払う。震える手でそれが出来たのは奇跡としか言いようがないだろう。
オフィスは薄暗い。昼休みは節電のため明かりを消すことになっている。窓から光は差し込んでいるが、ブラインドがそれを遮っているため、まばゆく照らすには至っていない。私はぼんやりとしたなかを身を小さくしながら進む。静かだ。携帯をいじったり、机に突っ伏して寝ている人間が大半だった。私は誰も自分に注意を向けることがないよう祈った。自席に着くと、荷物をまとめる。不審に思われてはいけない。少しでも音や動きに違和感を持たれたら、私は終わってしまう。暴れる馬のような気持ちを必死になだめながら、鞄に物を詰めていく。
支度を終えると、来たとき以上に気配を殺しながらドアへ向かう。そこで中嶋さんの席が目に入った。彼女の席にはメモ用紙と筆記用具、飲みかけのペットボトルのお茶、それからパソコンの横にミッキーとミニーの小さなフィギュアが置かれていた。その席の主はいない。いるわけがない。
廊下に出ると大きく息を吐く。自分の体が何パーセントか縮んだように感じた。私は誰もいない廊下を進んでいく。エレベーターまであと少しだ。しかしトイレの前を通りすぎようとしたら、トイレから大塚さんが出てきた。心臓が跳ねた。全身が硬直した。私の顔は自分でもわかるくらい引きつっていた。
「あれ、清水もう帰るのか?」
不審に思われるな。自然に受け答えをするのだ。
「え、ええ。ちょっと体調が悪くて」
「確かに顔色が悪いな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
「ゆっくり休めよ。お大事にな」
「ありがとうござい、ます」
会釈をし、私は逃げるように、いや逃げるために廊下を後にした。そしてそのままエレベーターには乗らず、横の階段を駆け降りた。十階分の高さが一瞬でなくなった。上の階を見上げる。その高さに私は愕然とした。
ビルから出るとコートを着ていても肌寒さを感じた。もう冬だった。白く濁った空に太陽が添えられていた。
足が止まる。
私は会社の裏に回り、非常階段の下を確認しなければならない。だがそちらに行ってはいけないと心が警鐘を鳴らしていた。
行くべきか、行かないべきか。
結局私は、行かないことにした。私は体を丸め、人ごみに紛れた。相変わらず頭のなかでは『トルコ行進曲』が跳ねていた。